隠鬼
後方へと流れていく風景を、ぼんやりと眺めていた。暗闇の中に、街灯や家々の明かりがぽつぽつと散らばっている。
ふいに、自分の顔が視界に入る。ガラスの向こうで左右反転したその顔には、さわやかな笑顔が張り付いている。僕がぼんやりと外を眺めている間も、口は忙しなく動き、言葉を紡ぐ。それに呼応して、車内の笑い声が大きくなる。何か気の利いた冗談でも言ったのだろう。自分が何を言ったのかはもう覚えていないが。
再び、ガラスに映った顔を見る。表情はくるくると変わっていくのに、笑顔は張り付いたまま。
まるで、自分の顔じゃないみたいだ。
ふと、いまこの場で、この笑顔をやめてみようか、といういつもの考えが脳裏をよぎる。もしかすると、たいして困らないかもしれない。
「キヨ、どうした」
声をかけられて、反射的にそちらを向く。バックミラー越しにこっちを見ている横尾と目が合った。
「ん……なにが?」
雑にはぐらかす。こういう場合、変にくどくどと弁解するほうが、かえって疑わしい。
「珍しいですね。小林先輩がぼーっとしてるなんて」
そう言って、助手席から菅が顔を出す。暗い車内で、透き通るような白い顔だけがやや浮き上がって見える。
「返事がないから寝てるのかと思ったよ。これがケンジだったら別に驚かないんだけどな」
「なんで、おれが出てくるんすか」
狗巻が後ろから抗議の声を上げる。普段からお調子者然とした男だが、今回の日帰り旅行では特にそういう面が目立った。
「いつも、ぼーーーっとしているからだよ」
横尾の発言に狗巻がおどけた調子で不満の声を上げる。小さく笑いが起きる。雰囲気に合わせて僕も笑った。
「狗巻くんは軽いのよ。ちょっとは小林先輩を見習ったら?」
菅が言う。暗くてわからないが、おそらく後ろの狗巻のほうを見ながらだろう。
「ひっで。いまは先輩がぼーっとしてたって話だろ?」
少しむっとした様子で言う、が、これもポーズだろう。
「それで。何の話だったの?」
横尾に先を促す。狗巻たちに任せていたら、堂々巡りで話が先に進みそうにない。
「トンネルですよ」
隣で声を発したのは草間だった。草間はいつもぼそぼそと、明瞭とは言い難い声で話す。その顔がオレンジ色に染まって見えた。いつの間にか、車内をナトリウムランプのオレンジが満たしている。
「トンネルが見えてきたから、来たときこんなのあったっけ、って話していたんです」
確かに、トンネルを通った記憶はない。
今回の旅行では県境を二つまたいで、海浜公園へサークルの仲間と訪れていた。映画サークルといえばまだ聞こえはいいが、去年、先輩たちが立ち上げた非公式なサークルで、大した活動もしていなかったらしい。横尾はその時から参加していたようだが、先輩たちが就職活動やら卒論やらで忙しくなってやめていき、横尾だけがとり残された。
一度くらいちゃんと映画が撮りたいと考えた横尾のしつこすぎる勧誘の結果、なんとか僕を含め三人が集まり、菅が草間を誘って会員は五人になった。僕と横尾以外の三人は皆新入生だ。はじめはややぎこちない感じだったが、夏にもなると、皆随分打ち解けたように見える。今回はネタさがしと映像撮影と交流会、という目的のあるようなないような日帰り旅行だった。
海浜公園は丘を埋め尽くす四季折々の植物による景観が有名で、その風景の撮影が一応の目的だったのだが、調査不足で時期がまるで違い、お目当てのネモフィラは見られなかった。仕方なく他の植物などいくつか風景を撮影した後は、併設の遊園地で遊んで帰ることになった。それなりに盛り上がったものの、どこか失敗した感は否めない。
「道、間違えたんじゃないの?」
僕は皆の疑念を代弁してみた。横尾はというと、速度を緩めようともしない。
「んなわけないだろう。こんなわかりやすいルートで、間違うほうが難しいって」
トンネルを抜けると周囲は木々に囲まれ、まるで山の中といった様相を呈している。ますます見覚えがない。
「横尾先輩。やっぱり間違えたんじゃ……」
草間の声は非難の色を帯びている。
「大丈夫だって。サエちゃん、心配しすぎ」
「下の名前で呼ぶな」
反射的に草間が怒鳴る。それ自体はいつものやりとりだが、車内の空気は徐々に重苦しいものへと変わりつつあった。
「ほんとに大丈夫ですか? 周り、木ばっかりですけれど」
進めば進むほど、どんどん山の中に入っているように感じられた。気がつけば街灯一つ見当たらない。それなのに、不思議と道路は途切れる気配もなかった。
「意地張らないでナビつけましょうよー……って、あれ?」
後ろで狗巻が間の抜けた声を上げた。
「あれ、家じゃないっすか」
