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次の私の席の場所には、まだ有田さんが座っていた。去年も同じクラスだった娘だ。髪は少し明るめで制服を着崩しちゃうタイプの女子生徒。彼女を入れて六人で固まって座って喋っている。私は彼女のことが苦手だった。美人だがキツそうな顔をしていて、実際にキツイ性格だ。
彼らはクラスの中心に位置するようないわゆる陽キャラたちのグループで、委員長松本くんの声が聞こえているのかいないのか、そこから動こうという気配もない。あまりに大声で話す彼らの男女入り混じった話し声はとても耳障りで、早くどいてほしかった。
前の自分の席の方を見ると、そこには既に新しく誰かが座っていた。延々とここで待ち続けてもいいが、私の腕はそろそろ限界だった。だから、あまり関わったことがないので遠慮がちに、有田さんに話しかけてみることにした。
「あ、あのー、有田さんたち、みんなもう席替えしてるし、ここから退いてもらえるとありがたいんだけど……」
男とくっちゃべっていた有田さんは声に反応して私を見ると、普段あまり会話をしないゆえか驚いたように目を見開き、そして迷惑そうに眉をしかめて再び会話に戻っていった。いったん止まったグループ間のざわめきもすぐに元通り。
え、ええ~。
「どうしたの。嫌われてんの、香音ちゃん」と、落ち武者。
い、いや、そもそも関わりがないんだからそんなはずはない。普通にうざがっているだけだろうけど……も、もう一回話しかけてみよう。
「ね、ねえ、有田さん――――」
と、そこまで声を出しかけたところで、斜め後ろから誰かの声が聞こえた。どうにも生意気な印象を受ける、男の声だった。
「おいお前ら、退いてくれよ」
その一声に有田さんたちは会話をまた中断させられた。
私と同じように大量の教科書、ノートとリュックと正鞄を腕に抱えている彼は、髪を茶色に染め、長く伸ばしている男のいる席にずかずかと近づき、その机の上に載っていたパンの袋と紙パックを腕で払って床に落とし、そこに自分の荷物をどさりと置いたのだった。
「あ、香音ちゃんの隣の席だよ、あの人」
本当だ。背面黒板の情報によると、彼は菫というらしかった。可愛らしいその名から女の子だと思っていたのだが、男だったのか。
菫くんはぶすっとした顔で男を押しのけ、「ほら、どけって」と言う。しかめっ面でさえなければそこそこに整っているのだろうことは軽く想像できる顔だった。男が困惑しつつも立ち上がり横にそれたところ、すぐに菫くんはどかりと椅子に座った。そして、舌打ちする。
「生暖かい」
私的には助かる行動だったけど、しかしそれは少し粗暴なものだった。相手は有田さんのグループの一員だ。気が強い彼女が怒ると少々面倒だというのは一年生の頃によく見ていた。菫くんのやったことは、有田さんを怒らすに足ることだったと思う……。
案の定、有田さんは隣に座る男に抗議した。彼は教科書を机に詰めている最中だった。もともと入っていた教科書はすべて床に積まれていた。彼女の怒りは思わず立ち上がってしまうほどのものだった。私は即座に荷物をすべて彼女が座っていた席の机に置いた。有田さんは一瞬鋭い目つきをこちらに向けるも、すぐに菫くんに視線を戻した。
「うわ、こわっ。もう、空気読みなよ、香音ちゃん」
仕方ないじゃん、腕パンパンなんだから。ていうかアンタさっきから私の言いつけ守る気全然ないよね。そりゃ、退屈だろうけどさぁ。
「ちょっとアンタ、今のはないんじゃない」
有田さんはそう切り出した。
菫くんは横を一瞥するだけで、何もしなかった。教科書を詰め終えたかと思うと、机の上のカバン二つを床に立たせるように置いてから、筆箱とノートと数学の教科書を取り出した。それを机の端に寄せて、空いたスペースに伏せて眠り始めた。それは或いは周囲の喧騒を避けるための手段で、ただのフリなのかもしれないし、本当にただ眠かっただけなのかもしれないけど、どちらにせよ今とる行動じゃなかった。
