つばめ対騎手①
上野沙弥香を悲劇が襲った2日前、つまり水曜日。この日の始球式には20歳の騎手が来ることになっていた。上野がプロレス界の未来なら、彼は競馬界の希望の星だ。
「えっと……『新浦 王誠』か。3年目、通算勝利数は260勝……これって凄いのか?それとも普通なのか?」
「凄いと思いますよ……多分。重賞も3勝しているそうですし……重賞というのが何を指しているのかわかりませんが」
つばめとみのりは未成年だ。互いの家族も競馬に興味がなく、全く知識がない。天才ジョッキーと呼ばれる新浦がどれほどの存在なのか、調べても理解できなかった。
新浦王誠はデビューの年にいきなり90勝、それまでの新人最多勝利数を大きく更新する。2年目には105勝を挙げ、関東ではトップに輝いた。そして今年はここまで65勝。全国リーディングも夢ではない位置にいた。
「日本の競馬史上最高のジョッキーになると言われているそうです。あらゆる記録を塗り替えるだろうと」
「そうか……ん?でもこれを見ろ。一番勝ってるやつは7000勝以上しているぞ?年間最多勝利数も約500……これは抜けないだろう」
つばめが見ていたのは地方競馬の記録で、新浦が所属する中央競馬とは別物だ。
「時代が違うのでは?つばめさんのお祖父様である正一金政さんの記録も、現代では絶対に更新できないものばかりです」
「いや、歴代1位の騎手は最近まで現役だったらしいぞ?500勝も21世紀になってからだ」
しかしつばめやみのりにその違いがわかるはずもない。しっかり調べたら仕組みがわかるだろうが、2人ともそこまで真剣にやっていない。新浦が勢いのある騎手だという予備知識だけあれば問題ないからだ。
「金持ちが税金対策に馬主になることがあると聞いている。あなたの家には馬はいないのか?」
「勧められたことはあったらしいですが、別の方法にしています。つばめさんもそのうち声をかけられるかもしれませんよ?出来高やグッズの売上金、株価の上昇などを合わせたら10億円以上の報酬になります」
ブームはいまだ静まる気配がない。球団や親会社、関連する企業にプラス効果を与え続けている。成績が悪化して出来高がマイナスになったとしても、つばめはかなりの金額を手にすると予想されていた。
「私が馬主に?それはないな。馬よりも家を買う。ペンギンズグッズが大量に保管できる大きな家が。管理するのが大変そうではあるが……」
「私がいますから安心してください。掃除や庭のお手入れ、何でもやりますよ」
「ふふふ……私が監督を辞めたらこの関係も終わりだろう。まあ豪邸を買ったらその時はよろしく頼む」
つばめとなら小さな古いアパートでもいいと思うみのりだった。むしろそのほうが……などと妄想を膨らませていた。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそお招きいただきありがとうございます」
いきなり喧嘩を仕掛けてきた上野とは違い、新浦は礼儀正しく頭を下げた。競馬の騎手は体重制限があるため、低身長の者が多い。ただし新浦よりも背の低いプロ野球選手も稀にいる。
「野球の経験は?」
「友だちと遊んだくらいですね。クラブチームや部活のようなレベルではありませんよ」
年下のつばめにも敬語を使い、今日は落ち着いて見ていられそうだと皆を安心させた。ところがすぐに状況は一変することになる。
「常に体重50キロ以下を?それでその腕の筋肉は凄い。私たちには想像もできないほどの節制と鍛錬の日々でしょうね」
体重を維持しながら筋肉もつけるためには、ハードなトレーニングと食事制限が一年中ついてくる。辛いのになかなかそのことを褒められる機会がないので、つばめの言葉に新浦は笑顔になった。
「ははは……この道を選んだのは自分ですから。でもたまに野球選手が羨ましくなっちゃいますよ。好きなだけ食べられるんですから」
「食べるのが仕事でもありますからね」
「たまにテレビで見ますけど、だらしない身体の選手でも活躍できるんですから、いいスポーツですよね!牛や豚が何匹いるんだって思いましたよ!」
場が凍りついた。明らかに野球を馬鹿にした発言だ。しかし新浦はどうしてこんな空気になっているのかわかっていない様子だ。渡辺ジュンや上野沙弥香とは違い、敵意や悪意はない。だからこそ余計にたちが悪いとも言えた。
