【閑話】彼が消えるまで(後)
2023年3月某日。
工事関係者にとっては忙しい年度末を迎えた頃、その別れは唐突にやってきた。
「なに……辞めただと?」
現場で首を傾げているのは堂上剛士。
理由は他でもない。丸原工業の作業者リストに鈴木の名前が無かったので、理由を尋ねた所、退職したと伝えられたのだ。
「そうなんですよ。祖父母の介護が本格的にキツくなってきたみたいでね。彼は両親いないみたいだったから、自分がやるしかなかったみたいです」
「ふむ……そうですか。貴社の内情にも関わらず、答えて頂きありがとうございます」
「いえいえ。鈴木と堂上さんが仲良かったお陰で円滑だった部分もありますから。此方こそ気に掛けて貰ってありがとうございました」
坂山(鈴木の先輩)と言葉を交わしていく。
鈴木とは良く話した仲だった。とはいっても、個人的な連絡先は知らないし、その程度の関係でしかない。
にも関わらず――堂上が少しばかり寂しさを感じているのは、鈴木が数少ない話し相手だったからだろう。
「(……久々に秋帆でも呼ぶか)」
その日の夕方、堂上は秋帆と連絡を取った。
節約にストイックな中で、わざわざ買春しているのは、それだけ秋帆が上玉だったから。
無趣味の彼にとっては唯一の楽しみであり、ストレスの発散方法でもあった。
連絡を取ってから約1時間後、彼らは歌舞伎町のホテルで落ち合った。
最近は年度末で仕事が忙しかった。表情こそ変わらないが、堂上は久々の人肌を心待ちにしている。
そんな中――秋帆の口からは意外な言葉が飛び出した。
「武志。あのね……その……こういうの、今日で終わりにしたい……!」
部屋に入るや否や、秋帆は怯えながらそう言ってきた。
あまりにも唐突な宣言に、堂上も思わず内心で驚いてしまう。
「ふむ……他に金払いの良い上客でも出来たのか?」
「ううん。実はね、スーパーのバイト受かったの。正社員への昇格もあるんだって」
堂上の問い掛けに、秋帆は少し嬉しそうに答えた。
体を売る生活からスーパーのバイトへ。それは金銭的には過酷な道だろうけど、彼女の瞳は希望に溢れている。
それだけ――夜の世界を脱却したいと強く願っていたのだろう。
「自分勝手なのは分かってる。それに、もう手遅れかもしれないけど……私は人に言える事をして、普通に生きたいんだ」
「まだ25歳だ。手遅れなんて事は無いだろう」
「あはは、お店にいた頃のプロフから逆算した? けどそれサバ読んでるよ。本当はもう28歳なんだよね」
「ふむ……まさか同じ歳だったとは。どちらにせよ、物事に手遅れなんて事はない」
「ふふっ、ありがと。私、頑張るよ!」
堂上は口先だけでは応援しているが――内心では少しばかり落胆していた。
上玉であり同類でもある秋帆を失った。結局のところ、底で燻っていたのは自分だけだったのだ、と。
「あっ……けど、今日は好きなようにしていいよっ。お、お金もいらないし!」
堂上の内心を察したのか、秋帆は焦りながらも機嫌を取ってきた。
しかし、堂上は無表情のまま首を横に振る。
「いや、結構だ。将来のパートナーの為にも、今から自分の体を大事にしてくれ」
そして秋帆の体を気遣うと、彼女は驚きのあまり目を丸めた。
決してカッコ付けた訳ではない。ただ堂上は、前進した秋帆の後ろ髪を引きたくなかった。
「……ホントにいいの?」
「うむ。俺にもやる事が出来た。可能なら早急に帰って準備を進めたい」
「そっか、ありがと。あとね……その……友達としてなら、また会いたいな」
ふと、秋帆は上目遣いで迫ってきた。
友達として関係を続ける。それはつまり、この先ワンチャンあるという事だ。
しかし――。
「すまない、俺にそのつもりはない。今日で全て終わりにしよう」
堂上は再び首を横に振ってしまった。
彼は今日の秋帆を見て、一つやりたい事が出来てしまった。
それを実行するのにあたって、秋帆は邪魔な存在だった。
「……だよね。今までありがとう」
「此方こそ世話になった。致さない代わりといっては何だが、一つ聞いて良いか?」