有田さんは驚愕してみせたかと思うと、瞬間、菫くんの制服に掴みかかった。あまりに突然のことで、反応が遅れた。彼女の顔はまるで般若のようで、せっかく整っているモノが台無しになっていた。菫くんが身を起こす前に彼女は仲間たちに取り押さえられ、菫くんから離された。いつの間にか、クラス全体が静まり返ってこちらに注目していた。
「落ち着けって、な?」
「あんな奴相手にするだけ無駄だよ」
「そうそう、アタシたちとは考え方とかが違うんだよ」
「自己チューだし」
――とか言いつつ宥められていた。彼らは彼女の扱いに慣れているらしかった。有田さんはコケにされた悔しさからか、少し泣いていた。そんなんで泣かねえだろ、普通。
ヒステリックな人は怖い。
「どの口が言ってんだって感じだよね、自己チューって」
落ち武者の言葉に、確かにね、と私は思うけど、まあ、どっちもどっちだった。
菫くんは一瞬顔を上げて、また伏せた。ううむ、マイペース。
そうこうしているうちに予鈴が鳴った。
菫くんは眠っているのか知らないが、足元に積み立てた教科書の山を蹴って崩していた。そしてそれを気にもしていなかった。本当に眠っているのかもしれなかった。先程のグループのうちの一人がそれをかき集めて自分の席へ帰っていった。
私も席に着いて授業の準備を始める。
菫契吾。それが、彼の本名だった。なるほど、スミレは名字だったのか……そりゃあ、男の子に菫なんて名前、普通は付けないよな。
先程のようなことがなければ、菫くんは目立たない生徒だ。制服を着崩したりはしないし、髪の色も黒だ。それから少し観察したが彼はあまり喋るということをせず、部活動に所属せず、帰りの挨拶後、すぐに教室を出る、帰宅部の鑑のような男だった。私とどこか似通っているような気さえした。
一週間経ったある日の夜、いつものように向かい合って毛布に潜り込みながら私は亜音に尋ねた。
「菫くんどう思う? 亜音」
「例の一件を見てしまったあたりだと、人格に問題がありそうだよね。あとそこそこ顔がいい」
恐ろしく正確な評価だった。
「っていうかあの人アンタのこと避けてるんじゃない? 隣の席なのに目が合ったこと全然ないよね? コミュ障なのかな」
哀れな菫くん、勝手にコミュニケーション障害認定されていた。
「あの人のこと気にする前にちょっとでも万年に会いに行けば? ずっと付き合ってく大切な幼馴染でしょ? あの喧嘩みたいなのがあった時から今までにあいつとの状況何か変わってるの?」
ごもっとも。
「その人の話じゃないけど、アンタもしかしてコミュ障化してるんじゃない? クラスに友達いないよね? 去年まではいたでしょ?」
確かに。いや、それは、昼休みも一人でご飯食べてるから、とか、放課後すぐ帰るから、とか、瞬時にいくつかの、それも落ち武者のせいにした言い訳が頭の中を駆け巡ったが、それを差し引いても私に友達がいないということは凡そ私の努力不足に他ならないのだ。
そもそも去年いた友達だって、あれは万年が同じクラスだったからこそできたものだったのだ。彼や彼女は友達ではなく、正確には友達の友達でしかなかったのだ。もしかすると、今ではもう全く関わることのない小、中学校の頃の友達でさえ……!
そのことについに気づいてしまった私は衝撃を受けた。絶望した。
何か行動を起こさなくてはならなかった。
次の日の朝、始業のベルが鳴るぎりぎりの時間に登校してきた菫くんに、私は挨拶をした。
「おはよう、菫くん」
席に着いた菫くんはこっちを見て、すぐにそっぽを向いた。ちょっと、傷つくんですけど……。
「ちょっと、相手はこの際どうでもいいとしても、いきなり男の子からいくわけ?」
別にいいじゃないか、と思う。男女差別はよくないぞ、とも思う。