身を乗り出して右のほうを指す。暗くて見えにくいが、やや低まったところに屋根のようなものが見えた。
ここへきて、ようやく横尾がブレーキを踏んだ。
真っ暗な山林の中、その家屋はひっそりと佇んでいた。いや、集落というべきか、鬱蒼とした森の中にいかにも廃屋といった様子の家々が点在している。暗いためによく見えないが、道からは少なくとも三軒がはっきりと見えた。
「ほんとに見に行くんですか……」
菅が心底いやそうな声を出した。怖がっているというよりは、うんざりしたような様子だった。
「ちょっとだけだって。こんなホラー映画におあつらえ向きな廃墟、そうそうお目にかかれないぞ」
そう言って、スマホ片手に車を降りる横尾。思ったとおりの映像を撮れなかった分、まったく別物でもいいから少しでもなにか撮って帰りたいのだろう。発案者として、今回の旅行をなんとか意義あるものにしたい、といったところか。
「でも、先輩が撮りたいって言ってたの、恋愛ものじゃありませんでしたっけ……」
「まあ、横尾はこだわりないから。自分の映画が撮れれば、中身はなんでもいい、って感じだし」
同学年として答えておく。もちろん笑顔も忘れない。
「まぁた、変更ですか。まあ、恋愛ものとかどうしようと思っていたとこなんで、ちょうどいいですけれど。ホラーのほうがまだ書きやすいです」
草間も後に続いた。
「なんか、生き生きしてるね」
「サエが中学の頃書いてたっていう小説、色々見せてもらいましたけれど、ほとんどホラーでしたから」
「えぇ……ホラー映画とか、勘弁だぜ……」
ぼやきながら狗巻も車を降りた。僕と菅は顔を見合わせ、結局、二人ともついて行くことにした。そもそもビデオカメラを普段から持ち歩いているのは僕だけだったから、どちらにせよ、すぐに横尾に連れ出されただろう。
夜の撮影を想定していなかったため、光源はスマホのライトしかなかった。ちゃんと撮れているかは怪しかったが、辺りを撮影しながら、建物の数を数える。
十四。
完全に倒壊しているのも合わせて、十四軒あった。
入れそうなところは中も撮影した。めちゃくちゃに荒れている家もあれば、存外まともなかたちで残っている家もあった。もちろん、そういう家でもきれいとは言い難く、畳や壁にどす黒い汚れが浮いていたりもした。
ふと、思い立ってスマホを眺める。ネットに接続しようとするが、まったく繋がらない。
「どうしたんですか?」
菅がそっと、隣に寄ってくる。
「いや、ネットニュースを見ようと思って。癖なんだ、この時間に見るの」
「ニュースですか。そういえば、また見つかったみたいですね、女の子。亡くなってたって」
「女の子?」
「ほら、例の女児連続誘拐殺人事件の。もう三人目ですよ。気持ち悪いですよね、幼稚園ぐらいの小さな女の子ばかり狙って」
言われてみれば、報道で発表されていたのは、みんな女の子だった。
「最近はテレビもネットもそればかりだよね。もう少し楽しいニュースが聞ければいいんだけど……」
「おい、ちゃんと撮ってるか」
別の部屋から横尾が声を張り上げる。菅に肩をすくめてみせると、彼女も小さく微笑むのが見えた。
横尾に追いつくと、部屋に充満した臭いに、みな一様に顔をしかめた。
「何の臭いっすか、これ」
「わからないけど、たぶんこれだろう」
そう言って、横尾がスマホのライトで足下を照らす。足の裏に伝わる感触から畳だとわかるが、その見た目は一見、畳だとは判別しづらい。汚れている、などというものではない。どす黒い色が畳全体にムラなく染み込んでいた。
「部屋全体撮ったら出よう。やばい、気分悪くなってきた」
それ以上は入らず、部屋の入り口付近からぐるりと中の様子を撮影した。真っ先に建物から出ようとする横尾の背を追おうとしたところで、狗巻が部屋の真ん中に残っていることに気がついた。中腰になってライトで照らした畳の黒色を凝視している。
狗巻に声をかけると、みんなもそれに気がついて、部屋の外までは戻ってきた。
「これ……これ、まさかとは思うけど……血、じゃないっすか」
廃屋の中がしん、と静まりかえる。数秒間、誰も口を開かなかった。
「バカ。気味悪いこと言うなよ」
いつも通りの明るい調子で言った言葉は、妙に浮き上がって聞こえた。それでも、場の空気を変えることには成功したようだった。狗巻以外の三人も僕の言葉に同調した。それほど広い部屋ではないが、見るかぎり六畳以上はある。それをすべて塗りつぶすほどの汚れだ。それがすべて血だ、などと誰も思いたくないらしい。
そ、そうっすよね、とひきつった笑いを見せて、狗巻もようやくその場を離れた。
「うわ、雨か」
