63.下心の代償(前)
練習のない月曜日。
俺は1年2組の教室で授業を受けていた。
「x^2+6x+5という式を因数分解すると(x+1)(x+5)になる訳だが……この時、人間の都合で無情にも分解されてしまった6x君の気持ちを答えなさい。じゃあ苗場」
「えっ……あ、はい(わかる訳ないでしょ……)」
何だか難しそうな問題を聞き流しながら、転生のほぼ全てを知る男――相沢にメールを送る。
関越一高に転生者がいるかもしれない。この疑惑は、奴にも報告しておいたほうがいいだろう。
「ちょっ……かっしー、全然わかんないんだけど」
「俺も分かんねえよ」
隣の席の苗場が、小さな声で問い掛けてきた。
悲しい事に、今の隣は琴穂ではない。無情にも席替えが行われて、ほぼ対角の席になってしまった。
教室で話す機会も減ったので、担任の谷繁先生は一生恨む事になるだろう。
それはさて置き、そろそろ相沢から返信が来る頃だ。
そう思って携帯を開くと、思わず硬直してしまった。
○瀬川 恵 13:53
件名:お弁当に春巻きが入ってた
本文:ちょっと相談したい事あるから放課後3組きて!
○金城 琴穂 13:54
件名:あ
本文:今日の放課後あいてる〜?
○相沢 涼馬 13:54
件名:無題
本文:今日練習ないよね?立川あたりで会えない?
ほぼ同時刻に3人から誘いが来ていた。
時間的には恵、琴穂、相沢の順だが、相沢とは話せる機会が少ないし、今回は大事な内容になる。
それを踏まえた上で返信するとなると――。
宛先:瀬川 恵
件名:知るか
本文:すまん、今日用事あるから無理
宛先:相沢 涼馬
件名:無題
本文:すまん、今日用事あるから無理
宛先:金城 琴穂
件名:あ
本文:あいてるよー。どうしたの?
これでよし……っと。俺も男だから仕方がない。
すまん相沢、すまん恵。いつか埋め合わせはするから許して欲しい。そう願うばかりだった。
※
放課後、琴穂と一緒に帰る事になった。
彼女は卯月からDVDを借りたらしく、それを一緒に見たいらしい。
という事で、今日は夜まで誰も帰らない柏原宅に行く事になった。
「あっ! どーなつ屋さんだ!」
ふと、帰路の途中で服の裾を掴まれた。
琴穂の視線の先には、ドーナッツ専門店「Ms'ドーナッツ」がある。
「ああ、ここ前からあるよな」
「知ってる! けど今日は一段と輝いて見える……気がするっ!」
「おう、それは良かったな」
俺はわざとらしく歩き出すと、琴穂は再び服を掴んできた。
「かっしー……どーなつ屋さんあるよ……?」
そして、上目遣いで訴えてきた。
その物欲しそうな表情は、控え目に言っても最高に可愛い。
本当は綿飴を振る舞う予定だったが、ここはドーナッツを買っていこう。
その後、適当にドーナッツを買ってから、二人で俺の家を訪れた
ちなみに両親は仕事、弟と妹は部活で、遅ければ19時くらいまでは二人きりである。
これは色々とチャンスかもしれない。そう思ったのだが――。
「兄貴おかえりー。その子、誘拐してきたん?」
兄弟兼用の自室では、妹の綾香が携帯を片手に寝そべっていた。
「どう見ても同級生だろ。ってか部活は?」
「面倒臭いからサボった」
綾香は携帯を弄りながらそう答えた。
くそ、計算が狂ってしまった。ここは力技で追い出すしかない。
「綾香」
「ん、何」
「これやるから遊んでこい」
「ほほーう……」
俺は綾香と肩を組むと、琴穂に見えないように千円札を二枚渡した。
綾香は何か察したのか、ニヤニヤしながら俺を見ている。
「やっぱ持つべきものは兄貴だねぇ。よし、私も協力してあげる」
「協力……?」
