新天地にて1
結論から述べると、キャバクラで出会った女――エリこと、本名《吉沢双葉》は、修央館高校理事の娘で、安い給料でも働いてくれるグループ会社の職員を探しているということだった。
エリ改め、双葉が涼子に提示してきた条件は以下のものだった。
募集している職種は、24時間常駐型の学校施設の警備員。
アルバイト契約となるため、給料は上げられない――と言っても、条件付きながら、各種保険完備の上、月々20万前後の支払いは望めるらしいこと。
なにより、職場近くにある従業員寮の空き室をすぐにでも開放できるので、家の心配はいらない。
次の職が決まれば、いつでも出て行ってよいという話。
――以上であった。
涼子は即決した。
家の心配がないこと。
そして、何よりも教師志望だった涼子にとって、双葉が提示してきた新天地・修央館高校での勤務は、彼女にとって魅力的に思えたのだ。
***
ここは密林生い茂る熱帯地方か、はたまたバカでかい蒸し風呂か。
湿気にまみれた日本の夏は、とにかくジメジメ蒸し暑い。
この特有の蒸し暑さを、冷房もない時代の先人たちは、日陰に団扇にそうめんに、風鈴の涼しげな音だけで耐えしのいできたというのだから、どうにも頭が上がらない。
冷暖房完備の施設警備において、それらの問題はつきまとわないはずなのだ。
現に双葉も紹介時に、夏も冬も快適な職場だと謳い文句にしていたほどだった。
――が、しかし。
とても運の悪いことに、修央館高校の警備員詰所に、双葉の謳い文句は必ずしも適用されるわけではなかった。
「なんでこう、ピンポイントにこのクソ暑い時に、エアコン壊れちゃうんですかぁー……?」
ぐでぇー……っと机に突っ伏しながら、妙齢の女性に似合わぬいささか汚い言葉で涼子はぼやいた。
そのぼやきに、同僚の白髪交じりの男が広げていた新聞を折りたたみつつ反応する。
「いやぁ、まったくだね。僕が聞きたいくらいだよね!」
そう言って、男は『東口、二度あることは三度あった!』と大きな見出しの躍るスポーツ新聞を再び広げた。
昨日までは、何の問題もなく動いていた天井に埋め込まれたエアコン。
それが、猛暑になると前々からテレビニュースで口酸っぱく言っていたはずのこの日に、まるで狙いすましていたかのように壊れてお亡くなりになってしまったのだから、なおのことタチが悪い。
壊れることをあらかじめ予見できていれば、このように暑さにやられることもなかったのだろう。
涼子は「うぅぅぅぅ……」と、やはり妙齢の女性にとても似つかわしくない――獣のように低い唸り声をあげながら、恨めしそうに頭上の大戦犯を見上げる。
そしてまた力尽きて机上に頭を落とすのだった。
日陰のくせしてこの暑さ――。
全身は汗でしっとりと湿り気を帯び、長く伸ばしていた髪の毛は頬やら額にはりついてきて、鬱陶しいことこの上ない。
ヘアゴムとヘアピンの合わせ技で後ろ髪を束ね上げたものの、暑さはさほど和らぐことはなかった。
外から風が入ってきたかと思えば、湿気をふんだんに含んでおり、ベタベタと生ぬるく気持ち悪い感触が肌に残る。
加えて、外からは「ミンミン、シャカシャカ」とやかましいほどのクマゼミどもの大合唱。
テレビから聞こえてくる音声がクマゼミの大合唱とさらなるコーラスを奏で、彼女の不快指数に追い打ちをかけてくる。
本来なら暇つぶしくらいにはなるであろう――テレビから流れてくる甲子園中継の――実況音声ですらだんだんと敵に思えてくる程、彼女は頭をやられていた。
『連日熱戦が繰り広げられているここ、甲子園ですが、今日の気温は35度を超えるという予報が出ております――』
「どうせてめえらは涼しいとこから実況解説してんだろぉ……? そうやって楽ばっかしてっから、そんなに腹がでてんだよぉー……? 悔い改めろぉー……」
涼子は、うつろな表情でこのどうしようもない暑さからくる不満の矛先を、解説の男に向けはじめた。
涼子の口撃はなおも続く。
「いいですねえ、いいですねえ。そんなに涼しいところからなんか能弁たれてるだけで、たくさんお給料がいただけて、おじ様方はよろしゅうございますねー……」
力なくうなだれたまま、酔っ払いがつぶやくように不満をぶちまける涼子。
そんな涼子の様子を見かねたのだろう。
「本当はここで待機してなきゃいけないんだけど……」
同僚の男は新聞から顔を出すと、暑さにやられて不貞腐れていた彼女を一瞥し、
「……施設の巡回にでも行ってきたら?」
そう提案してきた。
それを聞いた彼女は、むくっと立ち上がり、先ほどまでそこでだらけていた女と同一人物とは思えないほどハキハキとした口調、張りのある表情で「いいんですかっ!?」と、男に聞き返した。
「いいよー? というか、午後から他校のお偉いさん方が視察だかで訪問されるって話だし、警備は厳重にしといて怒られるってことはないと思うけど?」
男の言葉に、涼子は整いましたと言わんばかりに、笑顔で目を輝かせ、
「要人警護のための厳重警備ッ! それは最重要任務ですね!」
キャッキャと嬉しそうに声を張り上げる。
そして、やたらと姿勢の良い敬礼をおこない、
「加藤、これより校内各所の巡回業務に行ってまいりますッ!」
と言って、そのまま軽やかな足取りで、詰所の扉を勢いよく開け放った。
「はい、いってらっしゃーい」と、メリハリのない声で彼女を見送った男は、テレビから聞こえてくる音声に耳を傾け、何事もなかったかのように再びスポーツ新聞に目を落とすのだった。
***
スポーツ新聞を片手に、甲子園の中継に耳を傾ける――。
同僚の白髪交じりの男が毎年かかさずやる夏の楽しみ方で、かれこれ30年は続けている。
ようやく静かになった詰所内で、毎日楽しみにしている新聞の釣りコラムを読みふけっていると突然、
『ここでニュースの時間です――』
――なんの前触れもなく野球の中継は中断され、テレビからはニュースが流れだした。
男は、この手のニュースは5分後には終わり、すぐさま中継が再開されることを知っていた。
そのためチャンネルは変えず、固定のままだ。
それに、試合展開も一方的なワンサイドゲームだったため、特に残念に思うようなこともなかった。
ニュースでは、各地で猛暑となっていることや、熱中症による老人の搬送などといった内容からはじまった。
これらのニュースを、男は特に気にも留めずに聞き流す。
しかし、不意にとあるニュースが耳に入ってきて、活字を追うのをやめた――。
『昨日午後、北九州市のコンビニエンスストアで、ゴミ箱に手りゅう弾に似た不審物が捨てられているという通報があり、警察が駆けつける騒ぎとなりました』
「手りゅう弾とはね。また物騒なものが落ちてるもんだよね……ってぇ――」
――男は息を詰まらせた。
なぜならテレビの画面には、見覚えのある駅前のコンビニエンスストアが映し出されていたからだ。




