新天地にて2
警備員詰所を出た涼子は、まっすぐに図書室のある棟へと向かった。
そこは、通称資料棟と呼ばれる場所なのだが、有名私立校というだけあって、それなりの大きさを誇っており、建屋ひとつで図書館と自習室を併せ持つという贅沢な作りになっている。
涼子はゆっくりと扉の取っ手に触れ、これを静かに開けて、中へと入っていく。
まさに地獄から天国だった――。
外から中へと入った瞬間――ひんやりとした、しかし不快ではない空気が、乙女の赤く火照った柔肌を優しく包みこむ。
「あぁ、生き返るぅぅぅ……」
彼女は出入り口付近に立ち尽くして、二度、三度と深呼吸をした。
このほどよく冷涼な空気が、たまらなく気持ちいいのだ。
本というものは、元来、高温多湿の環境に非常に弱く、とてもデリケートにできている。
そのため、図書館のある棟は、温度だけでなく、湿度管理も行き届いているはずだと彼女は考えた。
彼女の見立て通り、外と中とでは温度も湿度も、当然快適性も雲泥の差であった。
しかし、この場にいつまでもとどまっておくわけにはいかない。
一応、施設巡回という体で詰所から出てきていたからだ。
消火器の配置をチェックし、そのほか怪しい場所がないかをざっと確認すると、すぐに次の場所へと冷房の利いた渡り廊下を伝い、移動していく。
さすが私立の有名校というだけあって、比較的新しい校内の施設はどこも奇麗だし、壁ひとつ見ても傷ひとつすら目立たない。
生徒たちもきれいに使おうという意識を持っているからこそ、このようにクリーンな環境を維持できるのであろう。
当然ながら、異常というものは、そうほいほい出てくるものではない。
ただ、ひとつ異常があるとすれば、少し雲行きが怪しくなってきたことであろうか。
先ほどまでまともに目も開けていられないほど、明度全開で自己主張の強かった屋外の光。
この熱暑の、諸悪の根源でもあった太陽は、分厚い雲に覆い隠され、嘘のように外は真っ暗になっていた。
これをチャンスと見て、涼子は屋外の巡回を決行することにした。
夏休みの学校ということもあり、昼間から部活生たちが汗を流している。
陸上競技部に、テニス部。
ラグビー部にサッカー部と、屋外系の運動部は、この暑い中よくやるものだと感心する涼子。
仲間同士で汗を流し、そして笑いあう。
まさに青春である。
そんな青春に、彼女自身あこがれる時期もあったものだ――と、自分の高校時代と照らし合わせて感傷に浸る。
ワケあって、自分はそんな青春とは無縁だった。
それだけに、ちょっとだけ彼ら、彼女らの姿を羨ましいと思うと同時に、ほんの少し――胸が締め付けられるような――不思議な感情が芽生えた。
やがて道路を挟んで反対側の、ネットで仕切られたもう一つのグラウンドへも視線がおよぶ。
そこは、野球部が練習している専用のグラウンドであった。
部員総数――百名以上。
どこかでそう聞いた気がしたが、実際にグラウンドで練習している部員の数はその半数にも満たないように見える。
彼らはそれぞれに別々のメニューで練習しているようだった。
中でも、さきほどからバットを振り回し、そのたびに心地よい金属バットの快音を連発している選手に目がいく。
単純に興味の赴くままに、ネット越しに彼を見つめていると、「こんにちは、警備員のおねえさん」と、後ろから声をかけられてしまった。
「ふぇ!? あ、ああ……こんにちは」
思わず驚きつつ返事を返し、声のした方向を振り向く。
そこには、夏だというのに上下に学校指定の冬用と思われるジャージを着用した――ロングヘアの長身少女が立っていた。
彼女の体格は、まるでファッションモデルのようで、ジャージの上からでも、そのスタイルの良さがうかがい知れる。
二重の意味で目の前の少女に驚いていると、彼女はまるで自分のことでも語るかのように、自信に満ちた表情をのぞかせながら、
「フリーバッティング中の彼、すごいでしょう?」
そう言って涼子の隣に立ち、快音を連発する少年に、熱を帯びた視線を投げかけた。
事実、二人の注目を集めている少年は、バットを振るたびに鋭い打球が打ち返していく。
空振る気配はまったくない。
ましてや、打ち損じてボテボテにバウンドしていくような打球ですらまったく見かけないのだから、見事の一言につきる。
「来年は期待しててください! 彼が私たちを甲子園まで連れてってくれますから!」
鼻高々に断言する長身の少女。
ただ、残念ながら《甲子園》というワードが出てきても、涼子にはいまひとつピンとはこなかった。