廃屋から出ると、ぽつ、ぽつ、と水滴が肩や頭を湿らせ始めた。
「先輩。もう帰りましょうよ」
「だな。もう十分だ。なんか、ヤバそうだし……」
菅が横尾に不満気に言うのが聞こえた。横尾もさっきので懲りたのだろう。食い下がるようなことはしなかった。僕たちは車を置いてきた場所まで戻ることにした。
「ねえ、ユキエちゃん」
草間は前を行く背中に向かって声をかけた。
辺りは静まりかえっており、声は菅の耳に届いたはずだったが、足を止めてくれる気配はない。
菅は曖昧に返事をするだけだった。もうどうでもいいから帰りたい、そんな様子だった。
一緒にサークルに入らないか。そう声をかけてくれたのは菅だった。
いつも食堂や講義室で、ひとりでキーボードを叩いている女に話しかけてくる人間なんて、それまでひとりもいなかった。趣味で書いていた小説を、すごい、とはじめて肯定してくれたのも菅だった。けして派手ではないのに、なにをしていてもいちいち可愛い、そんな菅に、憧れに近いものを感じていた。
しかし、そんな彼女がいまは見る影もない。疲れているのだ、機嫌が悪いのだ、こんな状況では態度が投げ遣りになるのも仕方がない。草間はそう自分に言い聞かせる。
なにか後ろで音がした。
前を行く四人はなんの反応も見せず、先程までと同じ調子で歩いている。
――聞こえたのは、わたしだけ?――
聞き違いかもしれない。そうも思うが、また微かに音がする。草となにかが擦れるような音。
「……ねえ」
それは情けなく掠れてほとんど声になっていなかった。
見られている。
意思のあるものが後ろからじっとこっちを見ている、そう感じた。
「ねえっ」
「……なに?」
うんざりしたような返事。
「なにか、ついてきてない? 後ろ。動物とか、かな。なんか……見られてる気が」
「やめてよ。いまそういうのいいから」
「ごめん。でも――」
何度言っても取り合ってくれない菅に、草間はそれ以上訴えるのを諦めた。全部、自分の気のせいだ。そう思うことにした。
来た道を来た通りに戻った。それはみんなの共通認識だった。家屋の配置や井戸など、目印になるものはそこかしこにあったため、迷う心配などないはずだった。しかし――、
「……なんで」
そこに車はなかった。それどころか道路さえなかった。ライトが届く範囲には所狭しと、木々がひしめいている。それ以外には何も見当たらない。
「どうなってんだよ、これ」
絞り出すような狗巻の声ははっきりと震えていた。
呆然と立ち尽くすその間も、雨足は徐々に強くなってきていた。
「戻ろう」
「え」
菅や狗巻がうわずった声を上げた。何にそれほど驚いたのか、僕には理解ができない。
「誰も傘とか持ってないだろう。とにかく屋根のあるところに行こう」
みんなが顔を見合わせるのが、気配でわかった。僕は何かおかしなことを言っただろうか。
「……そうですね。先輩の言う通りです」
最初に口を開いたのは草間だった。
「これ以上濡れないうちに、どの家に留まるのか決めないと」
一つ目の足音に、残りの三つが疎らに続いた。
雨宿りの場所に求める条件は二つ。今にも崩れそう、或いは、現時点で崩れているものではない。そして、屋根がある程度機能していること。その上で、出来るだけ近いほうが好ましい。
明らかに条件にあてはまらないものは無視して、一軒一軒チェックしていく。はじめに見たときには気にならなかったが、先刻の家ほどではないにしても、黒い汚れが所々に見られる。臭いも、思っていた以上に鼻につく。
結局、四軒目の廃屋に留まることにしたのは、それほど雨漏りしていなかったことと、入った時点で、すでに小雨というには強すぎる程度に、雨足が強まっていたからだった。臭いも黒いシミのような汚れも、気にはなったが、畳一面真っ黒だったあの部屋に比べれば、いくらかマシに思われた。玄関を上がった正面の部屋は建て付けが悪いのか、襖が開かないことを一度確認している。
「……この家、こんなだったか」
向かって左手の障子を開けて、狗巻が小さく呟いた。部屋を脇から覗くと、確かにはじめに入ったときとは、家具の位置や、壁や畳の傷み具合なんかが、どことなく違っているように感じる。覚え違いだと言われればそれまでだが――。
「いいから、中入れって。土間で休めってのかよ」
横尾が後ろからせっつき、狗巻はしぶしぶといった様子で部屋の中へと踏み込む。
部屋は書斎のようだった。書棚だったとおぼしきものは壊れ、いかにも古そうな本や、もはや紙の束としか形容しようのない状態のものが畳の上に散乱している。