「二段ベッドの上段は激しい運動に不向きだからね。私の布団の使用を許可しよう」
綾香はそう言って、床に敷いてある布団に視線を向けた。
ぶっ飛ばすぞ、と言い返そうとしたが、彼女は凄まじい速さで部屋から逃げ出す。
「あ、汚しても気にしないから!」
「おまえマジで覚えてろよ」
綾香は顔だけ出して爆弾を置いていくと、そのまま家から飛び出ていった。
琴穂は少し困惑している。下品な妹で申し訳ないと心から思う。
「んで、見たいDVDって何?」
「こ、これ!」
俺は話題を逸らすように問い掛けた。
琴穂は鞄を漁ると、ゾンビが写ったパッケージを恐る恐る取り出す。
「それホラーだけど大丈夫?」
「大丈夫じゃないから二人で見るのさ……」
「なるほどな……」
そのDVDは、割と有名なゾンビ物の洋画だった。
研究所から流出したウイルスが原因で、街中の人がゾンビになり、生き残りの人間が生存を賭けて戦うという、ありふれた内容となっている。
ジャンルはホラーだが、どちらと言えばアクション要素が強い。
「なっちゃんがね、これはそんなに怖くないし、凄く面白いから見てみろって」
「まあ確かにホラー要素は少ないやつ……らしいな。見たことはないけど」
「ほ、ほんとっ!?」
ちなみに、俺は再放送も合わせて3回くらい見たことがある。
なので内容は1ミリも楽しめそうにないが、琴穂との空間を大いに楽しもう。
「じゃ、ドーナッツ食べながら見よっか」
「お布団の上だけどいいの?」
「ああ、お許しは出てるからな。奴のお望み通り汚してやろうぜ」
「(さっきの根に持ってる……)」
俺はDVDをセットしてから、琴穂の隣に座り込んだ。
好きな人と布団の上か。控え目に言っても最高だな。
やがてテレビにはオープニングが映し出された。
まだ始まって5秒くらい。にも関わらず、琴穂は俺の体にしがみついていた。
彼女は怯えた表情で震えている。その姿が小動物みたいで非常に可愛い。
「……大丈夫? 止める?」
「うぇえっ!? だ、だだっだだだだ大丈夫!!」
話し掛けただけでこの反応である。
手元を見ると、握り潰されたドーナッツがボロボロと溢れていた。
妹への制裁はこれで許してやるか。まあ、俺の服へのダメージのほうが大きいが。
「ひぃ……」
その直後、琴穂は強めに抱き締めてきた。
画面の向こうでは、このあと死ぬ噛ませキャラが、物音がする方向へ恐る恐る歩んでいる。
彼女的には恐怖を感じるシーンだったのだろうか。
ふと思った事がある。
俺は今、彼女でもない子に抱き着かれている訳だが、これは逆も許されるのではないだろうか。
思えば、以前にも琴穂と抱き合った事がある。
しかし、あの時は敗戦の直後であり、お互いに正気を保てていなかった。
つまるところ、勢いだけで抱き合った状態だった。
けど今は、俺は至って普段通りである。
未だ「好き」どころか「可愛い」とすら言えていない現状。
それを打破するには、ここで勇気を振り絞って、彼女を包み込む必要があるのかもしれない。
琴穂の肩に、そっと手を掛けるだけ。
それくらい出来る筈だ。俺は結婚経験者だし、正史では棚橋ともやる事はやった。
この程度の事は造作もない。その筈なのに――右手が全く動かないのは、この人が好き過ぎるからだろうか。
重く考えると億劫になるな。
もっと軽いノリで、こう……鈴木っぽい感じで、軽く手を添えてみよう。
俺は鈴木……俺は鈴木……俺は鈴木……。よし、行ける……!
そう心の中で唱えて、右腕を琴穂の肩に回した。
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