解雇された女2
男は二本指を立て、勝気な笑みを浮かべながら、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにした涼子に問うてきた。
「おとなしく風呂に沈むか、――それとも、このまま野垂れ死ぬか――? どっちがいい? 選びな?」
それは涼子にとって、あまりにも残酷な二択であった。
風呂に沈んで溺死するか――、野に放たれて飢えにもがき苦しみながら死んでいくか――。
彼女は絶望した。
死ぬか、それとも死ぬか――どちらにせよ助かるという選択肢は残されていないということか。
***
大学の一回生だった5年前の初夏。
彼女は家を出た。
それは大学へ通うため、もしくは就職のため――そのどちらでもなかった。
原因は家族との大喧嘩。
絶縁に近い形で、その身一つで家を飛び出したのだ。
最初は、大学の友人宅に世話になっていた。
しかし、やはりずっと居座るわけにもいかず、引っ越し資金を蓄えるとすぐに一人暮らしを始めた。
いつの日か、教壇に立つ――憧れに向かって勉強に励む日々。
親には頼らず、しかし自分の夢は諦めきれない。
彼女は自立と夢の実現に向かってひたむきに努力を惜しまなかった。
そのおかげもあり、彼女は無事に教員免許を取得――したまではよかった。
臨んだ県内の公立高校教員採用試験。
結果は惜しくも、二次試験落ち。
その年の教員試験は倍率10倍以上と言われており、彼女は見事にその壁に跳ね返される形となった。
それからはなんとか一般企業に内定をもらうも、学生の一人暮らしに、就職活動が重なった結果、学費や生活費をはじめとしたお金の問題が付きまといだしていた。
就職すれば経済的にも潤うはずと考えていたが、結果的にこの考えも誤算となった。
研修開始早々、彼女は営業先の人間に暴力をはたらいてしまったのだ。
結果、会社に大きな損失をもたらしてしまい、クビが言い渡された。
入社からわずか、一週間後の出来事である。
原因といえば、セクハラまがいの行為をしてきた相手先にあったものの、ものの見事に彼女一人が悪者にされていた。
このあたりで少なからず精神を病んでいたのかもしれない。
気が付けば彼女は、社会復帰もままならず、家に引きこもりがちになっていた。
当然、その間無収入。
貯金が底を尽きるのも、そう時間はかからなかった。
ない袖は振れない――。
家賃、水道代、電気代は未納の常習者となった彼女。
ついには家財道具等の差し押さえの末に、四年間暮らしたアパートからも追い出されるはめに――。
ホームレスとなった彼女は、絶望という名の雨に打ちひしがれながら、おぼつかない足取りで、とある都市部に隣接する繁華街と歓楽街の狭間にいた。
そこでたまたま出会ったのが、今目の前で二本指を立てている色付き眼鏡のなんとも怪しい男である。
男と出会ってからは、話は早かった。
「ウチに来ないか?」
その一言で、彼女のキャバクラデビューは早々に決まった。
ついでに、寮も用意してもらった。
これでひとまず雨風はしのげ、命の心配もない。
――安堵するとともに、今度は小さいながらも欲が出てきた。
人気さえ出れば、一気に借金はチャラ。
そして、それだけにとどまらず、これまでの人生すらも逆転できる。
もう一度、教壇に立つという夢に向かって走り出せるかもしれない。
――と、彼女は意気込んでこの日を迎えた。
しかし、彼女にとっての現実とは、どこまでも残酷なものであった。
それは、自らの放った回し蹴りが引き金だった。
相手は、店の常連だという齢60手前の、頭から少し髪の毛の浮わついた赤ら顔のオヤジ。
こともあろうに、そのオヤジは、接客中に触れるか触れないかという――なんとも気色の悪い手つきで、彼女の大腿部を撫でまわしてきたのだった。
全身に走る悪寒に、隠しきれないほどの鳥肌。
ふとオヤジの鼻を伸ばした表情を見たときに、彼女の中で何かが吹っ切れたらしい。
気が付けば、落ち着きと妖艶さの共存する空間には似つかわしくない――黒いフサフサとした――何かがふわり舞っていた。
ガラスの割れる音と足元のひんやりとした感触で完全に我に返えった。
それは、どこかで見たことのあるような光景であった。
またやってしまった――。
彼女はオヤジの後頭部に、独楽のようにスピンを利かせた《後ろ回し蹴り》を叩きこんでおり、当のオヤジは前のめりになって、大理石の机に頭を打ち付け、ドリンク類や灰皿の中身を散乱させていた。
セクハラオヤジは顔面血まみれで、明らかに怒り心頭の様子。
しかし、常連だという彼の計らいで、警察沙汰にならなかったことだけが幸いだった。
――しかし残酷なことに、彼女はこうしてクビを言い渡されてしまった。
自らの放った一撃が原因なのは彼女自身、重々承知している。
だが、まさか出勤初日でクビになろうとは、夢にも思わなかったのは言うまでもない。
ここで彼女は一つの重大な事実に気づいてしまった。
ここをクビになるということは、つまり――。
***
目の前の男がどうしようもない悪魔に見えた。
サングラスの奥で鈍く光る瞳、その勝気な笑みすらも、悪魔の微笑にしか見えなくなってくる。
悪魔の微笑みが彼女に選択を迫る――。
さあ、選べ……! どちらにせよ、貴様は死ぬ運命にあるのだがな。
男の――そう言わんばかりの、ドス黒い微笑みだ。
死ね、死ね、死ね、死ね――。
死ぬ、死ぬ、死ぬ、このままでは死んでしまう――。
男からの無言のプレッシャーに耐え切れなくなった涼子は、
