9.三回戦を終えて
富士谷のモデル、富士森高校が負けてしまった……。
3回戦の全試合が終わる頃、120近い参加校は32校にまで絞られていた。
こうやって数字にすると、高校球児の儚さを痛感する。
ただ、敗退した高校の殆どは中堅以下――優勝射程圏外のチームだった。
強豪私学は殆どは残っている。創唖と当たった佼呈学園は敗退したが、格下相手に取り溢した強豪校は見受けられない。
これは非常に珍しい出来事だった。
というのも、東西東京大会において「強豪のやらかし」は必ず起こる風物詩である。
去年だと八玉学園と東山大菅尾。そして本来なら今年も八玉学園が、格下に負けて話題になる筈だった。
その八玉学園が運命を回避したので、こうなるのは必然だったのかもしれない。
しかし、歴史とは修正を嫌うもの。この皺寄せは何処かで起こる可能性がある。
という事で次の試合も油断できない。
相手は中堅校の八玉実践。また、他校の組み合わせは下記の通りになった。
【A】ヤグラ左上1
東山大菅尾―名星
昭成第一学園―明神大仲野八玉
【B】ヤグラ左上2
都大亀ヶ丘―東栄学園
都立江狛―多磨大聖ヶ崎
【C】ヤグラ左下1
国秀院久山―早田学院
都立西府西―都立分国寺
【D】ヤグラ左下2
都大二高―都立福生
都立富士谷―八玉実践
ヤグラの右側は決勝まで当たらないので割愛。
準々決勝ではAとB、CとDの高校が当たり、その勝者同士が準決勝で対決する。
尚、正史では東山大菅尾、都大亀ヶ丘、国秀院久山、都大二高がベスト8に進出した。
「……ま、正史通りにはさせねぇけどな」
「福生も残ったね〜。正史では初戦敗退だったのに」
「それな。まぁ内容は自責ゼロな上に、異次元の残塁数だったみたいだけど」
練習前、1組の教室で恵と言葉を交わした。
勿論、正史通りのベスト8を許すつもりはない。
孝太さんの仇は俺が討つ。……と言いたい所だが、やはり福生の存在が不気味だった。
正史の福生は初戦敗退。
しかし、守っては13回で1失点(自責0)、攻めては20超の残塁に併殺や走塁ミスも絡むなど、絶望的なくらい噛み合わなかった。
相沢自身も「二枚看板の名前しか知らない」と言っていたので、都大二高を食う可能性は十分にある。
「え、精子がなんだって?」
「頼むから先行ってて……」
そう言葉を挟んできたのは鈴木だった。
残念ながら彼も同じクラス。教室に残って密談していると乱入される事がある。
最初はヒヤヒヤしたが、思ってた以上にバカだったので最近は放置していた。
「恵ちゃんも精子って言ったっしょ〜?」
「言ってないですぅ〜。くだらないこと言ってないで早く練習いくよ!」
と、今日の密談はここまで。
先ずは4回戦に向けて調整を行う事にした。
※
富士谷高校グラウンドでは、八玉実践戦に向けて打撃練習を行っていた。
八玉実践は投手力に定評がある中堅校。毎年のように140キロ右腕を擁しては、大会前に「八玉実践に凄い投手がいる」と話題になっている。
しかし、投手以外は弱小校に毛が生えた程度。
目立つような大会実績は無く、今年もパウル聖陵に狩られる程度の戦力でしかない。
という事で、噂の好投手に押し負けないよう、徹底した打撃練習を行う事にした。
「次スプリット。ラストな」
「うっす。低めにお願いします」
その間、俺は軽めに投げ込んでいく。
最後の一球はスプリット。駒崎は何とか前に溢した。
「……柏原さん、ストレートの時に「ッチ」って音がするんですけど、もしかして爪当たってません?」
「あー……伸びてきたかもな。切ってくるわ」
駒崎に指摘されて、俺は一塁のベンチ裏に向かった。
ここは土足厳禁で屋根もあるので、マネージャー達の待機場所になっている。
夏美から爪切りを貰うと、深爪に気を付けながら爪を切っていった。
「マニキュアも頂戴」
「へいよ」
「さんきゅ」
続けて夏美から透明のマニキュアを受け取る。
すると、琴穂は不思議そうに手元を覗き込んできた。
「……それなに?」
「投手用のマニキュアだよ。爪割れしないように補強してんの」
マニキュアと言うと、女性がやるオシャレの印象が強いが、スポーツ選手も付ける場合がある。
爪をコーティングする事で、プレー中の爪割れ防止になるのだ。
「私そういうの得意だよ。やってあげるねっ」
琴穂は得意気に右手を握ってきた。
顔をグイッと近付けて、丁寧な手付きで小筆を動かしていく。
俺は不覚にもドキドキしてしまった。
「え〜、私の方が得意なんだけどな〜」
恵は目を細めて此方を睨んできた。
余談だが、爪を伸ばしているのは恵だけで、夏美と琴穂は短く切り揃える派である。
なので恵の方が得意なんだろうけど、俺はこの幸福に縋る事にした。
「今日は私がやるのっ」
「じゃあ左手やっちゃおーっと。かっしー左手貸して!」
「左手は必要ねぇけどな??」
「(見てて歯痒いな……)」
そんな感じで、何故か左手の爪まで液体を塗りたくられたのだった。
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