おまけ:はじめての朝
「そういえば、どうして高校生の頃『付き合えない』って言ったの?」
休日の、もうすぐ午後を回るという微妙な時間。
少し前に揃って起きた私たちは、ぼんやりと食事をとりながら、晴の家のダイニングで向かい合って座っていた。
「……高校の頃? なにがあったんだっけ」
恋人になってから知ったことなのだが、晴は意外にも寝起きが悪いらしい。
そのため今もあまり目は開いておらず、弱々しくトーストにかじりついている。
「初めてしたとき……私、晴に『付き合う?』って聞いたんだよ。晴って真面目そうだったし、そうしたほうがいいのかなって思って。だけど晴、そのとき『付き合えない』って、」
「ぶふッ!」
トーストの細かなカケラが舞う。何に慌てたのか、晴の目はぱっちりと開いていた。
頬も赤い。何かまずいことを聞いてしまったのだろうかと思いつつ、そばにあった牛乳の入ったグラスを晴に寄せる。
「ごめん、そんな反応されると思ってなかった」
牛乳を飲み干した晴は、ようやく落ち着いたのか「大丈夫」と言いつつも苦い顔を浮かべた。
「……まあ、ほら、あの頃は多感な年頃だったから……」
「え、うん」
「……俺、あの頃から牧野のこと気になってたし……だから、つまり……牧野が俺を好きだと思ってないのに、付き合うのは嫌だなとか、思って……」
ちらりと、晴の目が私に向けられた。
「やっぱり分からないって顔してる……」
「ご、ごめん……付き合えば良かったのにって思って」
「付き合いたかったよ。だから『付き合わない』じゃなくて『付き合えない』って言ったんだろ」
微妙なニュアンスの違いだが、確かに、付き合いたくないなら『付き合わない』と言っていたはずだ。
そんなことに今更気付き、変なところで感心した。
「……てか、牧野は?」
「……え?」
「結局のところ、牧野はいつ、どうやって俺のことが好きって分かったの」
頬を赤らめたまま、照れ隠しのように目を細めて晴が問いかける。
いつ、どうやって――そのきっかけはなんだったかなと、必死に記憶を遡っていく。
「……晴に、彼女が出来たって聞いたとき」
「やっぱり独占欲がきっかけだったりして」
「どうだろう。独占欲だったのかな」
あれは確か、体の関係が終わって少しした頃だった。
晴に彼女が出来たと聞いて、晴が自分以外の誰かに優しく触れるのかと、優しく笑いかけるのかと思ったら、すごく悲しくなった記憶がある。
何より、
「私との関係が終わったあとにそれを聞いたから、関係を終わらせたのは『本当に好きな人』が出来たから、私のことが好きじゃなかったって目が覚めたんだと思ったんだよね」
擬似的にでも、明確に「気持ちが離れる」ということを目の当たりにしたからかもしれない。
「晴がそういう気持ちを向けるような相手に私はなれなかったんだって悲しくて、同時にその人が羨ましくて、すごく苦しくなったの。きっかけは多分それだったと思う」
晴の特別になれなかったことに身勝手に傷ついて、晴が特別だったと気付いた。なんとも皮肉なものである。
「……晴? どうしたの?」
残っているトーストを皿に戻し、晴は机に突っ伏していた。
ちらりと見える耳は赤い。表情は分からないが、体調が悪いということでもなさそうだ。
「晴?」
「俺さあ……普段はクールなのに意外と表情に出てるところとか、警戒心バリバリ強いのに内側に入れたら名前で呼ぶくらい心許しちゃうところとか、甘えるのが下手なところとか、言葉足らずなところとか、考えすぎるところも、ちょっとズレてるところも、全部魅力的だと思うよ」
「……うん?」
いったい何の話が始まったのだろうかと、突っ伏している晴を覗き込もうと体を傾けると同時、晴が勢いよく姿勢を正した。
頬は先ほどよりも赤い。しかし熱の浮かぶ目はやっぱり真っ直ぐに私に向けられていて、私の背筋も無意識に伸びる。
「今の、俺が思う、牧野の好きなところね」
「え! あ、そうなの。えっと……ありがとう……?」
「うん。絶対大事にするから。もう不安にさせないし」
「私もさせない」
「それはマジで頼むね……俺、牧野の言葉に結構一喜一憂するから……」
晴は私の言葉足らずを「魅力的」と言ってくれたが、それでも晴を傷つけたくはない。晴を不安にさせないためにも、ゆっくりでも良いから「伝える」ということはしていかなければと、改めて心に決める。
そんな私の正面。トーストをかじる晴の目がふと、窓の外に向いた。私の目も思わずそちらに引っ張られる。
窓の外には、雲ひとつ見えない、晴れやかな空が続いていた。
「今日何する? 天気いいから外出る?」
「うん。いいよ」
「何かしたいことある?」
「晴は何がしたい?」
「また俺優先にしてる……よし。じゃあ牧野のやりたいことアキネーターするわ」
「何それ」
「えー、あなたは今、映画の気分ですか」
「あ。最近公開されたサスペンスホラーなら観たい」
「それ俺がこの前観たいって言ったやつじゃん……牧野も観たいの? 本当に?」
こちらに疑いを向けながらも、晴はさっそくスマートフォンで上映時間を調べ始めた。
晴は恋人になってから、自分が優先されることに敏感になった。優先されることが嫌というわけではないが、晴的にはもっと私を優先したいらしい。
「本当に。あのナントカって監督の映画が観たいの」
「ジャック・ロー監督ね。それ俺が言ったやつでしょ」
「そうだよ。晴の好きなものだから、知りたい」
ピタリと、スマートフォンを操作していた晴の指が動きを止めた。
やがて上目に私を見ると、何やら悔しげに目を細める。
「ずりー……そうやって可愛いこと言って、また俺を丸め込もうとする」
「してないよ。本当に思ってる」
「俺だって牧野の好きなもん共有してほしいよ」
「私の好きなもの……」
例えば、何があるだろうか。
好きな食べ物。好きな場所。好きな時間。好きな映画。好きな――。
「分からない、かも」
「あー、うん。それは追々教えてよ。俺は焦らない男です」
どうやら晴は、私が壁を作ったと思ったようだ。気付いてすぐに、「そうじゃなくて」と言葉を続けた。
「私、世界が狭かったから、本当に何も知らなかったの。でも中学生の頃に晴と出会ってからは、晴が全部教えてくれたでしょ? だから、私に好きなものを聞かれても、ほとんど晴と同じになっちゃうんだよね。それ言っても晴は納得してくれないだろうから、分からないって言うしかなくて……別に、言いたくなかったわけじゃないよ」
下手くそでも、言葉足らずでも、きちんと伝える。それは、晴と恋人になったときに努力しようと思ったことのひとつだった。
トーストを食べ終えて、牛乳を飲む。
そういえば晴はとそちらを見れば、またしても机に突っ伏していた。
「ど、どうしたの、晴」
「いや……敵わねえなーと思って……」
「なにが?」
「なんでもない……もうそのままでいて……」
今回は机に突っ伏したまま、長い時間起き上がってこなかった。
その隙に、空いた食器を持ってシンクに向かう。
ちらりと、突っ伏した晴の横顔が見えた。その表情があまりににやけていたから、下手くそなりに伝えられたのだなと、なんだか嬉しくて私も笑ってしまった。
ありがとうございました。




