天皇の孫と皇帝
『ところで監督、就任会見ではご両親との仲が悪化したと仰られていましたが……試合後に何か連絡は?』
『特にないです。こちらから報告することはありませんし、むこうは腹立たしくてすぐに寝てしまったでしょう』
つばめの両親は野球を忌み嫌っていた。正一金政の息子として育った父は、プロ野球選手の家族であることの苦労に加え、偉大な大投手と比較され続けた。その父に感情移入した母も野球を嫌うようになり、特に金政の所属した東京グリーンペンギンズは夫婦の敵だった。
しかし2人が夫婦で忙しく働いている隙に、金政が幼いつばめに野球を教えた。つばめはすぐにペンギンズのファンとなり、熱狂的と呼べるほどになった。
『ペンギンズのファンというだけで私のことが憎くて仕方なかったのに、監督になるというのだから……縁を切られただけでよかったですよ。この首が斬り落とされていたかもしれません』
『はは………いやいやそんな………』
『すでに絶縁済みですから、私の両親のもとへ取材に行くだけ無駄です。おそらく住所も連絡先も変えているでしょうし、私でも彼らの居場所はわかりません』
金政が死に、両親とも断絶したつばめに家族はいない。つばめはそのほうが気楽でいいと考えるようにした。自分が失敗したせいで家族まで中傷される事態とは無縁だからだ。
「おはようございます。眠れましたか?」
「夜が遅かったぶん、たっぷりとはいかないが……」
試合開始は午後6時だが、つばめは午前11時には練習場にいた。早い時間から汗を流す選手たちの様子を確認するためだ。
「指導はそれぞれ専門のコーチがやりますから、監督はもっと遅い出勤で構いませんよ?全体練習は午後からですし、我々のミーティングも……」
普通の監督とは違い、練習方法や技術の改善に口を出すことはない。細かい状態の変化もおそらくわからない。
「いや、まずはこの生活のリズムに慣れておきたい。私だけのんびりしているわけにもいかない」
「そうですか?それならまあどうぞ」
「早出している選手たちを贔屓することはないから安心してほしい。やる気だけでスタメンに選ぶほど私は甘くない」
今日からスタメンはつばめが決める。コーチたちの意見も参考にするとはいえ、つばめの最終決定に異議を唱えてはならないというオーナーの命令がある。
「なあ……ほんとうに海田はスタメンなのか?」
「昨日の今日だからな。監督の言う通り、普通の選手なら即二軍落ち、下手すりゃシーズン終わりまで干される。代打は出したがそれ以外にお咎めなしってことは……監督も海田と争うのは避けたいんじゃないの」
海田を敵に回せば、彼を慕う選手や多くのファンも敵になる。前監督やコーチたちが海田を特別扱いしていたのはそれが理由だった。
「怖いものなしに見える女子高生監督も『皇帝海田』には逆らえないか。そういえば監督のじいさんも『天皇』って呼ばれてたらしいぜ」
「監督を無視して勝手にリリーフ登板したり、エラーした野手をマウンドに呼んで罵倒しまくったり……当事者はもうほとんどこの世にいないけどな」
天皇の孫と皇帝、今のところは皇帝の勝ちに思えた。しかしそれは昼の全体練習が終わり、スタメンが発表される時間までだった。
8 岩木
6 土場
5 青山
3 オズマ
7 山内
9 丸田
2 大矢木
4 海田
1 奥
前日に活躍した土場と大矢木を二人とも先発出場させる。しかも土場は2番、上位での起用だ。しかしそれよりも皆が驚いたのは『8番海田』だった。
「コーチ!これは……」
「俺たちは何度も考え直すように言ったよ。せめて7番にしてくれと………だがとうとう譲らなかった!」
屈辱的な打順だ。投手が打席に立つド・リーグで8番打者は『野手の中で最低の打力』の者が入る。
「……当てつけか?こんな嫌がらせに何の意味が?」