堂上は帰りの支度を始めながら、秋帆に一つ問い掛けてみた。
秋帆はキョトンとした表情で首を傾げている。
「最近、部屋を片付けていたら高校の卒業アルバムを見つけてな。別のクラスだが、そこに秋帆とそっくりの子が居た。その時は偶然だと思っていたが……同じ歳という事は、もしかして秋帆は――」
「だめっ!」
堂上はそこまで言い掛けると、秋帆は言葉を遮ってきた。
「私ね、自分の名前すごく好きなんだ。だからね、こんな事してる時は名乗りたくないの。できれば別人って事にしたくて……」
「承知した。元々、お互いに干渉しないという約束だったからな。これ以上の詮索はやめておこう」
堂上はそう口にしたが――彼女は同級生だと確信を持ってしまった。
そして秋帆も、以前に卒アルで堂上を見つけていて、何となく同じ学校だと察していたのだろう。
尤も、現役時は全く絡みの無い生徒だったが訳だが。
「さて、俺は帰る。ホテル代は置いておこう」
「私も帰るよ。……本当にさよならだね」
「うむ。元々、お互いに本名すら知らなかった訳だ。大した別れではないだろう」
「そうかなぁ」
そんな感じで、堂上と秋帆はそれぞれの人生を歩む事になった。
その後、秋帆がどうなったかは分からない。そして堂上は――。
※
「……これで良いか」
その翌月、堂上は愛車のステップワゴンに必要最低限の荷物を詰めていた。
部屋は既にもぬけの殻。会社にも辞表を出して、今は年休消化期間に入っている。
つまるところ、堂上は今のしがらみを全てを投げ捨てようとしているのだ。
地方の僻地まで逃げてしまえば、2つの元家族とは二度と関わる事はないし、今までの関係を全てをリセットできる。
堂上はそう結論付けて、生まれ育った東京に見切りを付ける事にした。
「ふむ……あとは人間関係だけだな」
堂上はそう呟きながらメッセージアプリを開く。
すると画面には、元妻からのメッセージが届いていた。
○石川紗良
養育費まだぁ?
○石川紗良
今月分まだきてないよぉ
○石川紗良
まだきてない
○石川紗良
電話出て
○石川紗良
真奈美たちに会わせてあげるから
堂上はその画面を見て、内心で嘲笑う。
今更もう遅い……と言うつもりはないけれど、後戻りする気は微塵もなかった。
「うむ、これで全員ブロックしたな」
堂上は最後の一人……元妻の石川紗良をブロックした。
これで人間関係も全て断ち切った。後は東京を脱出して、ド田舎で人知れず第二の人生を歩むだけである。
両親には絶縁を宣告され、最愛の妻にも訴えられた。
子供とも会えていないし、連絡を取り合う知人も殆どいない。
その中で、堂上が東京に残る理由は万に一つもなかった。
「さて……東京ともお別れだな。本当にロクでもない場所だった」
堂上は最後にそう呟くと、ステップワゴンのエンジンを入れた。
この行動は間違っているのかもしれない。けど、止めてくれる人もいないので、彼は前に進み続けるしかなかった。
堂上はこれからも孤独に生きていく。
養育費の請求から逃れながら、人知れず地方の僻地で……
※
「……夢か」
堂上は目を覚ますと、そこは何時も暮らしている蔵だった。
どうやら夢を見ていたようだ。それも夏美が語っていた、過酷な未来を暗示する不思議な夢を。
「(ふむ……これが夏美の言ってた別の世界線、という事だろうか)」
堂上は考える。
夏美の言っていた事は本当だったのか。だとしたら、これは別の世界線の出来事なのか。
確証は持てない。ただ今は、そんな事よりも――もっと声を大にして言いたい事があった。
「……それにしても世界狭すぎやしないか?」
あまりにも世界が狭すぎる……と。
どう見ても鈴木優太であろう職人に、金城琴穂っぽい元風俗嬢。
ついでに言うと、石川紗良というのも富士谷高校のバスケ部にいる友人だった。
「やはり迷信だな。夢だから知っている人ばかり出てきた、といった所だろう」
堂上はそう結論付けると、再び布団に入った。
どのみち今の自分には関係のない。野球選手になれば良い人生を歩める。
そんな事を想いながら、堂上は眠りに就くのだった。