バントのサイン
『正一つばめ……監督。野球の経験はないとのことですが、観戦のほうは……』
『それは問題ありません。祖父の影響で子どものころから数え切れないくらい外苑球場には足を運んでいます。現地観戦だけでなく、テレビ中継やネット放送などで全試合観るほどの大ファンです』
熱狂的なペンギンズファンであることを就任会見の場で明らかにした。祖父の遺言に振り回されたのは確かだが、興味のない世界に無理やり放り込まれたという一部の報道を否定した。
『なるほど。野球のルールや監督の仕事の流れについては理解しておられるということですね。しかもペンギンズの大ファンならば、選手たちの名前や特徴もすでに把握されていると……』
『そのあたりは実際にやってみなければわかりません。ですが私は祖父が、何より私自身が愛するチームのために全力を尽くすと誓います』
つばめの監督就任が最初に発表された時は、ほとんど全てのメディアが猛烈に批判した。客寄せパンダを使った話題作り、チームの低迷をごまかすための暴挙、野球への冒涜……挙げればきりがなかった。
しかしこの会見に直接参加した報道関係者は、それ以降は否定的な言葉を語らなくなった。普通に考えればありえない話だが、この少女ならペンギンズを救えるのではと本気で思うようになったからだ。
映像越し、または記事を読むだけでは意味がなく、その場にいた者たちだけが心を動かされた。筋道立てて説明するのは難しいが、とにかく正一つばめが暗黒に染まったチームを変えると確信していた。それだけの何かを皆が感じた。
『どうにかツーアウトとしましたがランナー二、三塁!打順は9番のピッチャー上村ですが………』
ビッグリーダーズの監督、棚橋が出てきた。それに続いて出てきたのは小島というベテランの代打屋で、上村はベンチで汗を拭いていた。
『ピンチヒッターです!どうやらバッターは小島!確かに追加点のチャンスですが、上村はまだまだ余力を残していたような気がします』
『私もそのまま打席に立たせると思ったよ。ペンギンズの早仕掛けが伝染しちゃったのかな?』
女子高生監督の初戦は朝から異様な空気だった。上村は5イニングで球数はたったの48、許したヒットも全て打ち取った打球だ。通常なら絶対に代えないが、棚橋はなぜか代打を出してしまった。
「ストライク!バッターアウト!」
「よしっ!これで勝ち目が出たぞ!」
続投されていたら間違いなく負けていた。つばめの力で敗北の運命をねじ曲げた。
「まだ六回……相手は1人1イニングとしても4人は投げる。そのうち誰か調子の悪いやつが出てくる!」
「まあその前にこちらが失点したら元も子もない……」
つばめが小声で呟いた。そして投手コーチを睨む。
「……わかりましたよ。ビハインドですが勝ちパターンのピッチャーを用意します」
18歳になったばかりのつばめの迫力に負けたことに苛つきながらもコーチは従った。オーナーの後ろ盾や伝説の投手の孫という肩書きは関係なく、つばめ本人の放つ鋭い威圧に屈したのだ。
『ビッグリーダーズのピッチャーは真田!あと4イニング、継投で逃げ切れるか!?』
先発投手が絶好調だと、救援陣は難しくなる。代わってくれて助かった、打ちやすくなったと相手が元気を取り戻している。
「さすがにやつらもそこまで馬鹿じゃなかったか」
「この回は厳しいかもしれませんね」
右の本格派、上村の直後はサウスポーの変化球投手を使ってきた。タイプが大きく変わってしまったので、簡単には攻略できない。
『スリーアウト!真田、7球で片づけた!』
『ペンギンズの星野もナイスピッチング!ビッグリーダーズの上位打線をしっかり抑えた!』
六回裏、続く七回表はすぐに終わった。そしてこの日最大の事件が起きたのはペンギンズのラッキーセブン、その攻撃中だった。