さすがに、このままでは座ることもできないので、部屋の一角に寄せようとそれぞれ動いた。草間だけは、皆が作業しやすいように、と思ってか、スマホのライトで部屋の真ん中辺りを照らしていた。
ほとんどが印刷された文字のようだが、中には墨かインクで手書きで書かれたようなものもあった。
「なんだろ。……なにか書かれていますね」
声は足下から聞こえていた。声の主はというと、いつの間にか膝をついて畳を凝視している。例の臭いが鼻をついた。草間は、その辺りの物をどかし、立ち上がって再びライトで畳を照らした。
”罪”
部屋の真ん中で、大きな黒い文字が異様な存在感を放っていた。墨やインクで書かれたもののようには見えなかった。
雨はだんだんとその強さを増していた。時折、雷が鳴って、そのたびに菅が小さく叫ぶ以外、誰も一言も発しなかった。
あれから、みんなの様子がおかしい。
いまは本や紙の束の下に隠されている、あの文字を見てからだ。
部屋の中心を避けると、自然と部屋の隅に座ることになるわけだが、その位置取りから、他者とある程度距離を取りたがっているのが、見て取れた。
「……こんなときに、ああいういたずら、よくないと思うんですよ」
ため息とともに、小さくぼやいたのは菅だった。
「いたずら?」
「誰かが書いたんですよね。脅かそうとして。さっきここに来たときか、いま片付けるふりして。誰ですか? 狗巻くん? それとも、サエ?」
「なんで、わたし……」
草間が心外そうに呟くが、その声はいかにも頼りなげに響いた。
「さっきだって、私のこと脅かそうとしたじゃない」
「違うよ。本当になにかに見られてる気がしたから……」
「なにかってなに? じゃあ、サエはそのついてきていたなにかを見たの?」
「見ては、いないけれど……」
それ以上言葉が出てこないようで、草間は口ごもってしまった。
「まあまあ。本当になにかがいたのかどうかはともかく、草間さんはそう思ったんだよね。別に悪気があって言ったわけじゃないと思うよ」
態度から察するに、菅は不満そうだった。言い方がまずかっただろうか。
「いや、おれも疑われたんすけど」
狗巻が不平をもらすが、やはり声に力がない。
「誰かのせいにしたいんだろ。だって、そうとでも思わないと――」
横尾でさえ最後のほうは言葉になっていなかった。
皆の様子は普段とは明らかに違っていた。僕は、彼らの前でどういう風に振る舞っていいものか、だんだんわからなくなってきていた。いつものように、テレビやSNSで得た情報をもとに適当に話題に乗って、明るく楽しい人物を演じているほうが、よっぽど簡単に思えた。けれど、いまのこの状況にそのような人物はそぐわないらしい。
「罪、ってなんだろうね」
試しに口にしてみた。暗闇の中、今も部屋の真ん中に横たわっている文字。あれを見てからのみんなの様子は、目に見えておかしかった。たったの一文字畳に書いてあるだけなんて、見ようによっては随分と間抜けに見えるのに。
僕は罪なんて言葉に思い当たる節などないが、彼らは、どうもそうではないらしい。
部屋の壁に寄りかかって座っても、一向に震えは止まらなかった。菅は他の四人のことを疑っているようだったが、狗巻の頭の中には、そんな考えは微塵もなかった。
あの真っ黒に染まった部屋を見たとき――それがすべて血ではないかという考えが頭を過ぎったとき――真っ先に、中学の頃のクラスメイトのことが頭に浮かんだ。色の白い、まだ幼さを残した、いかにも弱そうな外見の男だった。顔までははっきりと思い出せない。
きっかけがなんだったかはもう覚えていないが、ある日、友人のひとりがそいつのことを気に入らないと言い出した。その友人というのが、簡単に言えば怖いやつで、腕っぷしも強く、いざとなったらなにをしでかすかわからない、そういう男だった。狗巻はいつもその男の言うとおりに動いた。機嫌を損ねて、自分が痛い思いをするのが嫌だった。だから、その時も、躊躇なくクラスメイトに嫌がらせをした。
友人は狗巻に命令しない。狗巻は友人の喜びそうなことを自分で考えて実行しなければならなかった。常に友人の顔色を窺って、その口許が緩むのを確認するまで、あの手この手でクラスメイトをいじめた。
たしか、中学二年の夏だった。そのクラスメイトが自殺した。
詳しくは聞かなかったが、手首を切ったかなにかで、部屋中血塗れだったらしい。それでも友人たちは、自殺した彼を馬鹿にして笑っていた。狗巻も彼らに合わせて笑い声をあげたが、内心では恐ろしかった。あいつが死んだのは自分のせいではないか、そう思った。
いま、部屋の真ん中に彼が立っているようにさえ感じられた。
