36.白球の記憶(後)
「周平……」
「ん、俺のこと知ってんの?」
意識が覚めると、そこは真夏の明治神宮野球場だった。
いや……厳密に言えば、意識は最初からあったような気がする。
ただ、ふとした拍子に全てを思い出した。本来の記憶というモノを。
「ああ、いや。ちょっと噂を聞いててさ」
目の前では、胸に「Fujiya」と書かれたユニを着た柏原竜也が、淡々と言葉を溢している。
その光景に違和感はない。本来は関越一高の選手の筈なのに、俺はこの現実を――今の竜也と関越一高を自然と受け入れていた。
「まじか~。山梨のド田舎から来たのに、よく知ってんなぁ」
とりあえず口先だけで合わせたが――これは夢なのだろうか。
或は、竜也が関越一高を選ばなかった、別の世界線的な何かなのだろうか。
……分からない。
ただ一つ言える事は、今の竜也は富士谷の選手という事。
それは少し寂しかったけど、彼が報われるならそれで良いと思っていた。
この不可解かつ不思議な生活は、無風のまま暫くの時が過ぎていった。
全国制覇を目指して練習する日々。それは本来の人生と変わらない。
そして迎えた秋季大会、偶然にも富士谷と対決する機会が与えられた。
「……あれ、さっきのエースくんは投げないのか」
「あの女好きのポンコツは怪我しやがったからなァ!」
「先週の時点で分かってたけどな……お前らミーティング聞かなすぎだろ」
「わりい、聞き落としてたわ」
試合前、先週の試合で竜也が負傷したと聞かされた。
ショックだった。富士谷には好投手が他にも居ると聞いたが、結局のところ大事な試合では竜也頼みなのだなと。
「アウト!」
「また外されたか。運良すぎねぇ?」
「……」
それだけではない。
試合が始まると、富士谷は驚くほど正確にサインを盗んできた。
盗塁すれば外され、ストレートは狙い打たれ、何から何まで裏目に出る。
それはまるで――関越一高の内通者が潜んでいるかのように。
「(竜也なのか……?)」
ふと、俺は核心に迫ってしまった。
これは別の世界線なんかじゃない。そっくりそのまま時間だけが戻っていて、俺みたいに本来の記憶を持っている人間が他にもいる。
そして――その内の一人は竜也であり、竜也は本当の人生を知った上で富士谷を選んだのだと。
……別に竜也が裏切り者だとは思わない。
本来の人生を知っているのならば、酷使を避けて他校に行くのは当然の流れだ。
サイン盗みに関してもそう。少し気に食わない部分もあったが、これも些細な事だと思っている。
そんな事よりも、もっと目を向けるべき重大な事実があった。
大事な試合はエースでゴリ押し、という都立らしい富士谷の投手起用。
いや、竜也自身が背負っているのかもしれない。どちらにせよ、彼は本来の人生と同じ方向に向かっている。
事実として、秋季大会では負傷して離脱した。歴史は繰り返そうとしていたのだ。
……止めるしかない。
今は高校どころか地域も違うけど、俺は竜也の運命を変える。
そして、その方法は一つしかない。秋季大会では失敗したが、今度こそ――。
※
2011年8月15日。
阪神甲子園球場には、大歓声と暴れん坊将軍の音色が響いていた。
9回裏、一点ビハインド、一死満塁、そしてフルカウント。
マウンドでは、今大会3戦先発の竜也が捕手のサインに頷いている。
スプリットかストレートか、それとも外スラか。
分からない。分からないけど、俺は絶対に負けられない。
チームが分かれた以上、酷使の連鎖を断つにはこうするしかないのだ。
九球目、竜也はセットポジションから左足を上げると、右腕を力強く振り抜いてくる。
糸を引くような伸びのある速球は、内角高めギリギリの所に吸い込まれてきた。
竜也を止めるには勝つしかない。
勝つ事だけが、彼の登板機会を奪う唯一の方法である。
だから――。
「(俺はこの一振りで……お前を止める……!)」
渾身の力でバットを振り抜くと、芯を外した大飛球はセンター方向に飛んでいった。
富士谷000 102 001=4
関越一000 003 00=3
【富】柏原―駒崎、近藤、松井
【関】仲村、松岡―土村