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昨日寝た時間がいつもより二時間近く早かったせいか、今日は普段よりも一時間早く、二度寝欲求を覚えないほどに、はっきりと目が覚めた。鳥がちゅんちゅんと外で鳴いていた。何の鳥かは判別できなかった。でも多分、雀だと思う。落ち武者はまだ眠っていた。彼女には睡眠欲はないが、意識を遮断することはできる。夢を見ることもあるらしい。ならば普通に寝ているのと同じだ。何とも不思議な話だった。
私が身を起こし伸びをすると、落ち武者も目を覚ましたようで、私と同じように、伸びをした。可愛いおへそがちらりと覗かれた。
「ふぁああ、おはよう……って、いつもよりだいぶ早く起きちゃったね」
「うん」
私はうなずいて、ベッドを降り、一階の洗面所で顔を洗って歯を磨き、リビングのソファに座ってテレビを点けた。キッチンで弁当と朝食を作る母が、「あら、今日は早いのね」と言った。私はそれに気のない返事をして、テレビの画面に集中するでもなく、ただぼーっとしていた。朝の情報番組では、ちょうど星座占いが始まるところだった。普段に観ることはあまりない。朝食ができるまでの戯れに観てやろうと思い至った。朝の時間に余裕ができると心にも余裕が生まれるものなのだと悟った。
「おお、今日の朝ご飯は豪華だね~」と落ち武者が元気に笑った。
玉子焼きとごはんと味噌汁。今日はやけにちゃんと作られていた。いつもなら食パンにチーズのせてケチャップかけて焼いただけ、みたいなやつなのに。専業主婦のくせして怠慢だな、とか思っていたのに。
「なんか今日豪華じゃない?」
「いつもはあんたが食べやすいようにしてあげてたのよ」
「ふうん」
温かいご飯、味噌汁、甘い玉子焼きは美味しかった。私は、玉子焼きといえば塩派だが、母が砂糖派なので甘いのだ。しかし、私の好みもどちらかと言えば……くらいのものなので素直に心から美味しいと思って食べられる。
朝食の器を下げて、自分の部屋に戻った。スマホを取り出して例のソシャゲをプレイしようと思った。しかし、イベントページがない。そういえばイベント、昨日までだったっけ。私はイベント終了後のボーナスアイテムを受け取って、アプリを閉じ、本日更新のウェブ漫画を漁って読みつぶしていった。読み終えると、私はパジャマをベッドの上にポイと投げ捨てて下着を着け、制服に着替えた。本日使う教科書をカバンに入れ、私は家を出た。いつもより十五分は早い時間だ。走ろうだなんて気はみじんも起きない。朝にここまでリラックスできるだなんて最高だ。早寝早起きはするもんだね。
教室に入ると、普段よりも人が少なかった。私は悠々と自分の席に向かい、腰かけた。ふう、と自然と息が漏れる。
「そういえば、緑のハンカチは持ってきた?」
と、落ち武者が突然に意味不明なことを言い出した。
「な……、……」
聞き返したい意欲にかられ、実際声に出しかけたが、周りには人がいるので止めた。昨日布団の中で語り明かした弊害が来ているようである。普通に喋ってしまうところだった。
私は教室を出て、少し歩いて空き教室に入り、できるだけ奥に進んで言った。
「何それ?」
「『ラッキーアイテムは緑のハンカチ!』でしょ? おとめ座、十二位だったじゃない」
「ああ……でも、うちに緑のハンカチはなかったと思うよ」
「はあ、そういうときには買わなきゃでしょ」
「はぁ……?」
私は首をかしげる。
落ち武者は腕を組んで左手の人差し指を立てて見せた。少しキザっぽい動作だった。
「香音ちゃん、友達ができるチャンスなんだよ? 最初が肝心、ここはミスれないよ、運の力でも何でも借りないと。お星さまや神さまにでもすがって、万全を期さないと。ただでさえ十二位なのに」
こいつ、少し調子に乗っている……。私は呆れたように彼女を見つめた。
「いや、星座占いなんて信じてんの?」
私を無視して彼女は笑顔で提案する。
「そうだ、今から隣の神社行く?」
何でハンカチ忘れたからって神頼みせにゃならんのだ。
「行かないよ。流石に遅刻するし」
と私は首を横に振った。落ち武者はそんな私を、「こら」と言って叱りつける。
「あんた、いっつも何かやろうとしては無気力になったりして忙しい感じだけど、今回ばかりはしっかりしないと」
「うーん……」
なんだかなぁ……。
「香音ちゃんの今考えてることは大体わかるよ。私が私のために香音ちゃんのケツをひっぱたいてるのがちょっと気に入らなくなってるんでしょ? 私に言われなくても頑張るのに……みたいな。でもね、香音ちゃん、私とアンタの二人で厄は二倍、もしかすると二乗にもなってるかもしれないんだよ? それなのに……」
星座占いなんか見るべきじゃなかった、と思う。早起きなんかするんじゃなかった……。
占いの結果のせいもあり、落ち武者は不安になっていた。いや、私自身にも理由はあるのか。むしろそれが一番か。落ち武者が気張るのも無理のないことだった。契吾は私以外の人間で今のところ唯一落ち武者を見聞きできる存在。そんな彼を見過ごすことは到底できなかった。しかし彼女が彼に気軽に関わるには私も彼と気軽に関わることができるような間柄にならなければならないのだ。彼女に身体があれば、ずぼらな私にわざわざ発破をかけるなんて面倒なことをしなくてもよかったのだろうに、と思うと、私は頑張らなきゃいけないという気持ちになった。気がしただけかもしれないが、それでも一時的には効果が出るだろう。
「亜音、わかった。私、万全を期すから」
「香音ちゃん……」
「よし、神社に行こう」
今からなら全力で走れば間に合うかもしれない。私は私の持てる限りの体力を使って階段を駆け下り、靴を履き替えた。登校してくる生徒たちが驚いて私を見ていた。そして裏門を出て、神社の鳥居をくぐり、手と口の中を清め、階段を上って、財布からできる限りの枚数の五円を取り出し賽銭箱に投げ入れて二礼二拍手一礼、ご縁がありますようにと頭の中で三回唱えて、先程の道のりを逆走して下駄箱に着くころには丁度HRが始まる時間ということで、私は少しほっとした。胸が痛い。喉の奥や、おなかも。私は膝に手を置いて息を整えた。シャツが体に張り付いて気持ち悪かった。全身からは汗が噴き出ていた。「よく頑張ったね、香音ちゃん、間に合ったね……」。落ち武者、労いありがとう。私がゆっくりと教室に入ると、この時間にしては珍しく全員席に着いていて、一斉に私に視線が浴びせられる。そして教卓には鬼の副担任。
火照っていた身体が一気に冷め、冷や汗が垂れた。
私は震える声で言った。
「じょ、城ケ崎先生は……」
「城ケ崎先生は出張なので、私が臨時でここに来た。わかったら席に着け」
「ま、また出張……」
落ち武者が天を仰いだ。私も悔しかった。ここまで頑張ったのにどうにもならなかったなんて。
「それと霧咲、あとで私のところに来い」
せっかく早起きしたのにこれか……テレビの占いもばかにできたもんじゃないな。
私と落ち武者はほとんど同時にため息を吐いた。
契吾はいつものように眠っていた。朝っぱらからこれか。私の気も知らないで……。
結論:星座占いは当たる。
ああ、私は緑のハンカチを買っておくべきだったのだろうか?