こんなところに迷い込んだのも、車が消え去ったのも、先刻の罪の文字も、全部あいつの仕業なのではないのか。自分をいじめ、死に追いやったおれに、祟っているのではないのか。
つと、と畳を踏む音が目の前で鳴った。見上げた先にそれはいた。ついさっきまで、どうやっても思い出せなかったクラスメイトの白い顔が暗闇にくっきりと浮かんでいた。
狗巻が突然、叫び声を上げた。いつもやる気のない狗巻がこれほど大きな声を出すのを、これまで一度も聞いたことがなかった。
どうしたのか、と声をかける暇もなく、狗巻は部屋を飛び出す。襖を開ける間も惜しんだのか、暗くて上手く開けられなかったのか、障子にぶつかるようにして。直後、大きな音と振動。そして、カエルを潰したときのような声だけを残し、再び静寂が訪れた。
あまりのことに皆絶句した。一瞬、なにが起こったのか理解が追いつかない。
誰も動こうとはしなかった。部屋の外からは呻き声一つ聞こえず、雨の音だけが永遠に鳴り続けるような錯覚を覚えた。
仕方がないので、僕が腰を上げた。部屋の入り口に立つと、玄関先に、腰を奇妙にくねらせた格好で横たわる狗巻の姿が見て取れた。スマホのライトで照らしてみると、首の後ろから障子の骨が生えているのが見えた。
「狗巻くんは……」
振り返ると、菅が入り口付近まできていた。意識して部屋の外を見ないようにしているようだった。彼がどんな状態かぐらい、みんなも想像はついているだろうに。
「死んでいたよ。残念だけど」
困惑したような表情をつくって言う。こういう状況に遭遇することがなかったために、どういう対応を求められているのかがわからない。
「……そんな」
菅は口許に手を添えて、驚いたような奇妙な表情をしている。
「部屋から出てすぐに転倒したみたいだった。障子と一緒に倒れ込んだせいで、それが身体のあちこちに刺さってしまったみたいだね。かわいそうに」
「……なんか、変」
――変?
「変ですよ。先輩、どうしたんですか。なんていうか、いつもと……」
「ごめん。こんなことになって、僕も混乱しているんだ」
慌ててその場を取り繕う。どうやら反応がおかしかったらしい。
「そう……。そうですよね。こんな状況ですもんね」
菅はもといた壁際にゆっくりと戻っていく。こんな特殊な状況だと、他人との遣り取りにいちいち気を遣う。
「狗巻は、いったい何に、あんなに怯えていたんだ」
ずっと黙っていた横尾が小さく呟いた。それは、誰かに向けて言ったようにも、ただの独り言のようにも聞こえた。
「怯える?」
たしかに、何かに驚いたような妙な様子だった。しかし、いったい何に? このほとんど何も見えない暗闇の中でいったい何に驚くというのだろう。
「そりゃあ、こんな状況で、こんな暗いところで――。怖いに決まっているじゃないですか」
菅が例のうんざりしたような声で返す。
「そうか? いま、この瞬間に、なにかおそろしいものでも見たような、そんな感じがしたぜ?」
「……なにが言いたいんですか」
「さっきサエちゃんが言っていたじゃんか。なにかに見られている気がする、って。本当に、なにかいるのかもしれない」
「横尾先輩まで、変なこと言わないでください」
菅の話し方はほとんど怒鳴るような調子になっていた。
「……ユキエちゃん?」
草間の声はいかにも頼りなげに響いた。
「なんでこんなことになるんですか。私が悪いんですか。あのとき、サエの言うことを取り合わなかったから? 私のせいだって言うんですか? 全部、私の――」
なにが彼らをそうさせるのかわからない。しかし、狗巻と同じく、菅の様子もみるみるおかしくなり始めていた。
「大丈夫。ユキちゃんはなんにも心配しなくていいのよ。大丈夫。あなたのせいじゃない」
ことあるごとに、母はそう言った。
母の足が不自由になったのは、菅がまだ小学生の頃だった。菅はそのときのことをはっきりとは覚えていない。気がついたら病院にいて、嗚咽を漏らす娘の肩を父が優しく抱いてくれていた。
歩けなくなった母は、パートをやめざるを得なかった。家事にしても、できないことや一人でやるのは大変なことが増えた。それなのに、菅がなにか手伝おうとするたび、決まって母は笑顔でこう言うのだ。大丈夫、と。
「大丈夫。ユキエのせいじゃないよ。お前はなにも気にしなくていいんだからな」
ことあるごとに、父はそう言った。
何度も何度もそう言われ続ければ、馬鹿でもわかる。
――ああ、私のせいなんだ。私のせいで、母はああなったんだ――
菅は高校を卒業したら、すぐにでも就職しようと考えていた。少しでも早く自分で稼げるようになって、両親に少しでも楽をしてもらおうと。けれど、そのことが両親に知れると、猛反対を受けた。
