第2話
『土曜、ご飯行かない?』
そんなメッセージが晴から届いたのは、失恋から二週間が経った頃だった。
会わなくなって一ヶ月半。当たり障りのない会話を繰り返していたチャットルームに、突然爆弾が放り投げられた心地である。
これは、どうすれば良いのだろうか。
講義中の出来事であり、近くに千早もいない。一旦スマートフォンを伏せて考えないようにして、私は講義に集中しようと、穴が開きそうなほどに教授を見つめていた。
「これ。これ、どう返信したらいいの?」
お昼過ぎのカフェテリアには、まばらに人が座っていた。私と千早もその一角となり、私はひとまず、千早に問題のメッセージを見せる。
周囲の席に人はいない。やけに落ち着いた空気の中、千早はスマートフォンを覗き込んで、考えるように眉を寄せた。
「……ご飯……」
「そう。いきなりのことで、混乱してて」
「分かるよ。諦めようって決めた相手からこれは混乱するよね。しかも彼女持ちでしょ……どういうつもりなんだろ」
先日、晴に彼女ができたことに疑心を抱いた千早が、改めて彼氏に事実確認をしていた。すると返ってきたのは肯定で、晴はアルバイト中も恋人のことを考えて落ち着かないらしい。むしろその彼氏は晴の恋愛相談にも乗っているらしく、晴は恋人とは至ってラブラブとのことだった。
千早は晴に対して怒っていたが、その頃の私はやけに心が落ち着いていて、頭のどこかで「そうだよな」と納得ができた。
晴のような人に、恋人がいないほうがおかしい。むしろ自分との関係を続けて不幸にしなくて良かったとすら思えたほどだ。
初めての失恋に胸は痛むが、不幸を願うこともない。
私たちはこのままフェードアウトするのだろうと思っていたのだが。
「どうしよう……」
「結依、平気なの? ご飯に行ったとして、高倉くんの前でいつも通りにできる? 女の子の気持ちを知りたいとかで彼女とのこと相談してくるかもしれないんだよ?」
「それは、そうだと思う……けど、それよりも、彼女が嫌だよね。その……自分の恋人が、以前体の関係を持ってた異性と会うの」
私の手前言いにくいのか、千早は難しい顔をして、口元を歪ませながらも「いや、かも」と呟いた。
「それが普通の感覚だと思う。……うん。やっぱり断るよ。千早の名前使っていい?」
「もちろんいいよ」
返事を聞いて、私は早速『その日は一日千早と遊ぶから、時間ない。ごめんね』と返事を送った。
するとすぐに「あ!」と千早が声を上げる。やけにカフェテリアに響いたが、少し離れたところに座る知らない学生たちは気にしなかったようだ。
「ごめん! 今度の土曜日、彼氏のところに泊まりだった! もう送っちゃった!?」
「あ、そうなんだ。もう送ったけど……大丈夫じゃないかな。わざわざ彼氏さんに確認とかしないだろうし」
「うーん、そっか。そうかな。そうだといいんだけど……」
メッセージに既読がつく。それを確認して、私はすぐにスマートフォンをカバンに戻した。
その日から、時折ご飯や映画に誘われることが増えた。
千早に相談してみると「彼氏いわく、高倉くん、最近も恋人とは順調らしいけど……でもそれなりに相談はしたいんじゃない?」と言われた。
落ち着いたとはいえ、まだまだ相談に乗れるような自信はないし、何より私みたいな関係の女のアドバイスで何かがうまくいったとしても、恋人も良い気分にはならないだろう。
そう思って誘いを断り続けていた、ある日。
『俺のこと避けてない?』
とうとう、晴から核心を突く言葉が出た。
今は夜で、千早もいない。千早にメッセージで相談しようにも、今日は彼氏とお泊まりだと言っていたから連絡をするのも気が引ける。
私がなんとか切り抜けなければと、スマートフォンに向き合いながら、ゆっくりとベッドに腰掛けた。
『ごめん、避けてたつもりなかった。本当にタイミングが合わなくて』
『本当に?』
『本当だよ』
メッセージを送れば、すぐに既読がつく。そしてすぐに返信が来るため、自分もそれを読んでしまい、返さなければならない。頭をフル回転させながら、丁寧に文字を打ち込んでいく。
夜だから暇なのだろうか。あるいは、彼女と喧嘩でもして寂しいのか。
(ううん。晴はきっと、寂しいからって、恋人に不誠実なことはしない……)
なんとなく確信したとき、晴からメッセージが返ってきた。
『でも、全然会えない』
そんな言われ方をされて、どう返そうかと悩んでいると、続けてメッセージが更新される。
『牧野からまた飲みに行こうって言ってくれたのに』
そういえば最後に、そんなことを言った。
あのときはまだ晴への気持ちに気づいていなかったし、晴に恋人ができることすら考えていなかったからだ。
今は状況が違う。
なにより、晴は恋人のために、私と会うべきではない。
(……そっか。変に嘘ついてるから、避けてるって思われるんだ)
それならば、私が断り続ける理由を話してしまえば良い。そうすれば晴も理解して、もうメッセージを送ってこなくなるのだろう。そうなるのは嫌だと思いながらも、晴の幸せのためなのだからと我慢する。
『ごめんね。でも、あのときとは状況が変わったでしょ。はの』
晴の、と打ちたかったところを打ち間違えた。消そうとしたのだが、それも間違えて送信を押してしまった。
ゆっくり対応出来れば良かったのだが、慌ててしまったのがいけなかったのか。そのまま続きを打ち込んで送信すると、
『状況が変わったって何』
『恋人に悪いから』
ほとんど同時に、二つのメッセージが更新された。
晴は打つのが早く、私は打つのが遅いために、これまでにも何度かこのような重なりはあった。だから私も気にしないし、晴も気にしていないのだろうと、先ほどの打ち間違いの弁明を入力しながら返信を待っていたのだが。
(あれ。寝ちゃったのかな……?)
