2.横向けば天使
富士谷の春季大会は3回戦敗退で終わった。
相手は東東京の強豪・駒川大学高校。このチームには2年生の好投手が二人いる。
一人は俺と同じように壊れる予定の竹下。もう一人は鈴木や渡辺と同じシニア出身の中井。
この二人の継投で、打線は散発の11安打4得点に抑え込まれた。
一方、富士谷の投手陣は二人で仲良く3点ずつ取られた。
田村さんは最速143キロ、島井さんは139キロを記録したが、球速だけで抑えられたら苦労はしない。
このままだと全員右の本格派なので、やはり新入生の力が必要だと痛感させられた。
駒大高000 121 011=6
富士谷002 001 001=4
【駒】竹下、中井―栗原
【富】田村、島井―近藤
※
春季大会は早々にフェードアウトし、富士谷野球部にも日常が戻ってきた。
新入生の仮入部は4月中旬から。それまでの間、上級生は変わりのない日常を繰り返す。
「じゃー教科書の7ページを開いてー。今日は羅生門を書いた芥川龍之介の気持ちについて、指数関数と積分を使って考えてみよう」
野球バカには少し難しい富士谷の授業。
そんな退屈な時間も、左隣に視線を向けるだけで至福の時間に早変わりする。
「(ふふっ……)」
隣の琴穂は恥ずかしげに笑みを浮かべた。
この瞬間が堪らない。彼女は視線が合うと必ず笑顔を見せるので、つい何度も左隣を向いてしまう。
さて、至福の時間とは言ったが、何分も横を向いていると怪しまれてしまう。
俺は仕方がなく前を向いて、あたかも授業を聞いてる風を装ってみる。
……早くも眠くなってきた。そう思って目を擦ると、左隣から四つ折りの紙切れが飛んできた。
「(ん? 何だ……?)」
差出人は間違いなく琴穂だ。
ラブレター……ではないな。俺も琴穂学を1年学んだから分かるけど、どうせ「といれ行きたい」とかだろう。
あまり期待をせず紙を開いてみる。すると、ファンシーなタッチでリンゴが描かれていた。
「(お腹空いたのか……?)」
「(ちがうっ)」
俺はポケットから飴(リンゴ味)を出したが、琴穂はフルフルと首を横に振った。
よく考えてみよう。何故、俺に手描きのリンゴを差し出したのだろうか。
「(あ……なるほどな)」
俺はルーズリーフの切れ端に「ゴリラ」を描いた。
四つ折りにして琴穂に投げてみる。彼女は紙を開くと、俺に向けて笑みを見せてきた。
これは絵しりとりである。
ルールは普通のしりとりと一緒。ただ文字を書くのは禁止であり、全てイラストで伝達する必要がある。
琴穂は手際よくシャーペンを走らせると、再び紙切れを投げてきた。
中身は「ラッパ」のイラスト。決して画力は高くないが、女の子らしい絵心を感じられる。
さて、次はパセリが王道だが――これを描くのは意外と難しい。
という事で「パラソル」を選択。これも秒で伝わり「ルーズリーフ」のイラストが返ってきた。
絵心があって分かりやすい。俺は「筆」を描いて琴穂に返す。
好きな人と過す他愛のない時間。
何だかほのぼのとしていて、小さな幸せを噛み締めている気がする。
控え目に言っても最高だ。そんな事を思いながら、琴穂から次の紙を受け取る。
「……!?」
その瞬間、至福の時間は一瞬にして地獄へと変わった。
俺は慌てて左隣に視線を向ける。琴穂はニコニコと無邪気な笑みを浮かべていた。
「(こ、これは……)」
琴穂から返ってきた紙切れには、マイクに見えるような、けど形状は無地のコケシに近いような、先が丸く括れのある太い棒が2本描かれている。
それは――どう見ても瀬川姉妹御用達の「電動コケシさん(隠語)」にしか見えなかった。
落ち着け柏原竜也。
琴穂だって今年で17歳、まだ子供っぽい所もあるが、立派な思春期の高校生だ。
ここは動揺する場面じゃない。今考えるべき事は、次の出だしを「マ」にするか「器」にするかである。
琴穂はフルネームを知らない説もあるが……ここは置きにいって「器」から始めよう。
これなら肩で使う目的とも捉えられる。という事で、俺は「キツツキ」のイラストを描いて渡したが――。
『たぶんちがう』
と書かれた紙が返ってた。
やっぱりケツは「マ」のようだ。おませな琴穂も可愛い……という事にしておこう。
俺は紙に「マスク」を描いて投げ渡す。程なくして、琴穂から紙が返ってきた。
『さいてー。かっしーのへんたい』
その瞬間――血の気が引いていく感じがした。
なんてことはない、根本的に想像している物と違ったのだ。
これではただのセクハラである。俺は頭を抱えていると、追加で紙が投げられてきた。
『デュエットだよ』
なるほど、それで2本だったのか。
いきなり変化球すぎる。シルエットはどうみてもコケシだし、マイクと言い張るには少し難しい気がする。
と、言い訳しても仕方がないので、俺は謝ろうと琴穂に視線を向けてみた。
彼女は伏せ気味の姿勢で此方を見ている。顔を真っ赤にしながらも、口元を隠して悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「(ふふっ、変態さんだ〜)」
可愛過ぎて何も言えない。
じゃなくて――この子、わざとミスリードを誘ってきたな。
面白い。琴穂がそういうのを望むなら、俺からも仕掛けさせて貰おうじゃないか。
俺は取り敢えず、砂漠のイラスト+ス○バに×描いて「鳥取」を表した。
その後はリス→スイカ→柏原→ラクダ。琴穂が俺を描いてくれた事には、不覚にもキュンと来てしまった。
さて、ラクダの返信は――「ダンゴムシ」か。
まだ反撃のチャンスではないけど、少しだけ牽制を入れてみよう。
「(これでよし……っと)」
俺は頭から水を吹いているクジラを描いて、その脇に寝ている男女の絵を添えた。
俺が選んだのは「体液を吹くあの現象」である。みなまでは言わないけど、これで様子を見てみよう。
紙を四つ折りして琴穂に投げる。
琴穂は紙を開くと、やはり顔を赤くして此方に微笑んできた。
「(もー、これだから男の子は……。ふふっ、よーし――)」
琴穂は得意気にシャーペンを走らせた。
四つ折りの紙が返ってくる。俺は紙を開くと、思わず目を丸めてしまった。
「(ほほう……)」
そこに描かれていたのは、貝を叩いている動物――「ラッコ」だった。
なんてことはない。琴穂は俺のイラストを「体液を吹くあの現象」ではなく「シロナガスクジラ」と捉えたのだ。
「(私の勝ちっ……!)」
琴穂はドヤ顔で勝ち誇っている。
その顔すら超絶可愛い。これは負けを認めよう。
しかし――。
「(これは別に下ネタじゃねえけどな……)」
琴穂は肝心な事を忘れている。
体液を吹くあの現象とは、文字通りクジラの潮吹きを指していて、寝ている男女も浜辺で日光浴をしているに過ぎない。
つまり――意図的に避けた時点で、琴穂は人間が吹く方を意識していたのだ。
まあ……指摘するのは野暮だと思うので、この事実は心の中にしまっておこう。
ただ一つ言えるのは、琴穂も歳相応に成長しているという事だった。
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