「大学ぐらい出ておきなさい。大丈夫。それぐらいのお金は貯めている。ユキエはなにも気にしないでいい」
なんでそんなことを言うんだ。いつになったら、私に償いの機会をくれるんだ。いつまで私は、こんな苦しい思いに縛られ続けなければならないんだ。
菅が、突然すっくと立ち上がった。
ついさっきまで怒鳴り散らしていたことなどまるでなかったかのような静かな動作だった。
「ユキエちゃん……?」
心配そうな草間の声など、まったく気にしていない様子で、
「私、帰ります」
とだけ告げた。
「帰るって、どうやって?」
「知りません。けれど、帰ります。帰らないと。両親が待っています。両親に謝らないと。なんとか、許してもらわないといけないんです」
菅の言葉は、ほとんど譫言のようだった。不自然なほど自然な足取りで、狗巻の転がっている横を抜け、土砂降りの雨の中へと消えていった。
草間と僕は、その背中をただただ見送った。菅の放つ異様な気配が、草間に口を挟む隙すら与えなかったのだ。その間も、横尾は部屋の隅にうずくまるようにしていた。
横尾は右手を開いてみた。スティックタイプのガムは強く握りしめていたせいで、手の平の上でひしゃげていた。
息が上がって、肩がひとりでに上下する。その肩をぽんと叩く手があった。心臓が飛び出るかと思ったが、声を上げるのだけはなんとかこらえた。疑いの目を向けられないよう、出来るだけ自然に、そっと手の主のほうを振り返った。
相手の顔は、予想よりも低い場所にあった。大人ではない。自分と同じくらいの背丈。ほっと息を吐き出した。
「お前、まぁたガムかよ。どんだけ好きなんだよ」
杉下は横尾の手の上のガムを見て、呆れ顔で言った。右手はポケットに入れたまま。店を出てからずっと。
「杉下くんは。なにとったの」
ポケットに収まる大きさのものだ。たいしたものではないだろう、と思いながら、自分がとったものよりは値段の高いものだろう、とも思った。
「ないしょ」
そう言って、意地の悪そうな笑顔を見せると、杉下は停めていた自転車を押し始めた。ばらばらと、他の友達も店から出てくる。
「ねえ」
こんなこともうやめよう。そう言おうとしたが、言葉が続かない。のどの奥でつっかえたようになって、呼吸が止まりそうなほど苦しくなった。
「なに?」
そう聞き返す杉下の冷たい視線を横尾はいまでも忘れることができない。
「別に、ガムなんてほしくなかった」
横尾の口からぼそぼそと言葉が漏れ出ていた。酷く不明瞭で、なにを言っているのかは判然としない。こちらに向けたものではないことだけがわかった。
「でも、なにかとってこないと、仲間外れにされる。いっしょにやらないと友達じゃない、って。そんなの友達じゃないって頭ではわかってた。でも――」
横尾は右手を開いて、その一点をじっと睨んでいる。そこに何かあるのかまでは、暗くてわからない。
「返しにいかなきゃ。あの店、どこだっけ? とにかく、返さないと」
菅と同じだった。様子が明らかにおかしい。すっと立ち上がると、迷いなく入り口へと歩を進める。
「横尾先輩、どこ行くんですか」
「返さないと。これ、返さないと」
握りしめた右手に、何か持っているようには見えなかった。
「横尾先輩。だめですよ。行っちゃだめです」
草間の制止をふりほどいて、横尾も部屋を出て行った。
「小林先輩! なんで止めてくれないんですか」
「止める? なんで?」
素朴な疑問だった。彼らの行動を阻害するだけの理由も権利も、僕は持ち合わせていないように思えた。僕にとっても、なんの得もない。
「あなたは、やっぱりおかしい」
草間はなにかに憤っているようだった。
「どうしたの? なにか……」
「近寄らないでください」
なにか怒らせるようなことをしたか、と問おうとしたが、失望と怒りがない交ぜになったような低い声に遮られた。
廃屋の外では、延々と雨が降り続き、一向に止む気配すら見せなかった。
どれくらいの時間が流れたろう。草間は、僕とは反対側の壁に背を預け、膝を抱えて座り込んだまま微動だにしない。僕も仕方なく壁に凭れてぼんやりとしていた。いまが何時なのか確認していないのでわからないが、眠気を感じずにはいられなくなってきていた。
「先輩。起きていますか」
草間の声。冷たく、軽蔑の色を隠そうともしない。
「かなり眠くなってきたけれどね」
質問しておいて、返事をしようとしない。一人になるのは怖いが、僕と積極的に話す気はないらしい。
菅や横尾は家に帰れたのだろうか。この雨の中、もはやどこともわからない山の中を徒歩で。どこか駅にでもたどり着ければなんとかなるのかもしれないが――。