とうとう海田が席を立ち、つばめを問い詰める。しかしつばめは口に手を当てながら笑い始めた。
「ふふっ……それは違う。嫌がらせだなんて陰湿な真似、誰がするものか。これが最善のオーダーだからこうしたまでのこと」
「それなら大矢木より下というのは……」
「大矢木と奥が並んでしまっては相手に楽をさせてしまう。丸田が出て大矢木が送り、チャンスで海田鉄人が打つ……その形のほうが遥かにいい」
不調が続いている海田だが、実績はずば抜けている。かつて痛い目に遭ったピッチャーたちは、いまだにストライクゾーンで勝負しにくく感じていた。
「球界の盟主などと宣うビッグリーダーズに勝つ、それは何よりも優先されるべきことだ。やつらを私たちのいる底辺まで引きずり下ろすぞ!」
(そうか、こいつは監督である以前にペンギンズの大ファンだったな)
大人気チームのビッグリーダーズも東京が本拠地だ。それなのにペンギンズのファンになる人間は『アンチビッグリーダーズ』がほとんどだ。つばめの場合は少し事情が違うが、普通のファン以上にビッグリーダーズが嫌いだった。
「18歳の女の子がおじいちゃんの影響でペンギンズファンになって、大好きなチームを勝たせようと頑張っていると思えばかわいいじゃないか」
「大人として優しく見守ってやろうぜ」
つばめに厳しい視線を向けていた者たちの態度が柔らかくなった。周りがこうなってしまった以上、海田と仲間たちもここは引き下がるしかなくなった。
『7番キャッチャー大矢木、背番号27!8番セカンド……海田!背番号1!』
「海田が8番だと!?またあのメスガキか!」
「負けたら全裸で土下座させろ―――っ!!」
試合開始30分前にスタメンがファンの前でも明らかになると、ペンギンズファンの怒号と汚いヤジが響いた。応援団のトランペットすらかき消すほどだ。
「東京湾に捨てちまえ、そんなガキ!」
「家族がいないなら俺が喪主をやってやるぞ!」
物騒な言葉も飛び交う中、つばめは悠然と選手たちの動きを見ていた。先発投手の奥伸義は開幕からローテーションを守っているがまだ未勝利、防御率は5点台だ。早い回から継投に入る態勢だった。
『注目の正一つばめ監督の2戦目、いまプレイボール!ビッグリーダーズのトップバッターは昨日と同じく岡、いきなり要注意打者の登場!』
つばめを断罪するためには海田に活躍してもらうのが一番わかりやすい。小娘にナメられたまま海田が終わるわけがない、ペンギンズファンはそう信じた。
「セカン……あれっ!?」
『抜けた!センター前ヒット!セカンドが追いつくかと思いましたが、少し打球が速かったでしょうか?』
反応が遅れてヒットになってしまった。ビッグリーダーズは首位を走る勢いのあるチームであり、相手の守備の穴は事前に全員が共有している。狙いは当然、近頃動きが鈍くなっているセカンドだった。
「よし、ゲッツー………え?」
『セカンド正面!海田……あっ、前にこぼした!二塁はアウトにしたが一つだけ!』
簡単な併殺が取れない。結局無失点で終えたが、ピッチャーではなくセカンドが不安な立ち上がりという異常事態だ。
『ツーアウト二塁、一塁が空いていますがビッグリーダーズバッテリーは海田と勝負!カウントツーツーから5球目!』
二回裏、先制のチャンスでバッターは海田。強気に勝負してくる相手を後悔させたいところだったが、
「ストライク!バッターアウト!」
「ぐっ……!」
甘い変化球に手が出なかった。全盛期の海田ならありえない三振だった。
奥伸義……大物ピッチャーとして期待されていたが、怪我続きで球速もコントロールも並以下まで落ちる。
山内……打撃を評価されて捕手から外野手へ転向。ただし他球団ならスタメンにはなれない程度の打力。
つばめの両親……野球とペンギンズが大嫌いなので、娘のことも忌み嫌っている。すでに絶縁状態。




