24 ミントの心配
スティナが森の奥に旅立ってから、シェザード家の屋敷には物寂しい空気が漂っていた。彼女がムトンシェにやってきてからまだ一か月も経っていないのに、既にいることが当たり前の存在となっているのだ。
ミントもまた、落ち着かない日々を過ごしていた。日課の剣の素振りも精細さを欠いており、集中できていないのは明白であった。
――スティナは無事でしょうか。変なものを食べて、お腹を壊していなければ良いのですが。
中身が幼い子どもではないことは分かっていても、つい心配をしてしまう。仮にもこの世界の神となるかもしれない存在だというのに、おかしな話だった。
考えれば考えるほど、スティナは不思議な少女だった。
戦う力を持たず、世間知らずで凡庸。見た目は可愛らしいが、洗練された美しさはなく、見惚れるほどではない。
それでも目を惹かれ、応援したくなる。
おそらくスティナはどう振る舞えば相手に好印象を与えられるか、分かっている。それでもなお好ましいと思えるのは、彼女に利己的な下心がないから。
あの笑顔や可愛らしい声は、相手を喜ばせるため。不快にさせないためのもの。
奉仕精神の塊だ、としみじみミントは思う。
スティナのそばにいるとひどく安心する。
彼女は絶対に自分を傷つけない。心地よい時間をくれる。
――だからこそ、従魔に対して怒りを見せたときは驚きました……。
ラグーザ峠で聞いたスティナの歌には激しい敵意が含まれていた。彼女とて、誰にも対しても優しいわけではないのだ。
歌うことしかできないのに危険を顧みず立ち向かっていった姿に、ミントは感動した。
スティナという神の卵が自分たちの味方だと知り、涙が出るほど心強かった。
――スティナには、絶対に神になってほしいです。
守りたいし、守らねばならない。助けたいし、助けねばならない。
そう思うのは自分だけではないはずだ。みんなはスティナが帰って来るのを待ち侘びつつ、動き出している。
豪嵐傭兵団の面々は借り受けた空き家の修繕の傍ら、スティナのために村の舞台を改修している。「立派なものを造って驚かせてやろうぜ」とザミーノたちは金にならない大工仕事に精を出していた。
ミシェルはスティナの読み書きの勉強のため、お気に入りの本を読み返して使えそうな物語を探している。というか、一緒に読みたい本を選んでいる様子。人見知りの激しい子どもだったのに、すっかりスティナに懐いていた。
ジュージはダスクの一番弟子の座を得ようと、必死に精霊との対話を試みている。「お嬢ちゃんには負けられないぜ」と意識しつつ、自分が教えられそうな初級魔法もきっちり復習している辺りは微笑ましい。どうやら兄弟子面をしたいらしい。
コレットは実家から昔のドレスを取り寄せ、マリーと一緒にリメイクしている。スティナの舞台衣装を作っているようだ。「きっと似合うわ! 可愛いわ!」と目を輝かせており、実の娘のように目をかけている。
村人たちにいたっては、今度はいつスティナの歌を聞けるだろうかと、口々に話している模様。農作物を成長させる奇跡の歌声は、民の希望であった。何より娯楽の少ないムトンシェで、スティナの存在は早くも日々の糧となっている。
これは異常だとミントは思う。
彼らはスティナが次代の神候補だと知らない。不思議な歌声を持っているとはいえ、少し前まで田舎町の浮浪児だった少女に対し、ここまで好意を寄せて支援するなんて。
スティナは呆れるほどに愛されている。
これがスティナの神性のなせる業か。
はたまた異世界の“アイドル”の魅力なのか。侮れない。
――と言いつつ、私もスティナのためのトレーニングメニューを考えているわけですが……。
本人は体力をつけたいようだし、腹筋も鍛えたいと言っていた。最低限の護身術だって必要だろう。
――私自身も、強くならねば……ダスク様やスティナを守るために。
ミントは思い出していた。
この村に滞在しているもう一人の神候補・アサギに勝負を挑んだ日のことを。
