解雇された女1
右サイドに流されたウェーブのかかった亜麻色の長い髪。
闇夜に舞う蝶の羽を連想させるフリル付きのドレス。
一見、華やかな姿をした女。
しかしながら、彼女はどこか色気や妖艶さとは無縁の位置にいた。
うつむく彼女の頭上で、チカチカと点滅する無着色の蛍光灯。
それは、彼女を取り巻く灰色の空気と、小さく張り詰めた背中を照らすのみ。
彼女の緊張した肩越しに聞こえてくるのは、煙草の焼ける音と、遠くから聞こえてくる落ち着いたジャズの音。
そして、湿り気を帯びた弱々しい男の唸り声だった。
「本当、リオちゃん……勘弁してよぉぉ……」
今にも消え入りそうな声音を発した男。
――彼は存在すら忘れたように灰の伸びた煙草を右手に携えたまま、アルミ製のいかにもな安っぽい事務机に片肘をつき、頭を抱えている。
その表情は苦虫でも噛んだかのようであった。
「ご、ごめんなさいっ! あの、私……っ!」
女は、自らの小さな拳を握りしめ、苦し紛れになりながらも必死に何か言葉を紡ごうと試みる。
だが、的確な言葉がすぐには浮かばない。
男は、頭を抱え込んだまま、首を小さく横に振り、大きなため息をもらし、鉛のように重く沈んでいた頭をゆっくりと持ち上げ、茶褐色のサングラス越しに、ドブ川のように淀んだ瞳で女を見つめた。
「いやいや、リオちゃん。終わったことは仕方ないことだよ……」
言葉こそ、女をたしなめるものであったが、やつれた表情に、力ない声音事態の重大さを物語っていた。
男は思い出したように陶器の灰皿へと右手を伸ばし、首を折られた骸達の山中に、燃え尽きた仲間を落としこむ。
再び煙草を口にくわえると、ぼんやりと天井を見上げ、小さな声でささやきだした。
「リオちゃん……。あんまり言いたくはないんだけど、」
男の喉元から聞こえてくる小さな音――。
――女はほんの一瞬だけ全身をびくつかせる。
たった二文字の言葉が彼女の脳裏を紫電のごとく駆け巡っていく。
その言葉は、今の彼女にとって、死をも意味するほどの重たい言葉だった。
天井を見上げていた男が、ゆっくりと首を戻すと、女を見据えて静かなトーンでこう言った。
「君には、今日でやめてもらうことになる。……残念だけど、ね?」
二人の間を静寂が包む。
女が唾を飲み込む音すらも響くほど、その静寂は強大なものだった。
沈黙の中でかろうじて響くのは、古くなった蛍光灯のジジジという今にも息絶えそうな鼓動と、煙草の焼ける音。
そして、場の空気に相応しくない――ピアノと管楽器による小さな旋律。
女は、震えた声で、恐る恐る確認する。
「クビ……ってことですか?」
「そうなるね」
間髪入れずに、残酷な真実だけが告げられる。
光沢をまとったピンク色の唇は、短い吐息を押し出した後、ちらりと覗き込んだ白い歯によって噛みしめられる。
フリルを掴んでいた拳には、より一層の力が込められ、プルプルと生地を小刻みに震わせていた。
男はもう一度だけ煙草をふかし、そのまま首を折られた骸達の底へと押し付ける。
ピリピリとした空間に、再び訪れた灰色の沈黙。
なんとも息苦しい空間だ。
だが、男は自らの周囲に漂っている煙を払いのけ、その心地の悪い沈黙を早々に破った。
「いやぁ、でも、まぁ~ びっくりしたわ! まさか、キングに回し蹴りをかまして、挙句カツラまでふきとばしちゃうんだからさ! まさに、前代未聞っ!」
180度反転した男の明るいトーンが、四方八方――壁へ天井へと霧散していくどんよりとした空気の対流に拍車をかける。
そして、――ぬわはははっ!
――独特の豪快な笑い声とともに、男は天井を仰ぐほどに後ろへと思い切り背中をそらす。
しまいには、笑いすぎで息切れする始末。
ひぃひぃと呼吸を整えるように今度は前のめりになって、女に再び目を遣り、息も切れ切れに言う。
「リオちゃん……、いや、加藤涼子さん? アンタ、きっと大物になりますわっ! くくく、ふふぅっ……!」
ふぅーっ、ふぅーっ……と、笑いを必死にこらえ、苦しそうに息を整える男。
だが、源氏名『リオ』改め――『加藤涼子』と呼ばれた女は、依然として全身を力ませ、目には涙を浮かべ顔をこわばらせていた。
「もう、加藤さん、ごめんってぇー! そんな怖い顔いつまでもせんといてなぁー?」
関西なまりのある軽快な口調で、男は涼子を慰めようとするが、彼女は首を横に振る。
「違うんです。マネージャー……。私、わたしぃ…………」
震えた声で、ぶつぶつと何かをささやく彼女。
何かを言いたげだが、それが喉元につっかえ出てこないのか、声を絶ったと思えば、綺麗な薄紅色に染められた頬が震えだしていた。
次第に彼女は息を荒げはじめる。
「うん? どないしたん?」
男は緊張感のない声で、何が違うのか、急にどうしたのかと聞き返す。
だが、彼女の呼吸は荒さを増していき、少しずつ涼しげだった顔色も紅潮していく。
気が付けば頬だけにとどまっていた痙攣は、彼女の顔全体、やがては彼女の身体全体へと波及していき――耐えきれず彼女は顔を両手で覆い隠す。
男は、彼女の突然の変貌ぶりに驚き、
「え? なになになになにぃっ……!? 大丈夫か、おいっ!」
叫びながら彼女の両肩を力強くつかんだ。
――が、今度は彼女から同じように自身の両肩を掴み返され、不意に目が合い、
「――このままじゃ、私、わたしッ! 生活できないんですぅぅぅぅぅッ!!」
それは彼女の全身全霊――魂の叫びだった。
目からは大粒の涙。
色よく塗りたくられていた化粧も、せっかくの整った顔立ちも、ぐちゃぐちゃのしわくちゃですべてが台無しだ。
だが、彼女の小さな身体から放たれた――体全体を、魂の力を大きく使った渾身のストレートは、確かに男の心に叩きこまれ、力強い轟音を上げたのだ。
「何を言い出すかと思えば、命乞いかよ……? やっぱ面白い奴だな、お前」
男は大きく口を真横に開くと、息を吐くと同時に小さく笑った。
そして、
「じゃあ、選べ!」
男は二本の指を立て、サングラスの奥で勝気な笑みを浮かべる。
「おとなしく風呂に沈むか……それとも――――」
「両方、嫌ですぅぅぅぅぅッ!!」
その夜、金と欲望が支配する――ネオンの光きらめく大人たちの街に、女の悲痛な叫びが響き渡った。