「眠ってしまったら……まずいかもしれません」
草間が小さく呟いた。
「なんで、そう思うの」
「なにかいるかもしれないって言ったの、覚えていますか?」
「ああ。視線を感じるって」
「それ、いまも感じるんです。……なにかに、見られている気がする」
「ふうん」
スマホを眺める。やはり電波は届いていないらしい。ネットも繋がらない。正確かはわからないが、午前2時を回っていた。
「……疑わないんですね」
「信じているわけじゃないよ。でも、疑うだけの根拠もないしね。本当にそういうのがいるかもしれない。だとしたら、みんながおかしくなったのもそいつのせいなのかな?」
「わかりませんよ。そんなこと」
草間が小さく笑ったのがわかった。諦めたような、酷く虚無的な笑い方だった。
「……鬼」
しばらくの間黙っていた草間が、小さく呟いた。
「鬼? って、あの角の生えた?」
「いまはそういうイメージが定着していますけれど、元々は定まった姿のない、或いは、目に見えないものだったらしいですよ。知っている人間に化けることもあるとか」
「視線の主は、鬼ってこと?」
「さあ。ふと思い出したんで。そうだったら面白いって程度の話です。現実にそんなものがいるとは考えにくいですが」
「まあ、すでにこの状況自体が現実離れしているけれどね」
雨は勢いを増し、そのうち、この廃屋どころか、集落全体をどこかへ押し流してしまうのではないかと思えた。
雷は断続的に鳴って、部屋の中を一瞬だけ白く照らす。部屋の真ん中の紙の塊が畳の上に影をつくる。
「罪、か……あれ見てからだよね。みんながおかしくなり始めたの」
ん、と小さく呻くような声。もしかしたら、草間は眠りかけていたのかもしれない。
「……先輩は、なんともないんですか」
「うん。なんとも」
少しの間、沈黙が流れる。
「もしかしたら……先輩みたいな反応のほうが正常なのかもしれないですね。あんなのは、ただの文字です。それなのに、罪と書かれているだけで過剰に反応してしまうわたしたちのほうが異常なのかもしれません」
「草間さんも?」
質問の意味を捉えかねたのか、すぐには返事がない。
「どうでしょう……。気分はよくない、です。誰だって少しくらいは思い当たるところがあるんじゃないですか。わたしにだって――」
「罪……?」
「それほど大げさなことじゃないですけれど。犯罪とかってわけじゃなくて、小さなことなら誰にでもあると思うんです。親を泣かせた、とか、友達や自分を傷つけた、とか、裏切った、とか」
「それが、罪?」
「悪いことをしたな、って思うんです。そうか。心のどこかで罰を欲しがっているのかも……」
「わからない」
「そうですね。先輩にはわからないかもしれません」
草間の声は気怠げなものに変わっていた。
「わたし、先輩のことずっと怖かったんです。いっつも笑ってて、でもきっと誰にも本心なんて見せてない。腹の底では、なに考えているかわからない、ってずっと思っていました」
「へえ」
「そういうとこですよ。ときどき、すごく怖い目をするときがあります。自分では気づいてないかもですけれど」
顔も見えない状況でよくわかるものだ、と感心する。
「気づいているから、必死に隠そうとしているんだよ。普段は」
僕ももう眠気が限界にきていた。だんだんと意識が遠のいていく。
雷が鳴った。白く照らされた草間のそばに鬼が立っているのが見えた。こちらを振り返る鬼の顔を見たような気がしたが、意識はそこで途切れた。
気がつくと、朝になっていた。
木々の隙間から柔らかな光が射している。
僕は茂みの中に横たわっていた。
辺りを見回すと、そこにあの廃屋はなく、集落もなく、ただただ草木が鬱蒼としている。草間の姿はどこにも見当たらなかった。ただあのすえたようないやな臭いだけが微かに残っていた。
「昨夜未明、東京都足立区の空き家で、遺体があるのを同区の男子小学生(11)が発見しました。男の子は、友達と「探検ごっこ」していた最中で、窓から覗いたら、倒れている子供が見えたと話したとのことです。
遺体は5~6歳くらいの男児で、身長約103センチ。白のTシャツにブルーのズボンを履いていました。死後数日とみられ、首を絞められた後があり、殺害方法、遺棄されていたのが空き家だったことなどから、警察は7月から発生している連続誘拐殺人事件との関連を――」
いつものように、朝の情報番組を見ながら朝食をとっていた。
「これで、見つかったのは5人、か」
あの夜から、二週間が経過していた。
あのあと、あてもなく歩き続け、太陽が真上に上る頃にようやく車道に出ることができた。そこで力尽きて倒れていたところに、運良くトラックが通りかかった。