既読はついたが、返信は来なかった。
ごめん、晴の恋人に、って言いたかった。そんなメッセージは、送信されることなく取り残される。
確か晴は通知をオンにしていた。もし寝てしまったのであれば、私がメッセージを送ることで起こしてしまうのではないか。
待てど暮らせど、晴からの返事はない。やはり寝てしまったのだろう。それならば起きたときにでもメッセージを送信しよう。
そう思っていたのだが。
翌朝になっても、返事は来ていなかった。
基本的に反応の良い晴が、こんなにも返事を遅らせるのは違和感がある。もしかしたらもう、二度と返事は来ないのかもしれない。
そんな考えに行き着いて、昨日のやり取りで関係が断ち切られたのだとようやく気付いたのは、トーク画面を見ながら大学に着いたときだった。
何か返事があるものだと思っていたから、感覚としては曖昧である。けれど返信がないことが答えなのだろう。
ようやく晴も恋人に悪いと気付いたのか。
あまりにあっさりと終わった関係に、晴の中の私の価値が透けて見えるようで、良かったと思うことすら出来そうにない。
(彼女に比べればそうだよね。私なんか)
体の関係はあったがそれだけで、改めて友達にすらなれなかった友達以下の女である。
早く千早に相談したいなと、早足に教室に向かう。
すると。
「牧野」
聞こえるはずのない声が聞こえた。
思わず振り向くと、思った通り、なぜか関係のない校舎に晴が来ている。
「……え! な、どうしたの?」
「別に……来たらダメだった?」
私の元までやってきた晴は、なぜかじっと私を見下ろす。
「ダメ、ではないけど……」
晴の恋人には悪いことをしているなと、そんなふうに思いながら目を伏せた。
するとそれを察したのか、晴が「恋人に悪いんだっけ?」と周囲を見渡しながら呟く。
やはり晴もひと目を気にしているようだ。同じ大学の人なのだろうか。それならば尚更、軽率に私に声をかけるべきではない。
「そうだよ。私たちの関係を知ったら、恋人はやっぱり関わってほしくないって思うでしょ」
「……なぁ、一時間だけくれない?」
不思議な指定に、一瞬何を言われたのかが分からなかった。
「一時間……? いいけど……あ、でも待って、連絡だけ……」
次の講義は千早と待ち合わせているために伝えておかなければと、バッグの中からスマートフォンを探す。
しかしすぐにその手を掴まれた。
「いいじゃん、すぐだから」
「え、いや、でも連絡しておかないと、」
「結構束縛すんだね」
千早に連絡することが束縛……? もしかして、友人同士でもそう見えてしまっているのだろうか。
そんなことを考えていたら、あっという間に腕を引かれて、ひと気のない校舎の裏に連れられた。知らない場所だ。自分には関係ないために近づくこともない校舎だが、晴はよく知った場所なのかもしれない。
そんな静かな場所の隅に、ぽつんと古びたベンチがある。ベンチの座面をパッパと払うと、晴は「まあ座って」と自身もそこに腰掛けた。
「あのさ……話したいことと、聞きたいことがあるんだけど」
話したいことと聞きたいこと。それは、恋人の話と、それについて相談をしたいということだろうか。
私は平気な顔が出来るのか。不安になりながらも、ゆっくりと頷いて続きを促す。
「えっと……まず、聞きたいこと……牧野さ、いつから彼氏と付き合ってるの?」
気まずげに落とされた質問。それを最後に、ぴたりとその場が固まった。
何度も何度も、頭の中をぐるぐると繰り返す。
いつから彼氏と付き合ってるの? とは。大前提、私に彼氏がいなければ答えられないのだが……晴はいったい、何が聞きたいのだろうか。
「えっと……」
「いや、これは友達として。ほら、相談とかもなかったし、ほんといきなりだったから驚いて」
「それ以前に、私に彼氏は居ないけど」
再び、その場が固まった。
