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優しくいきたい

 春日涼美(かすがすずみ)は、常々、こう思っていた。

 自分が人より不幸なのはなぜだろう? と。

 ある人は言った。

「幸、不幸は、起きた出来事を、自分がそう思うか否かで変わってくるから、あまり気にしない方がいいよ」と。

 本当に?

 例えば。例えばの話。

 雨の日にコンビニで、ちょっと買い物をしている隙に、傘を盗まれたとしよう。これを「幸福だ。嬉しい!」もしくは「いつものことだし気にしない!」なんて思える人はいるだろうか?

 野良犬に跳びかかられ、腕を噛み付かれたとする。「お、今日はついてるな!」もしくは「犬は噛み付くものだし普通普通!」なんて思える人はいるだろうか?

 手に持っていた、コンビニで購入したチキンとコロッケを、その犬に奪われたとしよう。「やったぜラッキー!」もしくは「お腹が空いてた犬が助かったんだ。良かった!」なんて思える人はいるだろうか?

 トドメに、泥の水溜りを通過した車に、クリーニングしたばかりのスカートを茶色に染められたとしよ……いや、もうやめよう。例え話。これはあくまで例え話。

 とにかくこれらの例は、まとめて『幸福』もしくは『いつもの』出来事などとは誰も感じとることはできず、明確に『不幸』と呼ばれるものではないだろうか?

 なにもない所で転ぶとか、電車やバスを逃すのとはワケが違う。

 注意力の散漫や、時間管理の甘さ。そういった、気を付ければどうとでもなるものではないのだ。

「何でこんな目に私が」

 そう愚痴っても罰は当たるまい。

 不幸だと思うから不幸なのだと。これは自分が成長するための、乗り越えるべき試練なのだと。そう思って心を誤魔化すのも限度があろう。

「ただいま、マル」

 独り暮らしのマンションに帰宅した涼美は、スーツを脱ぎ、下着姿のまま染み抜きを開始した。スクウェア型の銀縁メガネの奥に見える黒瞳は、死んだ魚のように濁り、なんの感情も映さない。すっかり慣れてしまっていたのだ。

 後頭部で結った長い黒髪から、雨の滴をポタポタと滴らせ、黙々と染み抜きに没頭する涼美に、心配した飼い猫のマルが寄り添う。

「ゴハンちょっと待っててねマル。これ先にやっちゃわないと後が大変だから」

 わかっていると言わんばかりに、にゃーんと一鳴き。そして、腕の野良犬に噛まれたあたりをペロリと舐めた。スーツの上からだったので傷はなかったが、鈍い痛みがじわりとはしる。

「そういえば私のゴハンは取られちゃったんだ……」

 言葉にしたことで、穏やかであった心の水面から、怒りの感情が細かい泡のごとく、ふつふつとわき上がる。

「もし死んで神様と対面できたら、ビンタの一発ぐらいは覚悟してもらおう……」

 独り暮らしで哀しくも身に付いてしまった独り言は、いつもの通り、部屋の隅で四散する。

 ――はずだった。

「それは困ります」

「へ?」

 突如、一人と一匹だけの部屋に、あるじ以外の声が響き、凉美はギョっとする。直後に耳鳴り。カタカタと部屋が震え、マルが胸に跳び込んできた。

「やだ地震!?」

 テーブルの下に潜ると、マルを抱き締めて背中を丸める。

「神様の馬鹿! 神様の馬鹿! 神様の馬鹿……!」

 十秒ほどだろうか。揺れが収まると、抱き締めていたマルが身じろぎをする。

「ちょっと、強く抱きすぎです。痛いです」

「は!?」

「あとしゅに呪詛を振り撒くのはおやめください」

 マル。眠るとき、ボールのように丸まることから凉美が命名。恐らくは雑種。長い尻尾が特徴の黒猫。元、捨て猫で、ダンボールの中で鳴いていたところを保護。飼い始めてから二年、凉美は幾度となく語りかけたが、一度たりとて人語を話したことはなかった。

「はぁー!?」 

 あっけにとられて、抱き締めていた手を涼美が緩めると、マルはスルッと腕を抜け出し、リビングの中央へと歩を進めた。そして振り返ると、口を開く。

「人の子よ……初めに言っておきます。怯える必要はありません。私はこの生物の身体を一時的に借りているだけで、貴女やこの生物に危害を加えるつもりはありません」

 得体の知れない怪奇現象に見舞われ、混乱のるつぼにあった凉美の脳内であったが、その言葉は、砂に垂らされた一滴の雫がごとく、するりと頭の中に染み込み、不思議と信用することができた。

 気がつけば、早朝の神社やお寺のような、静謐とした空気がマンションの一室を満たしており、邪悪さなどは微塵も感じることがなかったからかもしれない。

「そこから出てきてください。このままでは話を聞きづらいでしょうし、貴女も体調を崩してしまうでしょう」

 凉美は、下着姿の上に、雨でびしょ濡れだったことに、言われて気づく。

「先ずは湯浴みでもして落ち着いてください。改めてお話をさせていただきます」

「あ、はい……でもスカートの汚れがまだ……」

 ふと視界に入ってしまった、染み抜き途中のスーツが気になってしまう凉美。

 こんな状況で、汚れた衣類を気にする凉美を見て、マルの中にいる何者かは、くすりと笑うと、猫の手をたらいの中に入れた。

「貴女がこの着物を入手した状態まで戻しておきました。さあ、早くしないと風邪を引いてしまいますよ」

 柔らかな声で、常識はずれなことをさらりと言う。

 凉美がたらいの中を覗くと、きちんと畳まれた、新品同様のスーツだけが入っていた。

 認めざるを得まい。神か悪魔かはわからないが、今、マルの中にはナニカがいるのだ。

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