51.二つの結末
畦上先生が運転するフォレスターの後部座席で、俺は葛西の街並みを眺めていた。
「かっしー……大丈夫……?」
そう言って肘を撫でてきたのは、隣に座っている琴穂である。
「ああ、大した痛みじゃなかったし、もう痛くないから大丈夫だよ」
俺は言葉を返して、然りげ無く琴穂の頭を触った。
琴穂は相変わらず不安げな表情をしている。やがて肘を掴むと、右腕に額を付けてきた。
「お兄ちゃんも最初はそう言ってたもん……。私、もうピッチャーが肘壊すところ見たくないよ……」
琴穂は泣きそうな声で言葉を続けた。
いい、凄くいい。今のやりとりで肘治った説まである。
「しっかし、竜也に彼女が居るとはなぁ。母さんに知られると面倒なのは分かるが、秘密にするのは良くないぞ」
助手席から声を飛ばしてきたのは、俺の父親――柏原龍二である。
残念ながら、琴穂二人だけの空間とはいかなかった。
色々と仕方がないとはいえ、前の座席にはオッサンが二人いるのだ。
そして――悲しい事に、俺と琴穂は付き合っていない。
琴穂は反応に困っている。俺も好きな子を否定するのは気が引けるので、つい言葉に詰まってしまった。
「竜也くんは凄くマネージャー思いで、マネージャー達と仲が良いんですよ。だから付き合ってるとかじゃないと思いますよ」
そんな中、助け舟を出してくれたのは畦上先生だった。
「へぇー、そうなんですね」
「ええ。野球も上手いし、顔も割と格好良いし、本当に羨ま……じゃなかった、けしからんですよ」
「なるほど、きっと俺に似たんでしょうねぇ」
何言ってんだこのオッサン達。
というかこの焼き肉おじさん、マネージャー達と戯れる選手に嫉妬してるのかよ。
焼き肉おじさん改め、ロリコン教師に改名するしかない。
そんな感じで近くの病院に辿り着くと、畦上先生と二人で診察室に入った。
診察を受けて、念には念を入れてMRI検査も受ける。
レントゲンでも十分だと思ったが、MRIを受けるよう父親に進言された。
その結果は――。
「軽度の関節炎ですね。電気マッサージを受けつつ一週間くらい様子を見ましょう」
やはりと言うべきか、それほど大事には至らなかった。
「マッサージは今日はここで受けて、明日以降は最寄りの整骨院か整形外科で受けてください」
白衣を着た医者は言葉を続ける。
正史で肘を壊した時は、重度の離断性骨軟骨炎だった。
他にも、靭帯と筋膜にも問題あると言われた記憶がある。
何はともあれ、今回の怪我との関連性はないだろう。
「原因は何でしょう?」
「先程、軽くではありますが、柏原くんのフォームを確認しました。あのフォームでフォーク系統の球を投げるのは負荷でしょう。まだ体が完成してない高校生なら尚更です」
原因についても、ほぼ予想通りの答えが返ってきた。
ただ、じゃあスプリットを投げるのを辞めます、と言う訳にもいかないのが現状だ。
サイドスローから放つスプリットは、俺にだけ許された唯一無二の魔球。そう簡単には手放せない。
「何か解決案はないですかね? スプリットを投げない、というのはナシで」
無理難題なのはわかっているが、解決案を聞いてみた。
「そうですねえ。出来るだけ投げない、投げるとしても大人になってから、というのが一番ですが……強いて言うなら、下半身の柔軟性を鍛えると良いかもしれませんね」
医者は少し呆れ気味にそう答えた。
「下半身の柔軟性ですか……?」
「ええ。柏原くんは、腕から肘にかけての関節は柔らかいみたいですが、前屈や開脚は苦手なんじゃないですか?」
「確かに得意ではないですね」
「でしょう。腰から下が硬いので、腕力に頼り気味になってるのかもしれません。もっと股関節の柔軟性と可動域を鍛えれば、腕への負担も減ると思いますよ」
言われてみれば、俺は腕以外の関節は割と硬いほうである。
ただ、下半身の筋肉には自信があったので、体全体を使えていると思っていた。
尤も、今まで指導者に指摘された事はないし、気休めかもしれないが、試してみる価値はあるだろう。
診察を終えると、待合室にいた琴穂と親父と合流した。
「どうだった……?」
「大した怪我じゃなかったよ。早ければ次の試合は間に合うんじゃないかな」
「そっか。なら良かったけど……無理しちゃダメだよっ」
琴穂はそう言って俺の肘を触ろうとした。
しかし――体をピタリと止めると、急にソワソワと辺りを見渡す。
「あ、安心したら急にといれに……」
「いってらっしゃい」
琴穂は慌ててトイレに向かっていった。
彼女の姿が見えなくなると、畦上先生が口を開く。
「かと言って、来週も先発させる訳にはいかないぞ。まだ1年の秋なんだからな」
「分かってます。そこは瀬川監督や畦上先生の意向に従いますよ」
そう答えたものの、次は因縁のある関越一高と戦う可能性がある。
野手としての出場では、正直なところ役不足である感じは拭えなかった。
「……ってか、そう言うって事は、試合は勝ったんですか?」
「ああ、5対1でウチが勝った。次の相手も関越一高で決まったぞ」
畦上先生の返事に、俺は少しだけ安堵する。
その後、自宅に帰る間に試合の詳細を確認。得点は鈴木のスリーランと渡辺のタイムリー、失点は田村さんの目測ミスからだったらしい。
富士谷000 001 031=5
大山台000 000 001=1
(富)柏原、堂上―近藤
(大)日暮、森村―森村、加藤
・実例解説「下級生投手が登板中に肘を故障して途中降板」
2018年度 春季東京都大会準決勝 神宮第二球場
日大三高7―5早稲田実業
・解説
西東京の名門対決で事件は起こりました。
8回表一死満塁の場面、二番手投手として好投していた井上投手(日大三高→埼玉西武L)が、投球後にグラブを外して右肘を抑えました。
井上投手はタンカーで運ばれて診察へ。この時点では特に問題ないとの見解でしたが、半年後に迎えた秋季大会は怪我で出場できませんでした。
尚、試合は後続の投手が好投して日大三高が勝利しました。
自分自身も現地に居ましたが、試合中断中に三高OBと早実OBの野次が飛び交ってた記憶があります。
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