血濡れた境界線、扉の向こう
大阪府警刑事部捜査一課、第八班所属の刑事、清和は頭を抱えていた。
頭を抱えていたというのは文字通りで、第八班の執務室、中央にある机に広げられた地図を前にして、頭に手をやっている。その地図には、同一人物による殺人の現場が赤丸で示されている。その数は十三人。
「なんでこれで分からんねん……?」
苛立ちを隠さないその声に、他の班員がびくりとして彼女の方を向く。モデルよろしくすらりとした体型の高身長女子である清和は、そのハスキーな声も相まって府警本部内では以前から注目の的だった。おまけに天下の帝都大法学部の首席とあって、性癖のオンパレードに脳を焼かれた男性警察官は数知れず。
そんな彼女の頭脳があれば、一人殺された時点でとっくに検挙できているはずだった。いや、そもそも彼女の頭脳すら必要ないだろう。それほどまでに分かりやすさがあった。
「これだけ証拠があれば、分かりそうなものなのにねぇ」
「……鳩宮」
第八班にはもう一人、女性刑事がいる。清和の同期である鳩宮。おっとりした性格と言動で、清和の醸し出す雰囲気のせいでピリピリしてしまう場の空気をよく中和してくれる。何という偶然か、鳩宮は清和と同じ帝都大法学部の出身、同級生で、しかも次席。つまり日本トップクラスの頭脳が二人も同じ班にいるということになる。
「犯人はこの街の人間だってことは分かってるし、指紋も、凶器もある。次の犯行場所ですらだいたい見当がつく。なのにどうして分かんないんだろうねぇ」
「……ほわほわしとう場合ちゃうで。こっちはそんなこと言うてもう十三人殺されとんねん。ええ加減真面目になりぃや」
「あらまぁ。私はいつでも真面目ですよぉ」
鳩宮が言う通りだった。被害者は全員、全身血まみれになった状態で見つかっている。服を着ているにも関わらず、頭からバケツでもかぶったかのように被害者自らの血で濡れていた。そんな状態で見つかる遺体が何人もとなれば、同一犯によるものと考えるのは自然だろう。そして同じ血で濡れたナイフ、べたべたと遺体を触ってついたであろう指紋が必ず残っていた。最初の三人がわずか八時間の間に殺害されたことが分かった時点で、その街の地理に明るい者の犯行であることは明らかだった。即座に犯罪歴のある人間の指紋との照合が始まった。
「……はぁ」
「珈琲でも淹れましょう。焦っては犯人の思うつぼです」
「……分かっとるわ」
「しかしこれだけ見張ってなお、その包囲網を潜り抜けられるとは……どういうこと、なんでしょうねぇ」
しかし合致する指紋は見つからなかった。犯罪歴にこだわらずありとあらゆる指紋と適合させてゆく。ゲームセンターのメダル払出機に登録された指紋も提供を要請した。その間に四人目、五人目と被害者が増えてゆく。第八班だけでは埒が明かないと、清和が他班に協力要請をかけたのは賢明な判断だった。結果的に今の今まで、犯人の尻尾すらつかめていないのだから。
執務室に上品な珈琲の香りが充満し、最後の一滴までこだわった一杯が清和の目の前に出される。火傷しそうな熱さをものともせず、清和が豪快にごくり、と飲み干した。
「指紋は毎回、違う方のものが検出されています。具体的には、前の被害者の指紋。つまり私たちは、いまだ真犯人の指紋すら入手できていない」
「『真』犯人は語弊ある。犯人の疑いが一度でもかかった人間は、まだおらんのやから」
「……落ち着きましたか?」
「……まあ」
「では、続きを。今回の一連の事件については、指紋は全く証拠にならないと私は考えています。清和さんのご意見は?」
「……概ね、同意」
「概ね、というのは?」
「指紋鑑定はDNAと並んで、現代科学が産んだ強力な捜査法や。それを否定……いや、うちらが否定してるんやない。犯人が否定して嘲笑っとんのが胸糞悪い」
「それについては、私も同意見ですよ。真っ向から挑発されていることに、腹が立っています」
鳩宮がはっきりとそのような言葉を口にするのは珍しい。清和も正直にはっとした顔で鳩宮を見つめてしまったが、すぐに地図に目線を戻した。
「……犯行時刻にもある程度規則性があるし、場所もだいたい見当がつく。見張りも厳重にやっとんのに気づいたら死体が出来上がっとる。何をすれば、犯人が見つかんねや」
