64.下心の代償(後)
俺は勇気を振り絞って、震える琴穂の肩に手を掛けた。
カーディガンの柔らかい感触が右手に広がる。その瞬間――今日一番の振動が体に響いた。
「ひゃああああああああああああっ!?!?」
それと同時に、琴穂の悲鳴が響き渡った。
彼女は凄い勢いで体を引くと、目を丸めて俺を見つめる。
「あわっ……あわわわわわわわわ……」
琴穂は言葉にならない言葉で何かを訴えていた。
ふとテレビを見ると、不意を突いたゾンビが襲い掛かってくるシーンだった。
最悪だ……完全にタイミングを間違えた。
内容を知った上でやらかしたのだから、これは完全に俺の失策である。
「ご、ごめん。大丈夫?」
琴穂が少し落ち着いた頃に、俺はそっと声を掛けた。
彼女は顔を真っ青にして俯いている。どう見ても大丈夫ではない。
「ごめん……」
琴穂はポツリと呟いた。
いや、悪いのは俺の方だ。そう言おうとした瞬間、琴穂は座ったまま後退りした。
「やっちゃった……」
琴穂は俯きながら言葉を続けた。
視線の先では、布団がぐっしょりと濡れている。
それはどう見ても、汗と言い張るには無理がある濡れっぷりだった。
「ごっ……ごめんなさいっ……」
琴穂は瞳に涙を溜めて、怯えた表情で謝ってきた。
その姿は、庇護欲と少しばかりの加虐心が擽られる。
じゃなくて――そんな事を考えている場合ではない。これはバスケ部退部事件以来の大ピンチである。
琴穂は今、罪悪感と羞恥心で押し潰されそうになっているに違いない。
ここで心のケアを蔑ろにしようものなら、今後の関係がギクシャクするのは明白である。
「琴穂、汗も凄いしシャワー入ってきなよ」
「でも……」
「このままじゃ風邪ひいちゃうよ」
「わ、わかった……入るっ……!」
とりあえず、俺は全く気にしてない感を出しつつ、琴穂を浴室に誘導した。
※
琴穂がシャワーを浴びている内に、何か良い謝罪の言葉を考えよう。
そう思ったのだが、ここで新たな難関に直面した。
今、俺の目の前には一つの洗濯籠がある。
この中には、琴穂が身に着けていた衣服の内、スカートとカーディガンとリボン以外の物が全て入っている。
なんてことはない。色々と汚れてしまったので、衣服を洗濯する流れになったのだ。
一番上にはYシャツが被せられているが――これを一枚めくれば、下着や靴下があるという事になる。
それも、着ていたのは何年も片想いしていた人だ。意識するなという方がおかしいだろう。
落ち着け柏原竜也。
後に待っているのは虚無と後悔だけだ。ここで誘惑に釣られてはいけない。
そう思った次の瞬間――悪魔のコスプレをした卯月が脳内に現れた。
『ずっと片思いしてんだろ? こんな機会は滅多にないんだから一発抜いとけって!』
そして、脳内で俺に囁いた。
俺には分かる。本物の卯月は絶対にそんなこと言わない。
そう思いながら頭を抱えていると、今度は悪魔のコスプレをした恵が現れた。
『かっしー……冷静に考えなよ。一周目はメアドすら聞けなかったんでしょ? そう考えたらさ、こんなチャンスは二度とないと思わない?』
恵はそう言って、脳内でも得意気な表情をしていた。
確かに、ぐうの音もでない正論かもしれない。ただ俺には、どうしても気になる事がある。
「なんで天使が現れないん??????」
思わず口に出してしまった。
普通、天使と悪魔が一言ずつ囁いて、葛藤するのが定番である。
悪魔が二人現れたら、それはもう葛藤するまでもなく結論が出てしまうだろう。
俺の心は汚れきっている、という事なのだろうか。
そう思った次の瞬間、もう一つの説を閃いた。
俺にとっての天使は琴穂である。
脳内には現れなくても、その事実は変わらない。
そして――天使である彼女はきっと、そのまま洗濯して欲しいと思っているだろう。
性欲を取るか、琴穂を取るか。
冷静に考えたら比べるまでもない。
「どっせぇい!」
俺は無心で洗濯機を空けると、そのまま籠をひっくり返した。
※
やがて琴穂は風呂から出ると、元気な声で「ふー、さっぱりしたー!」と口にした。
思ってたよりも立ち直りが早かったのは、俺にとって嬉しい誤算だった。
洗濯はお急ぎモード+乾燥機のお陰で、1時間も掛からず着れる状態にはなった。
まだ半乾きの部分もあったらしいが、家族の帰宅時間も迫っているので仕方がない。
「きょ、今日はホントにごめんっ!」
「いや俺が全面的に悪かった。色々と」
「いや……その……大変恥ずかしながら……かっしーはあんまり関係なかったと思います……はい……」
「お、おう」
琴穂を家まで送る最中に、そう言葉を交わした。
風呂上がりは元気だった彼女だが、またシュンと落ち込んでいる。
不味いな、これは暫く引き摺るかもしれない。
「だ、だからっ、かっしーは悪くないよっ! そして……その……ごめんなさいっ……」
琴穂はそう言って再び謝ってきた。
少し俯きながらも、チラチラと上目遣いで様子を窺う姿は、可愛いけど痛ましい。
このままだと謝罪の応酬になりそうだ。そう思った次の瞬間、俺はふと閃いた。
「琴穂、今日の事は忘れよう。もう謝るの禁止な」
「……っ!」
その言葉は――かつて琴穂と謝罪の応酬になってしまった時、彼女に言われた台詞だった。
当時、罪悪感から上手く喋れなかった俺は、この言葉に救われた。
「……ありがと。かっしーは優しいねっ」
「んな事ないよ。俺も悪かったしな」
「謝るの禁止じゃ……」
「あ……そうだったな……。この縛り地味に不便だな」
「あははっ」
そんな感じで言葉を交わして、琴穂を家まで送っていった。
しかし――今日の事は全て無になる訳か。俺は何の為に二人を犠牲にしたんだろう。
すまん相沢、すまん恵。次会うときは菓子でも持っていこう。
その後、家に戻ると、ちょうど妹の綾香も帰ってきた所だった。
「ただおかー。濡れ場あったん?」
コイツの存在をすっかり忘れていた。
そして思い出してしまった。盛大に布団を汚してしまった事を。
「すまん。布団めっちゃ汚したわ」
「ちょ……マジでやったん!? 詳しく!!」
綾香はめちゃくちゃ食い付いてきた。
それはある意味、というか文字通りの意味で濡れ場だったのは間違いない。
ただ本当の事を話しても、誤解を貫き通しても、琴穂の名誉は傷付けられてしまうだろう。
「これやるから何も聞かないでくれ……」
俺はそう言って千円札を一枚渡した。
こうなったら、金で無かった事にするしかない。
「はぁー、このあと怒られるの私なんだけどなー」
「ああもう、クソが!!」
「へへっ、あざっすー」
更に千円追加して、何とか口封じに成功した。
合計四千円の出費。下心に従った代償は、高校生にとってあまりにも大きすぎた。
祝2000p突破!
いつも評価ありがとうございます!どちゃくそ励みになってます!
冬場は更新間隔が空いてしまったので、夏までには作中でも二度目の夏を迎えられたらな〜と考えています。
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