運転手は近くの病院まで送ろうと言ってくれたが、近くの駅まで送ってくれればいい、と丁寧に断った。幸い財布やスマホはなくしていないし、問題といえば空腹くらい。あとになって、ビデオカメラを失くしていることに気がついた。新しいものを買わなければならないのは、正直、痛い出費だったが、旅行用にSDカードを換えておいたのは正解だった。大事な映像は失くさずに済んだのだから。
他の四人はというと、いまのところ誰一人見つかってはいない。狗巻はもちろん、横尾や菅もやはり帰り着くことはできなかったとみえる。
彼らの関係者が何度か訪ねてきたが、なにも知らない、自分は旅行には参加していない、で通した。いらぬ疑いをかけられるのは邪魔でしかないと思った。
彼らはいったいどうしているだろう。みんな死んでしまったとして、僕のようにあの森の中のどこかに横たえられているのか、それとも、いまもまだあの村にいるのだろうか。
休日のショッピングモールは多くの買い物客や家族連れで賑わっている。これだけの数の人が集まると、その中の一人が多少妙な行動をとっても、それほど怪しまれることもない。適当にスマホを眺めているフリをしながら、周囲の様子を観察する。適当なものがいなければ、数分おきに場所を変える。一日中いても、一人も見つからないときもあるし、うまく連れ出せないこともある。
今日は運がいい。お誂え向きに迷子になりかけている子供が目の前にいた。この人混みの中で手をつないでいないなんて、親の自覚の薄さに憤りすら覚える。子供のほうはというと、店舗の入り口で何か説明している人型ロボットに夢中だ。
僕は、親子のちょうど真ん中にさりげなく立つと、スマホの画面を眺める。親が子供を見失っていることに気づかず、この場を離れるまでは動かない。そこで、一瞬でも探されれば、僕はチャンスを失うことになるが、それならそれでいいのだ。リスクを犯す必要はない。僕のやろうとしていることが大人に見つかると、必ず邪魔をされる。
あれは、五歳の頃だったろうか。弟が目の前で死んだ。僕は、おもちゃの剣を弟にとられて、とても腹を立てていた。あいつときたら、何度言っても返してくれないのだ。
目の前に弟の背中があった。その向こうに階段があった。簡単におもちゃの剣を取り返す方法が、目の前に転がっていた。
そのときの感覚をいまでも僕は覚えている。正直なところ、あんな結果を引き起こすとは想像していなかった。僕はただおもちゃの剣を取り返したかっただけだったのだが、それ以上に目の前で起こったこと自体に興奮していた。
七歳くらいの頃、友達と捕まえてきた虫やカエルなんかを、家に一人でいるときに、一匹ずつ色々な方法で殺した。足りなくなったらまた捕まえてきた。本当にたくさんの方法を試したが、結局、直接握り潰すのが、一番気持ちよかった。
八歳になった頃だろうか、四歳の妹の首を絞めた。虫やカエルのように一瞬では潰れなかった。妹の苦しそうな声を聞きつけたのか、すぐに両親に止められた。母は信じられないものを見るような目で僕のことを見、父は僕の頬を殴りつけた。僕はすぐに妹から離され、祖父母の家に預けられることになった。僕が子供の首を絞めているところを大人が見つけると、彼らはなぜか僕の邪魔をするのだ、ということを僕は理解した。
それから数年の経験で、人間の子供に限らず対象が他の動物であっても、その場に居合わせた大人たちは同じことをするのだとわかった。虫やカエルの場合だと、表情に嫌悪感を滲ませるだけなのに、だ。
大多数の人間は僕のようにものを殺すことを好まない。そうしようとしているのを見かければ、邪魔をしてくる。それなら、見つからないようにやればいいのだ。その為には、僕がそういうことを好む人間だと気づかれないように振る舞わなければならなかった。
親がゆっくりと離れていく。カモの親子のごとく、子供は勝手に後ろをついてくるものだとでも思っているのだろう。子供は相変わらず、ロボットに夢中だ。
親の姿が見えなくなった頃、子供はふと気づいて辺りを見回す。親の姿がないことに気づいて呆然としている。泣いてしまう前に、僕は声をかけた。
「ぼく、お名前は?」
屈んで、笑顔で聞いてみる。
子供は驚いた表情を見せるが、なんとか答える。
「……れん」
――いい子だ。
「偉いね。ちゃんと名前言えるんだ。――れんくん、お母さんが君のこと探していたよ」
ぱっと表情が明るくなる。
あっちで待っているから、一緒にいこう。そう言って、手を引く。
ちらりと視界に入る鏡。そこに映る僕の顔に、あの日見た鬼の顔が重なって見えた。