「両方、嫌ですぅぅぅぅぅッ!!」
大きく叫び声をあげ、喚きだした。
「どっちを選んでも、死ぬことに変わりはないじゃないですかぁぁぁッ!! そんなの、そんなの……!」
まるでしゃっくりでもするかのように、彼女は嗚咽する。
その様子に慌てて男は駆け寄り、あたふたしながらも涼子の肩を抱いて、弁明した。
「ちょ、ちょっと! おい! リオちゃんッ! 冗談! 冗談だってば……! ていうか、いや、別に死ねとは言ってないし! 大丈夫、キミは死なないから!」
「嘘ぉっ! しょんなのうしょぉっ!! お腹がすくのも嫌だけど、お風呂に沈められたら、わたし、死んじゃいましゅっ……!」
涼子の言葉に、男は苦笑いを浮かべ、誤解を解きほぐそうと試みる。
「ああ、えっとね、風呂に沈めるってのは、そういう意味じゃなくてね」
「――権田さん、サイッテー……」
突然事務所の扉が開いたかと思うえば、冷めた声音が男を容赦なく貫く。
その声の主は、半開きになっている扉から冷めた視線を男に投げかけていた。
「や、エリちゃん! そ、そういう意味ではなくてねっ!」
「――じゃ、どういう意味なんですかね?」
エリと呼ばれた妖怪猫女のような顔をした女が、怪訝そうな表情とともに部屋へと入ってきた。
エリは細身の体にとても似合った――艶のある青を基調としたドレスに、自己主張が控えめなワンポイントを意識したアクセサリーを身に着けており、その風貌から、彼女もまたキャバクラのキャストであろうことがうかがい知れる。
「あれだ、冗談だよ、冗談! 冗談のつもり――」
「――女の子を傷つける冗談はよくないと思いまーす!」
いまいち締まりのない声で男の冗談をあげつらうエリ。
流すように送った視線が、涙と鼻水でボロボロになった涼子と交わると、権田に向けた抑揚のないしゃべり方から一転して、とても嬉しそうに、
「いやぁ! でも、スカッとしたよぉ! あの見事な回し蹴りは!」
屈託のない笑顔で、そう一言投げかけてきた。
しかし、涼子の沈鬱な気持ちは変わらない。
「……でも、私。大事なお客様にやってはならないことを……! うぅ……っ」
「いやいや、アタシらもね。あの男にはさんざんセクハラされ放題だったからさ! 誰かがあの男、シバいてくんないかなぁー、なんて期待してたわけよ? えっと、お名前は……何さんだっけ?」
涼子は黙ってうつむく。
自分はクビになったのだから、名前はもうない。
――思い出すと、また泣けてきた。
その様子に、ここまで明るく振舞っていたエリですらも、さすがに困惑の表情となった。
「え? どうしたの!?」
涼子は首を横に振ると、エリに真実を打ち明ける。
「クビに……なりました」
「……クビぃ?」
その言葉に、じっとりとした目つきで権田を睨みつけるエリ。
しかし、彼女のぐつぐつと煮えたぎる権田に向けられた嫌悪など、どこ吹く風――。
涼子は突然、「そうよ! クビなのよっ!」と叫んで二人をぎょっと驚かせた、かと思えば、今度は権田に泣きすがりだした。
「クビってことは! 家は! 家はどうなるんですかっ!?」
ある意味、彼女にとっての一番の死活問題は、家の心配だった。
このままでは、またホームレスに戻ってしまう。
その気持ちが、彼女をただひたすらに駆り立てていた。
しかし権田は、飄々とした態度で返答する。
「寮のこと? そりゃいられないでしょうよ?」
「そ、そうですよね……。知ってましたごめんなさい……」
小さな声で返して、再び泣き崩れる涼子。
その隣で腕を組みながら、エリが呆れたように言う。
「――で、彼女にソープへの転身を勧めてたってわけ? ……あほらし」
「でも、しょうがないだろう? 人はみな、生きていかねばならないのだ。それに彼女、家もないらしいからね」
「家がない、ね。……でも、麻生のセクハラごときに耐えられなかったこの子には、身体を張った仕事はちょっと無理だと思うけど?」
「まぁ、一理あるねぇ……。でも彼女、素材はいいから、絶対人気出ると思ったんだけどなぁ」
「冗談とか言いつつ、やっぱり本気だったんじゃない。……あきれた」
エリは嫌悪感を隠そうともせず権田をひと睨み。
それから一呼吸おいて、今度は涼子のもとへと歩み、寄り添うようにしゃがみこんだ。
そして泣きすする彼女の背中をさすりながら、励ますような口調で訊ねた。
「ねえ、あなた? 家がないのなら、ウチに来ない? 一時凌ぎ的な仕事でよければ寮付きで斡旋できるし。もちろん、あなたさえよければ……だけど」
エリという出会ったばかりの女からかけられた温かい言葉。
そして、彼女の手から伝わってくるぬくもり。
久しぶりに人の温かみに触れた涼子は、感極まってまたしても涙を流すのだった。
しかし、この時涼子は、なぜ出会ったばかりのエリという女がこうも親身になってくれるのかということに、疑問を抱くことはなかった。
否、正確には感極まるあまり、抱く余裕すらなかったのだが。
しかし、この答えはすぐに明らかとなった。
***
――あれから、一か月が過ぎ、
「おはようございます! ……おはようっ!」
朝の柔らかな日差しを背に、赤レンガ造りの立派な門をくぐる十代中盤から後半にかけての若者たち。
左胸に縫い付けられた鷹をあしらったワッペン付きの真新しい制服を着こなし、涼子は次々に彼ら、彼女らとさわやかな挨拶を交わしていく。
金と欲望が渦巻いていた歓楽の街から一転。
彼女の活躍の舞台は――瑞々しい新緑の若葉生い茂る――≪私立修央館高等学校≫へと移っていた。