六人目の被害者を出してしまった時点で、今の捜査方法は完成していた。すなわち、七人目から十三人目までは、本来であれば出してはならなかったはずの犠牲。清和はその罪悪感に苛まれていた。清和だけではない、少なくとも第八班の全員がそうだったが、彼女は特にその思いが強かった。
「八方塞がりなのであれば、一度奇想天外な手を試してみるのも一つでは。私にお一人、心当たりがあります」
「現場の霊の声でも聞こう言うんかいな。まさかな」
「その、まさかです」
鳩宮がちょいちょい、と執務室のドアに向かって合図を出す。入ってきたのは二人ともと毛色の違う、落ち着き払った女性だった。
「あなたは……」
「捜査二課の郡家。……一課の事件なのに、私が力になれることがあるの?」
「聞けば、郡家さんはイタコさんの一家だとか」
「確かに私の祖母は元々イタコだったけれど……それがどうかしたの?」
鳩宮は詳細を何も知らせていなかった。一通り説明すると、郡家が気怠そうに口を開いた。
「話は小耳に挟んではいたけれど……私に口寄せはできないわよ? 祖母も私が生まれた時点で、イタコはやめてしまっていたし……。せいぜい、人より少し、霊感が強いくらい」
「それでいいんです。郡家さんの力を貸してもらえませんか」
「はぁ……」
郡家がため息をついたが、本気で嫌がっているわけではなかった。人に頼られると断れない、郡家のその性格を見抜いてのことだった。
幽霊と言えば夜だろう。そう鳩宮が主張して、日が沈んだ後に三人はもう一度集まることになった。
「鳩宮、あんたはいっつも何考えてるか分からん女やけど……今回も大概や」
「お褒めにあずかり、光栄です」
「褒めてへんわ」
集まったのは十三人目の被害者が見つかった現場。市立高校の裏山そばに立つ小屋で、まだ関係者以外立入禁止の黄色テープが張られていた。三人とも警察手帳、それから万が一の時に備え武器を持っているのを確認してから、テープをくぐる。
「……それで? 私は何をすればいいの」
「郡家さん、あなたの学生時代の専攻は?」
「……民俗学」
「卒業論文のテーマは?」
「パラレルワールド……並行世界」
「郡家さんにもお話ししましたが、これだけの体制で包囲しておきながら、あれだけ血まみれのご遺体が突如として現れる。普通に考えても、説明をつけにくいと思いませんか」
「……別なる世界の人間の仕業、だとでも言うの?」
「呼び出す、あるいはその存在をここに固定することはできますか? 犯人自身を、呼び出すのでも構いません」
「……無茶を言わないで。口寄せはおろか、降霊術のさわりすら知らないのよ?」
「それでも大丈夫です。わざわざ指紋をベタベタとつけてまで、被害者の全身を血まみれにするのには、何か理由があるはず。それを暴ければ、こちらのものです」
大学での成績で言えば確かに、清和の方が頭一つ抜けていた。鳩宮は次席ではあるが、一位とそれ未満、と言っていいほど差があった。しかし清和本人は、今の環境が当時のままであるとは思っていない。周囲の印象通り、清和は堅物で近づきがたいリーダータイプ、鳩宮は天真爛漫な変人であると自身でも感じている。そして一見奇想天外であって、誰もがあり得ないと一蹴するような話に大真面目に取り組み、迷宮入りしかけた事件を解決する、ドラマの探偵や刑事のような役回りができるのが鳩宮である、とも思っていた。鳩宮のようなタイプは確かに疎まれることもあるが、彼女の発見が事件解決の決定打になることも多い。
「どうですか、何か感じますか」
「……寒い」
「おや」
「真夏だというのに……半袖では耐えられそうにない、寒気がするわね……」
「霊感、あるじゃありませんか」
「霊感『は』ある、と言ったはずよ」
次の瞬間。
ごう、と吹雪のような風が吹いた。直後、三人の肩に雪が降りる。
「なんや……雪……!?」
「始まりましたね。やはり郡家さんのような方が、トリガーになっていそうです」
奇妙なのは、三人の立つ小屋の前だけ、雪が降り出したということ。その範囲から一歩でも外に出れば、汗がにじむ蒸し暑さを感じる。すぐそこは生い茂る緑の匂いが湿度とともに襲ってくるというのに、円の中にいれば凍りつきそうな冷たく乾いた空気とともに、血の臭いが体に流れ込んでくる。まるでそこだけが、別世界となってしまったかのような。
「清和さん!」
