ケット・D
「――助けて!」
女の子の声を聞いた気がして、僕はふと目を覚ました。
見上げるのは保健室の天井。
壁掛けのデジタル時計の時刻は12:00。
それほど時間は経っていない。
当然、悩美先生はまだ戻ってきていない。
安峰さんはちょうどベッドから起き出したところだった。
その安峰さんが窓辺に近付いて呟いた。
「何あれ――」
「どうしたの?」
「ああ、時枝。見なよ」
安峰さんが示した先を見る。
校庭の地面上をぐにょぐにょと何かが蠢いていた。
ミミズだ――。
でも、大きさは普通のミミズじゃない。
胴径が5センチメートルくらいあるんじゃないだろうか。
1匹や2匹じゃない。10匹や20匹でもない。
夥しい数の巨大なミミズが、蠕動しながら校庭の上を這い回っている。
「何かヤバそうな感じ。避難しておいた方がいいかも。体調は大丈夫?」
「大丈夫そう」
少し眠ったせいか、頭痛はもう収まっていた。
「それなら行こう」
僕たちは保健室を出た。
1階の廊下に生徒たちの姿はない。
「校庭に逃げるのは危ないかも。上に行こう」
安峰さんに促されて、エスカレーターに乗る。
安峰さんがエスカレーターの上を歩いていくので、僕も後を追いかける。
2階と3階にも生徒たちの姿はない。
屋上に出てみても、避難している生徒は誰もいない。
みんな下校したのだろうか。
試験期間中だから学校は昼休み前に終わる。
部活動もない。
校庭の様子を窺ってみる。
「嘘だろ――?」
手摺りの向こうを見て僕は思わず声に出していた。
目の前には恐ろしい光景が広がっていた。
東京の街が壊滅している。
高層ビルの群れが軒並み崩れ落ちているのだ。
まるで巨大地震にでも見舞われたかのようである。
東京タワーが折れている。
僕は夢でも見ているんだろうか――?
「スマホが起動しない」
安峰さんがスマホを操作しながら言った。
「――本当だ」
僕のスマホも起動しなかった。
これでは助けを呼ぶこともできない。
でも、電波が届かないだけならともかく、なんで起動すらしないんだろう。
その時。
突然、屋上の平場の上に六芒星の紋様が生じた。
まるで召喚呪文のように、中から1匹の黒猫が現れる。
そして、紋様は役目を終えたように消えた。
現れたのはただの黒猫ではない。
喋る黒猫である。
「ようやく人間を発見したぞ。しかも、2人もいるじゃないか」
黒猫が歩いてくる。
二足歩行だ。
「吾輩はデーモンである。名前はケット・D」
身長は僕の膝くらいまでの高さ。
肉球のある手にはなぜかスマホを持っている。
「貴様ら、ワームの倒し方、知らないだろう? 吾輩は知っているぜ。貴様らに教えてやろうか――?」
僕は安峰さんと思わず顔を見合わせる。
「デーモン? 悪魔ってこと?」
ケット・Dと名乗った黒猫に対して、安峰さんが気後れもせずに尋ねる。
悪魔に対してため口で大丈夫なんだろうか。
ちょっと不安になってしまう。
「悪魔はDEMONのデーモンだが、吾輩はDAEMONのデーモンだ。まあ、お助けロボットみたいなもんだな」
「DORAEMON?」
「そうじゃない」
「権利とか大丈夫なわけ?」
「大丈夫も何も、吾輩は黒猫だしちゃんと耳があるぞ。秘密道具はスマホだし全然違うじゃないか」
「好きな食べ物は?」
「焼きビーフン」
話がそれかけていたので僕は口を挟むことにした。
「それより、いったい何が起きたの?」
安峰さんにならってため口である。
「ここは基底世界。吾輩が貴様らを転移させたのだ」
「転移? じゃあ、ここは東京じゃないの?」
「いや、東京であることには変わりない。ただ、基底世界と派生世界とでは時空が異なっているのだ」
「派生世界っていうのは僕たちの世界のこと?」
「そうだ」
「どうして僕たちを転移させたの?」
「貴様らに適性があったからだ。誰もが基底世界に転移できるわけではない」
「いや、そういうことじゃなくて、僕たちを転移させていったい何をさせようというの?」
「この東京の姿を見てもまだわからないのか? すべてワームの仕業なんだ」
「ワームっていうのはあの巨大なミミズのこと?」
「そうだ。このままでは、いずれワームは基底世界のあらゆるリソースを食い尽くしてしまうだろう。まあ、吾輩はそれでも別に困らないけどな」
「どういうこと? 別に僕たちに助けてほしいとかじゃないの?」
「は? 吾輩はお助けロボットみたいなもんだと言っただろうが。貴様らが吾輩を助けるんじゃなくて、吾輩が貴様らを助けてやるんだよ。吾輩は困っていないけど、貴様らは困っているだろうからな。ありがたく思え」
「それってあんたのせいでしょ?」と安峰さんが言った。「あたしたちの世界は平和だったのに――」
「そんなのは、かりそめの平和だ。派生世界はこの基底世界を元にして作られた以上、何も手を打たなければ、いずれ基底世界とまったく同じ運命を辿ることになる。この基底世界の姿は、派生世界の137年後の未来だと思ってくれ。まずいと思わないのか?」
「137年後って――22世紀? あんた、22世紀からやってきたネコ型ロボットなわけ? それって本格的にまずいんじゃ――」
「そっちの心配じゃない! そうじゃなくて、もっと他に心配することがあるだろうが。派生世界もこんなふうになっちゃうんだぞ?」
「正直、そんな先の未来に影響があるとしても、いまいちピンと来ないんだよね。あたし、どうせ生きてないし」
「あのな。言っておくが、派生世界に影響が出始めるのはそんなに先の話じゃない。たった3か月後だ。基底世界に最初にワームが現れたのは2038年1月19日のことだからな」
ケット・Dはそう言った後に、さらりと付け加える。
「その日の内に1億人が死んだ」
3か月後に1億人が死ぬ?
世界の人口は確か90億人くらい。たった1日でその約1%が失われたということ?
そんな僕の頭の中の計算は、すぐにケット・Dに否定された。
「ちなみに日本に限定した死者数だ。世界各国がどうなったのかまでは吾輩は知らん。もうインターネットはまともに機能していないからな」
日本だけで1億人――?
この前、日本の人口が1973年以来初めて1億1000万人を割り込みそうだ、という推計をネットのニュースで見たばかりだ。
そんな推計、完全にすっ飛んでしまうじゃないか。
たった1日で日本の人口の約90%が失われることになる。
「その未来を、僕たちは変えることができるの?」
「ワームはこの基底世界の派生元のさらなる基底世界からやってきた。基底世界の基底世界を食い尽くしてやってきたのだ。ワームの侵攻をこの基底世界で食い止めることができれば、派生世界の未来を変えることができるかもしれない。偉い人たちはそう考えているらしい。だから、基底世界と派生世界――2つの世界を同期させることで貴様らを転移させたというわけだ」
2025/02/01:養護教諭の名前を変更