別に野球という競技自体に興味など抱いたことは、23年間生きてきて今までなかったのだから、仕方のないことだと言える。
「おねえさん、信じてないでしょ?」
「え!? いや、その……そうなるといいですねぇ、あはは……」
まるで自分の考えが見透かされたようでヒヤリ。
取り繕うように愛想笑いして誤魔化した。
「そういえば、修央館というと、野球も結構強いんでしたよね?」
今度は涼子から切り出した。
野球部がそれなりの実力を備えているのだろうということはなんとなく知っていた。
野球に無関心な涼子といえど、校内に展示してある野球部関連の写真やトロフィーなどは、職業柄よく目にしていたからだ。
「かなり強いですよ! 今年も夏は県の決勝までは残ってましたし!」
やはり長身の少女は自慢げに答えてきた。
「久賀君が四番を張る予定の秋以降、修央館は確実に、ここ福岡で頭一つ抜け出しますよ!」
彼女の物言いは、自信というよりも確信を秘めているように感じた。
なぜそこまで言い切れるのかと涼子は疑問に思っていたが、それもすぐに解決した。
『小泉ぃーっ! 何してんだ、お前ーっ!』
拡声器から地鳴りするほどの大声が響く。
その声を聞くや否や、つい先ほどまで何かにつけて自慢げだった長身の少女は、一転してわかりやすいほど顔をしかめ、「うげっ!」と品性のカケラもない声を上げた。
『そんなところでしゃべってないで、もうちょっと真面目に働かんかぁ!』
「っるさいわねぇ、あのクソジジイ……!」
『マネージャーのお前がそんなんではなぁ!』
「じゃ、おねえさん。監督にサボってるのバレちゃったし、またね!」
小泉という長身少女は、ウインクをするとグラウンドの出入り口へと駆けていった。
***
警備員詰所に戻ると、
「おお加藤さん、ちょうどよかった」
突然、白髪交じりの先輩警備員に涼子は呼び止められた。
訪問者を対応中の先輩警備員の方へと目を遣ると、窓口の向こう側で、ビジネスマン風の若い男が、何やら困った表情で立っているではないか。
白髪交じりの先輩は、事情を説明。
「ああ、先ほど視察目的で理事長さんが訪問されたんだけど、この方も《コンピューティング情報学院》の先生さん……ということらしくてね」
先輩警備員の説明に合わせて、ビジネスマン風の優男と目が合う――。
すると男は、涼子に柔らかい笑みを向けてきた。
男はかなり若く、自分とほとんど年齢も変わらないくらいに思える。
「で、理事長先生たちの視察に同行したいという旨でね、校長室まで……ということなんだが、案内をお願いできるかい?」
先輩警備員は、「僕はここを動けないからさ」と付け加え、眉根を下げて涼子に頼み込んできた。
先輩警備員の話を要約すると、彼は、昼前に話題に出ていた『視察予定の「お偉いさん」の連れ』ということらしかった。
「そういうことなら――」
と、涼子もこれを快諾。
ビジネスマン風の男を先導し、校長室を目指すこととなった。
道中は、天気やこの日の気温など、特に他愛のない話に花を咲かせていた。
「それにしても、女性の警備員さんとは珍しいですよね。ちなみに、おいくつなんですか? ――おお、近いですね! えっとね、俺はね……!」
やがて、そういった話にも膨らんでいく。
「こちらになりますね」
「もう着いちゃったのかぁ……」
校長室前に到着すると、男はちょっと残念そうに肩を落とす。
「警備員さん、どうもすみませんね。道案内ありがとうございます」
「いえいえ、とんでもないです!」
ペコペコと物腰柔らかく頭を下げる男に、涼子は笑顔で応える。
しかし、男の態度とは裏腹に、その表情は曇っている。
先ほどまでのリラックスした表情とは打って変わって、ぎこちなく口角を釣り上げているのが見て取れた。
校長室を前にして、よほど緊張しているのだろうか。
男は一つ大きく息を吐くと、真顔になり、小さな声でささやいた。
「悪いことは言わない。……怪我したくなければ、少し離れていた方がいいよ、警備員さん」
ただ、男の声が小さすぎて、涼子も涼子で、うまく聞き取ることができなかった。
「――え? なんですか?」
相手が何を言ったのかと気になってキョトンとしていると、男は声のトーンを不自然に上げて、「何でもないですよ」と否定した。
「それじゃ、ありがとうございました」
男は再びぎこちない笑顔に戻って涼子に頭を下げると、校長室の方へと歩き出した。
涼子も「はい、失礼します」と、応え、詰所へ戻るために踵を返すのだった。
***
――男を案内しての帰り道。
分厚く真っ黒な雲に覆われていた空は、いよいよ決壊し、外は雷を伴った大雨になっていた。