先輩騎手や自身の騎乗馬に対しても意図せずに毒を吐く。今年のダービーで大敗した時も、「この馬ではどうしようもない。勝ち目はなかった」と発言して馬主を怒らせた。短距離が得意な馬なのでダービーは元々厳しかったと本人は言いたかったのだが、言葉選びと他人の感情を考えることが下手すぎる。意図せずに敵を増やしていた。
「なるほど。小柄の人間が多い競馬の世界からすれば、野球はそう見えるか」
「ダラダラやっている感じも俺にはちょっと合わないですね。競馬のスピードに慣れちゃうと……」
つばめが敬語を使わなくなっても全く気にせず、新浦は失言を続ける。彼のようなタイプはつばめにとって一番の天敵だ。
「スピード感か……確かに競馬はギャンブルだからな。すぐに結果が出たほうがいい」
「………ギャンブル?」
「人々の賭け金で成り立っている競技なんだからギャンブルだろう。あなたたちにとってはスポーツだろうが、世間はギャンブルだと思っている」
つばめからしてみれば当たり前のことを言っているだけで、新浦を怒らせる気はなかった。思わぬ形でやり返していた。
「競馬はっ!!」
「うわっ!」 「うおっ」
新浦が突然立ち上がったせいで椅子は倒れ、飲み物も床に落ちた。つばめは動じることなく、豹変した新浦を冷めた目で見ていた。
「野球なんかよりも遥かに歴史のある伝統的なスポーツ、そしてドラマだ!一頭の馬がこの世に生まれ、競馬場で走れるようになるまでにどれだけの人間が関わっているか、お前はわかっているのか!」
「……………」
「そして僕たちジョッキーがどんな思いでレースに騎乗しているか!豚がガムを噛みながら球遊びをしているだけの世界にいるお前らとは違うということを理解してから言え!」
他人を傷つけることには鈍感なのに、自分が攻撃されるとすぐに怒る。天才ジョッキーと言われているが、扱いにくい男でもあった。
「あなたの言う通り、わかっていなかった。だが私はまだ未成年だ。競馬に詳しかったらまずいだろう」
「………ハハッ!確かにな!こりゃあやられた!しかし最近は金を賭けなくても競馬を楽しむ人たちがたくさんいる!それこそ野球のように、純粋に騎手や馬を応援するんだ」
ゲームやドラマの影響で競馬に興味を持つ若者が増えている。馬券を買わないが競馬場で食事をしてグッズを購入するので、競馬を盛り上げるために必要な存在だった。
「……そうか。やはり私は競馬に関して知識不足だったらしい。そんな楽しみ方もあるのか」
「ああ、人それぞれなんだ。そうだ、プロ野球の監督や現役の選手にも馬主さんがいるのは知ってるか?横浜の監督の馬には僕も騎乗したことがあって、その時は確か……」
あの流れで自然に和解し、しかも穏やかに話が弾んでいる。つばめと新浦、変人が揃うと何が起こるか誰も予測できない。余計な口出しで再び険悪にならないよう、皆は黙っていることしかできなかった。
「今週末、楽しみな馬に乗るんだ。来年は三冠馬になる……その予感がする超大物に」
「三冠か……いいな。ペンギンズに三冠王がいれば多少ピッチャーが弱くても優勝できる。私もそんな逸材に出会いたいものだ」
新浦はまだGⅠを制したことがない。それでもGⅠどころかクラシックレースの三冠を獲れると断言できる馬に騎乗する。新浦の時代が訪れようとしていた。
「人も馬も生き物だ……機械ではない。思った通りに動いてくれないのが歯痒くもあり、面白くもある」
『ストライク!新浦騎手、ありがとうございました!これからもたくさん勝ってくださいね!』
始球式ではワンバウンドで空振りを奪った。ペンタロウは新浦からサインをもらい、飛び跳ねて喜んだ。ペンタロウの中の人が熱狂的な競馬ファンのため、たまに披露するスポーツ新聞での予想は本格的だ。
この日の試合は大ベテランの能登が早々に打ち込まれて敗れた。野球界、そして競馬界に世代交代の波が押し寄せていた。
新浦王誠……2年目で早くも関東リーディングに輝いた、若き天才ジョッキー。日本競馬史上最高の騎手になることが確実と言われている。
地方競馬の通算最多勝は的場文男、年間最多勝は内田博幸。監督兼馬主だったのは三浦大輔(現役時代から)など、現役選手で馬主なのは柳田悠岐などがいる。