少しあと、訝しげに眉を寄せた晴が、スマートフォンの画面をこちらに向ける。
そこには今日の、私とのトーク画面が映されていた。
「恋人に悪いからって言ったよな?」
「え、うん。それは晴の恋人に悪いと思って……あ、ごめん。一個前のトーク、途中で送信しちゃったの。『晴の』って打ちたかったのを間違えたから消そうと思ったら、消すボタンと間違えて送信しちゃって。それで慌ててたから続けてそのまま」
晴はこちらに向けていたスマートフォンを、今度は自身に向けて確認をする。私が伝えたことと照らし合わせているのか、じっくりとその画面を見たあと、なぜかとてつもなく深いため息を吐き出した。
「ああ、そういうことか。……理解した」
「うん。だからあんまり二人にならないでおきたいの。今日も、一時間だけね」
「…………ん?」
時計を確認する私の隣、何かに気付いた晴が、再びこちらに目を向ける。
「待って、俺の恋人に悪いってどういうこと?」
「……そのまんまの意味だけど……」
「いや、俺にもそんなの居ないけど」
「え? だけど、千早の彼氏さんが……」
千早の彼氏。それを聞いた晴は、意味を充分に咀嚼したあと、しっかりと頭を抱えた。
「だ、大丈夫? 頭痛いの?」
「頭痛いよ。全部繋がった。あの人マジで独占欲強すぎだろ」
「? どういうこと?」
「……牧野さぁ、その情報、伊澄さん経由で聞いたんじゃない?」
「うん、よく分かったね」
私と千早が仲良しであることは晴も知っているから、情報元が割れることは想定内ではある。しかしそれでどうして、晴が頭を抱えるのだろうか。
「伊澄さんの彼氏、藍田さんっていうんだけど、とにかく伊澄さんのことが好きだろ? だからきっとあの人、最愛の彼女から俺の恋愛事情聞かれて、俺に彼女がいるって嘘ついたんだよ。俺に興味持たせたくなくて」
「え、そうなの?」
「当たってると思う。現に俺、あの人に相談とかしてたから、好きな人とうまくいってないって状況も知ってたし、余計そんな状態の俺を伊澄さんに関わらせたくなかったんだろ。どうせ『ラブラブだ』とか『仲が良い』とか聞いたんじゃない?」
すごい、なぜそこまで分かるのか。そんな感情が素直に表情に出ていたのか、私の顔を見た晴は、やはり呆れたように眉を下げた。
「あー、まじかー。焦って損した」
「焦ったんだ」
「そりゃね、なんか急に避けられるし……まぁそれも牧野の勘違いだったんだけど」
よほど疲れたのか、晴はそう言いながら、脱力したようにベンチの背もたれに深くもたれかかっていた。
(彼女、いなかったんだ……)
だけど、好きな人はいるらしい。
結局同じことである。現に先ほど、晴は私をここに連れる前、キョロキョロと周囲を気にしていた。きっと、好きな人に私と一緒にいるところを見られたくなかったのだろう。
ちらりとスマートフォンの時計を確認する。残り四十分。これだけあれば、しっかりと会話ができてしまう。
「何、早く帰りたい?」
不貞腐れたような声に、慌てて隣を見れば、晴がじっと私を見ていた。
「帰っていいの?」
「それは帰りたすぎるでしょ。俺のこと嫌いなの」
「嫌いではないよ」
「じゃあ好き?」
晴の目は、尚もまっすぐに私に向いている。
どう答えたものか。悩んでいると、すぐに姿勢を正した晴が「あー、ださっ」と大きな声を出した。
「ごめん、今のなし。好きなのは俺のほう」
「……うん?」
「俺が、牧野を好きなの」
照れくさそうに、彼は目を伏せた。
「いや、いきなり言われても困るよな……えっと、今から話すこと……ってか、全部告白になるんだけど……聞いてくれる?」
頬が赤い。セックスをしているときですら見たことのなかったその顔に、思わず目を丸くする。
恋をしている顔だ。彼が、他でもない私に向けている。
(私のことが、好きだって……)
信じられない心地のまま、私はなんとかひとつ、しっかりと頷いた。