奇妙な現象に気を取られていた。鳩宮の鋭い声で清和は我に返る。目の前に突如として現れた、血濡れた人影一つ。そこでとっさに武器を構え、あとワンアクションで自衛ができる程度の訓練は彼女も積んでいた。
これを怪異と呼ばずして、何と言うのか。両腕を上げた状態で覆い被さるように襲いかかってきたその人影を、反射的に拳銃の背で押し返す。拍子抜けするほど軽く、反発力はほぼないに等しかった。腕にべっとりとこびりついた、誰のものとも分からない血を気にしている余裕はなかった。しかし仰向けにばたりとその場で倒れ込んだ人影の顔が見えて、清和はさらに戦慄した。
「こ……これは……」
次にさらなる危険が迫っても対応できるよう、鳩宮と郡家が駆け寄り声をかけても、清和は呆然とそうつぶやくことしかできなかった。
清和がとっさに突き飛ばした時、骨格は男のそれだと感じていた。しかし今顔を見てみれば、女そのもの。そして腹や胸、顔など、至るところから出血していた。男――これが生きている男だと仮定しての呼び方、だが――男は、力なく倒れ動く様子もなかった。意識を失っているのか、あるいは死んでいたのか。
「ひとまず、こちらの世界に固定はできたようですね。……然るべきところに、任せましょう」
職業上、他人の血を見る機会はごまんとある。が、清和はその夜、なかなか寝付くことができなかった。
「……生きている人間、ではあったようね。死にかけだったけれど」
「ほんで鳩宮はなんで、あんな飄々と取り調べができんねや」
あの夜以来、清和は血まみれの男がトラウマになってしまったようで、どうにも近づくことができなかった。だから昔から霊障の類に慣れている郡家はともかく、同じ現場にいたはずの鳩宮が何の変わりもなく取り調べできているのが清和は不思議でならなかった。
男の言い分は、ひどく奇妙だった。十三人殺したのは事実であり、偶然やってきた郡家を十四人目のターゲットにする予定だった、と初めに述べた。その理由は、郡家を含めターゲットの全員が、こことは異なる、別の世界からやってきた人間であるため。
「今流行り? もう流行ってへんのか、異世界転生いうやつ」
「そのようね……彼の言葉が正しければ」
「アレはフィクションの中の話やろ。実際この世界で、やれ女神に召喚されるだの、やれトラックにはねられて異世界に行くだの、そんなこと起きるんか?」
「それは転生転移先に中世ヨーロッパのような、文明としてある程度現代より遅れた世界が選ばれて、生前は平凡以下だった自分でも活躍したいという歪な欲望のあらわれがあってのことよ。もっと、微妙にこの世界と異なるだけの並行世界は実は身近に存在していて、誰しもが気づかぬうちに迷い込む可能性は十分にある」
「こことは違う世界にうちらが迷い込むように、うちらの世界も逆に受け入れ先になってるいうことか」
「……そう。輪廻転生の考え方は、あながち間違ってはいなかったということね」
彼もまた、別の世界から偶然にしてやってきた人間だという。自覚のあるなしに関わらず、前世を持つ人間が急速に増えている現状を憂いていた、と述べた。明確な殺意を持って事件を起こし、反省の色も見られないことがはっきりと示された。自白させられたという様子もなく、むしろ少しでも自らの使命を果たせて満足だとでも言いたげに、清々しい表情だった。
「……それにしても、私も前世のある人間だったなんて」
「何やったかは聞いてへんのかいな」
「……彼は目の前の人間に前世がある、すなわち転生したかどうかは分かるけれど、その前世がどのような人物だったかまでは分からないそうよ。だからこそ、彼の行動を無差別殺人と認めるしかないのだけれど」
「気にはならへんの?」
「気にならないと言えば嘘になるわ。けれど、人生で知らない方が幸せなこともあるのだとすれば、これなのかもしれない」
郡家の言葉にそれほど深い意味はなく、ただ特に自分の前世にそれほど興味がないだけだった。知ったところで、今の自分がどうにかなるわけではないと、卒論を通じて自分の中で結論づけていたからだ。
しかし後に、現代日本では異例のスピードで死刑執行まで行き着いた彼の遺志は、思わぬ形で残り続けることになる。
『転生者』だけで構成された街。
行き詰まりを見せ始めていた現代の科学技術。その突破口を作るために、前世の力を借りて飛躍的な技術開発を進める。その前段階となる、前世の有無とその詳細を判別するシステムが実用化されるまで、あと三年――。