署名
夕食を終え、つばめは早々にベッドに入った。疲労が溜まっていたので、あっという間に眠れそうだ。
「寝ないのか?」
「もう少しで終わります。お先にどうぞ」
みのりはパソコンで作業をしている。何をしているのか聞くことはせず、つばめはそのまま寝た。
(どのくらい効果があるのかわかりませんが……)
つばめの解任を阻止するために、みのりはネットを使って世論を動かそうと試みている。オーナーの祖父から選手たちの連絡先も教えられているので、あらゆる方向からできる限りのことをする。
(うまくいかなければ今日が最後の夜になるかもしれません。最後に私を抱いてほしいと頼めば、優しいつばめさんはきっと受け入れてくれるでしょう)
静かな部屋の中、作業をしながら無表情で考えていたが内容は激しかった。もちろんこの『抱く』には深い意味がある。
(つばめさんの知識はゼロに近いでしょうが、私の気持ちとやり方を教えたら………しかし……)
成功率は高いと考えていた。それでもみのりが踏み留まったのは、もしこれをしてしまうとほんとうに最後になる気がしたからだ。
(勝負が決まるその瞬間まで諦めません!圧倒的最下位から優勝を目指すつばめさんのように!)
火曜日の朝、ニュースはまだ解任騒動の話題一色だ。球団社長から金を渡されてつばめを否定する発言を重ねた司会者やコメンテーターへの批判が殺到していた。
「球団事務所や本社にも抗議の電話が……」
「フフ……それでいい。まるで猿や犬の鳴き声だな」
皆が対応に追われる中で、神宮寺は笑っていた。
「その中の過激なものだけ残しておけ。殺してやる、火をつける、爆破する……正一つばめの支持者が脅迫に走ることで、正一つばめそのものに悪のイメージがつく。そして我々が正義、善の側になるのだ」
人々を怒らせて暴走させる。それが社会問題や刑事事件に発展すれば、やがて世間はペンギンズの味方になる。つばめを自然な形で取り除けるというわけだ。
「しかし……様々な種類のオンライン署名を集めると、解任に反対する人数が早くも何百万人分集まったとか……」
「ふん。そんなもの、一人で無限に署名できる上に何の力もない。便所の落書き以下だ」
放っておけばいずれほとぼりは冷め、女子高生監督がいたことも忘れられていく。世論を味方にできなくても、神宮寺の勝利は固かった……はずだった。
「しゃ、社長!大変なことが!」
「どうした?落ち着け……うおっ」
息も絶え絶えの部下は汗まみれだ。神宮寺は思わず距離を取ってしまったが、構わず迫ってきた。
「とにかくこれを!」
「動画か……ん?海田鉄人!?」
つばめとの話し合いで休養が決まり、チームを離れて調整を続けていた海田が画面の中心にいた。数十分前に配信された動画だった。
『ファンの皆さん、こんにちは!海田鉄人です。復帰に向けて確実に前進していますので、もうしばらくお待ちください』
「………」 「………」
『早速ですが本題に移ります。すでに皆さんご存知の通り、正一つばめ監督の解任が発表されました。チームのキャプテンとして、ペンギンズ選手会の考えをお知らせします。選手会長の許可ももらっています』
ただの近況報告ではなかった。若手選手たち、そしてみのりからの連絡を受け、海田が動いた。
『正一監督がこのまま解任されたなら僕たちは今シーズン、一切のファンサービスを行いません。サインはもちろん、ヒーローインタビューもしません』
「なっ!」 「何だと!?」
『選手が企画した弁当は全て販売終了、試合中のプレゼントや座席の提供も打ち切ります。そんなことができるのかと思われるでしょうが……必ずやります』
「こいつ……脅す気か!」
オーナー派と球団社長派は、それぞれの内部にスパイを送り込んでいる。誰が敵で誰が味方なのか、常に互いを疑っていた。仲間ですらそんな状況なのだから、職員の一人一人がどちらに属しているのか、それとも中立の立場なのか、とても把握できない。
弁当やファンサービスの中止が実行できるということは、球団社長のそばにいる誰かがオーナー側に寝返ったか、元々敵だったのだろう。選手たちが制裁を恐れずにここまで動けるのも誤算だった。
『もちろん僕たちもこうなってほしくないと思います。ですからファンの皆さん、小さな一歩で構いません!正一監督解任の撤回へ力を貸してください!あっ……もちろん法律やマナーを守った方法で……』
動画の途中で神宮寺はタブレットを床に叩きつけ、踏みつけた。怒りで肩が震えている。
「社長………」
「たかが選手どもが我々と戦う気か!いいだろう、お前たちの望み通り民意に問うてやろう!」
神宮寺と部下たちは緊急記者会見の準備を始めた。
「つばめ監督と海田鉄人は険悪な関係じゃなかったのか?完全に監督の味方だったぞ」
「サインもしないっていうのは極端すぎないか?」
街の人々の話題はつばめとペンギンズのことばかりだ。海田の動画でますます議論は熱くなる。
「いや……チームを改革するつばめ監督の追放に賛成するファンなんか、偽物だと言いたいのだろう。そんな偽のファンにサインをしたところで、転売されるか鍋敷きにされるだけだ」
「鍋敷き……なるほどな」
「本物のファンなら自分たちと共につばめ監督を復帰させるために戦えってことだ。強いペンギンズが見たければ監督は正一つばめ一択だ」
街、テレビ、ネット……あらゆる場所でつばめを支持する声が優勢になっていたその時、神宮寺が記者たちの前に現れた。そして事態は急展開を迎えた。
『今回の件で、世間をお騒がせしていることを深くお詫びいたします。想像を遥かに超えるご意見の数々、真剣に受け止めております』
『そうなると……解任は撤回ですか?』
『皆様の本当の声が聞きたいと思います。その声、ぜひ私たちにお聞かせください!』
決めるのは自分たちではなくファンだと強調した。その方法を発表するための会見だった。
『正一監督の解任に反対する方は、本日午後6時以降に外苑球場へお越しください!そして署名によって反対の意を示していただきます』
『今日の6時から?もう数時間もありませんが、場所は外苑球場だけなのですか?』
『場所を増やしたりネットでの署名を認めてしまうと、ペンギンズファン以外の方々が面白がって参加することもありえます。真のペンギンズファンによる本当の声を知りたいのです!』
いきなり今日中に外苑球場に来いと言われても来るほどの熱心なファンの声なら力がある。一応筋は通った言い分だった。
『10万人……いや、15万人以上の署名があれば今回の話はなかったことになるでしょう』
『15万!?短時間でしかも狭い外苑では……』
記者たちがどよめく。公平な勝負に見せかけて、結果はほぼ決まっている。
『こちらとしてはこのまま監督交代を進めてもよいのですが、最後はファンの皆様に決めてもらいたいと譲歩しているのです』
神宮寺は余裕の表情だ。彼が勝利を確信する理由はまだあった。
『しかし本物のペンギンズファンであれば、夜はぜひオールスターゲームを観戦していただきたい。ペンギンズによるオールスタージャックなのですから!』
新潟で行われる球宴の第1夜は今日だ。ファン投票や監督推薦で大勢の出場が決まったペンギンズの野手たちのスタメンがすでに予告されていた。
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