プロローグ
一応載せときます
まだ春休み中のとある日の出来事なのだけれど、その時私は珍しく万年と一緒に出歩いていなかった。
中学卒業後のクラス会の帰りで、カラオケで少しだけ流行りを過ぎた歌をデュエットを交えつつ数曲歌った私は、中途半端な喉の痛みを冷たいカフェオレを流し込むことで紛らわしつつ、夕暮れの中を歩いていた。別の高校へと進学する友人としんみりした気持ちで別れて、向かい車線へ行くために歩道橋を渡る。階段を登りきると、手すりに寄っかかって黄昏ている男がいた。その方角には真っ赤な夕焼けがのぞいていたのでそれを見ていたのかもしれないし、絶え間なく道路を流れる車の最後尾を確かめようとしていたのかもしれないし、空に浮かぶぶつぶつにちぎれた飛行機雲を物珍しげに見ていたのかもしれないし、ただぼーっとしていただけなのかもしれなかった。何にせよ、男は顔がそこそこに整っており、橙色の光に照らされる横顔はどうにも魅力的で私は見とれてしまったし、それはたぶん落ち武者も同じことだろうと思われた。私は彼女のほうを見なかったけど、それまで五月蠅く喋りかけてきていたのに急に黙ったからきっとそうだ。私たちはその時、どのようなあほ面を晒していたのだろう。男がこちらを向かなくてよかったと心底思う。でも、実際のところ、男がこちらを向く、などということはそもそもあり得ないことだったのだ。表面上にはただ放心して目が陽の光へとあてどなく向けられているだけのように見えても、その実、男は暗い暗い闇をこそ注視していて、これからそこに飛び込もうとしていたのだから。
まず奴の様子がおかしいことに気が付いたのは落ち武者のほうだった。
「香音ちゃん、あの人止めなきゃ!」
そんな可愛いハイトーンボイスにハッとさせられた私は、慌てて地面を思い切り蹴った。男のほうへ走り出した。男が虚ろなまなざしでそこから飛び降りようと、手すりに体重をかけて爪先立ちになって体を少し前のめりに浮かせた直後に私は、男がそのあとにとったであろう行動を阻止するべく男にタックルをかました。助走をつけてのタックルだったから威力は高く、男の手は手すりから離れ、二人で仲良く通路に倒れこんだ。大型車らしき車が下を通過する音がすぐそのあとで聞こえた。
「は、早まらないで」
男に抱き着く力を強めながら、そう言った。「そうだそうだ人生は辛いことばっかりじゃないぞー」と、落ち武者はおどける。どうせ聞こえないっていうのに。
うざったそうに私のほうを見る男は近くで見ると若く、私と同い年くらいだろうと思われた。そして、やはり顔はそこそこ整っていた。匂いを嗅いだ。ああ、これがイケメンか。イケメンっていい匂いがする……。
しかし、男は肩をつかむと無理やり私を引きはがした。私をにらんでいたが、困惑しているようでもあった。彼は信じられないものを見るような眼をしていた。やたらと泳いでいた。そして立ち上がって、尻や太ももを手で払った。砂利が地面に落ちる。私も立ち上がる。ショートパンツだったから、膝には擦り傷ができていて、少し痛かった。
「あ、あの……」
私はそう拙いながらも話しかけようとしたのだけれど、男はそんな私の賢明さというものを丸切り無視して、走って歩道橋を渡り切って階段を下ろうとする。私も追いかけるけれどどうにも男は足が速くて追いつけない。それでも諦めず追跡したが、すぐに男の背中は見えなくなってしまった。そのあたりの道は入り組んでいるから、人が隠れようと思えばすぐにそいつを見つけるのは困難になってしまうものなのだった。
「足遅ーい。今の人が死んだら香音ちゃんのせいだから」
落ち武者がぶーたれる。女の子なんだから仕方ないじゃんとか言いわけしながらそのまま帰路についた。
数日しても誰が死んだ、行方不明だという話はあまり聞かなかったので多分あの男は死ななかったのだと思う。いまいちはっきりとしないものの自殺を止めたという普通にただ生きていたらまずない状況のロマンチックさに私は打ち震えたが、その感覚もさらに数日すれば消えていたし、整ってはいたが印象が薄かったのか、男の顔もすぐに忘れた。あいつはイケメンだったといいつつ覚えていないから芸能人にたとえられない私のことを落ち武者は楽しそうに馬鹿にしてくれたし、私も私で、私って馬鹿だなー、こんなんで高校生活やってけるのかなー、と思いつつへらへら笑った。そして特別でも何でもない、ただの思い出としてそれは消化され、高校に入学して一年、万年を介して新しい友達ができたりもする中で、その話題について語ったことは多分ない。