『二塁セーフ!オズマ、ツーベース!代わった吉橋のストレートを左中間、大きな当たりでした!』
「同点のチャンス!だが……」
「あれがホームランにならないんだから、やっぱり力が落ちたよな、オズマのやつ」
まだ契約は2年も残っている。投資した金の回収は絶望的だ。そして次も長期契約中のバッターだ。
『ノーアウト二塁、海田の今日3打席目!』
「……………」
長い不振に苦しむキャプテンがバッターボックスに向かう。その間つばめは何かをじっくり考えていた。
「どうしました?オズマに代走ですか?」
「………いや、問題ない。もう決めた」
ランナーを代える気はなかった。考えていたのは海田への指示だった。素早くサインを送る。
「えっ………!?それは………!」
「静かに。作戦がバレる」
ペンギンズベンチは騒然とした。そして打席の海田もつばめのサインがその原因だとわかった。
(あいつ……………)
『大歓声が海田鉄人を後押し!ピッチャー吉橋、第1球を……投げた!空振り、ストライク!』
「ん?サインが見えてなかったのかな?それなら……」
「ああ!?」 「ゲェーッ!!」
つばめはベンチの一番前に立つ。そしてサインではなく、バットを横にするジェスチャーをしてみせた。
「か、監督!」
「これなら誰でもバントだってわかるはず。ここは確実に三塁に進めたい」
まさかの行動に出た。しかしこれを見て動揺しているのはビッグリーダーズのほうだった。
「あのガキ………!ふざけた真似をしやがって!」
ビッグリーダーズの棚橋監督は怒りのあまり震えていた。相手にもバレバレのバントのジェスチャー、これはつばめのオリジナルではない。つい最近この世を去った『ミスタービッグリーダーズ』、猪木終身名誉監督のものだった。あろうことか両手でバントの形を作って選手に作戦を伝えたことがあった。
「偉大なる猪木さんのモノマネだと?クソアマが」
「いや………ただの遊びではないかもしれません。猪木さんがあれをやった試合は確かペンギンズ戦でした。リベンジをするつもりなのでは………」
猪木のサインを見たペンギンズナインは目を疑い、落ち着かないままバント処理をミスして負けた。同じことをやり返す作戦か。
「もしくはこちらの守備を崩そうとしているだけの単純な罠です。バントなんかしないで強打!」
「それだろうな。海田にバントをさせるはずがない。ペンギンズファンが暴動を起こすぞ」
誰もが混乱するなかで、吉橋は足を上げた。バントはないと考え、内野は定位置のままだった。
「ぐっ!!」
『高めに外した球を空振り!ツーストライク!』
やっぱりバントの指示なんてなかった、誰もがそう思った。ペンギンズベンチを除いて。
「スイングしたか………」
つばめは口に手を当てて、何かを考えている。
「当たり前でしょう!もう何年もバントなんてしてませんよ、海田は!」
「ファンが最も楽しみにしている男の打席ですよ?本人もそれをわかっている……サインが出たってやるわけないじゃないですか!」
「………そうか、わかった。タイム!」
見落としではなく、意図的な無視だ。しかも周囲もそれを当然のことと考えている。つばめは勢いよく立ち上がると、ベンチを出てホームの方向へ向かった。
「まさか海田に直接!?もうツーストライク……」
サインもジェスチャーも通じないなら、直接話して伝える気なのか。ペンギンズベンチにいるほとんどの人間が同じような姿勢で頭を抱えていた。
ところがつばめは皆が想像していたよりも遥かに直接的な行動に出た。つばめが声をかけたのは海田ではなく球審だった。
「………え?何の用ですか?」
「代打……土場!」
星野……他球団なら一軍入りも怪しいが、ペンギンズなら大事なセットアッパー。
棚橋……後楽園ビッグリーダーズの監督。
猪木……後楽園ビッグリーダーズのかつての大スター。ミスターと呼ばれていた。