めったに出会えないレベルの剣士が同じ屋敷にいるのだ。己の研鑽の糧にしたいと思うのは当然だった。
訓練用の木剣で実戦形式の試合を申し込んだ。
『別に構わないが……どれくらい手加減すればいい?』
アサギは一言目から無礼極まりなかったが、仕方がないとミントは怒りを飲み込んだ。彼は“禍身”を一撃で倒す実力者なのだ。本気を出されたら訓練にならない。
試合の結果は無惨だった。まるで相手にならなかったのだ。
動きを先読みされ、完璧に躱され、思いもよらぬ角度からの一撃で木剣を飛ばされた。
その後かなり手加減してもらい、あえて何度か打ち合ってもらったが、淡々と処理された。アサギの振るう剣には、一撃一撃に命を刈り取るような迫力があった。あっという間にミントは汗だくになり、地面に膝をついた。しかしアサギは息ひとつ乱していない。
少なからずショックだった。ここまで実力に差があるなんて。
さすが神の雛。スティナには感じない畏怖を抱き、ミントは小さく震えた。
『あなたの剣は、重さはないが鋭さがある。僻地の領主の護衛としては申し分ない』
ただ、とアサギは付け加えた。
『ダスクさんほどの人が今の地位で燻り続けるとは限らない。最後まで付いていくつもりならば、精進が必要だろう……ああ、余計な世話だったか』
そう、余計な一言だった。
ミントも、シェザード家に仕える他の従者も、ダスクが地方領主の器に収まらない傑物であると信じていた。
領主という煩わしい仕事がなければ、魔法史に残る研究成果を出しているはず。
精霊魔法が侮られる時代でなければ、王宮の筆頭魔法使いにだってなれるはず。
ダスクには、あまり野心がない。自分と周囲の者がそれなりに幸せならば、現状を維持することに努める。無理をして名声を求めない人だ。
王国上層部の見る目のなさに、ミントは密かに失望していた。
歯がゆく思いつつ、きっとこの先も変わらない。そう諦めていた。
しかし不思議な巡り合わせで、ダスクは神の卵と邂逅した。
――スティナもアサギさんもダスク様を認めている。二人の神候補に見出された方ならば、きっと……。
それでなくとも、世界は破滅に向かって動き出しているという。最高神の交替により、時代が変わる。
ダスクが日の目を出る時が来るかもしれない。彼が躍進するのならば、自分も必ずついていく。一番近くで彼を守るのだ。他の者に今の立ち位置を奪われたくない。
「もっともっと強くならなくては……」
「あまり無茶な鍛練はするなよ」
気づけば、ダスクが背後に立っていた。呆れ果てたような表情をしている。
「怪我が治ったばかりだろう。もう少し体を労われ」
「は、はい。気をつけます。……何か御用でしょうか」
ダスクは手紙の束を差し出した。
「これの手配を。速達で確実に」
「かしこまりました」
宛名を確認してミントは首を傾げる。近隣の貴族の名がずらりと並んでいた。あまり貴族階級と交流していないダスクにしては珍しい。
「スティナのことで根回しをしようと思ってな。あいつはどうやら、たくさんの人の前で歌って、ちやほやされたいらしい。ならば、少しでも大きな舞台を用意してやらねば」
「……はい。きっと喜ぶと思います」
ダスクもまた、スティナのためにできることをしている。ほんの少し嫉妬しつつも、ミントは素直に嬉しく思った。ダスクがいつになく生き生きとした顔をしていたからだ。
「しかしあいつら、ちゃんと一週間以内に帰ってくるだろうか。アサギはどうも信用できぬ。どう思う?」
示し合わせたように二人は森の方角に視線を向ける。
「剣を合わせた感じでは、邪気はありません。悪い方ではないのでしょうが……どこか冷たいです」
「そうだな。我々のことを見下しているように思える。神らしいと言えば神らしいが、スティナを捨て置く真似をしそうで怖いな」
「スティナへの対応は柔らかいので、おそらく大丈夫かと。二人で楽しそうに話している姿をよく見かけます。きっと仲良く帰ってきますよ」
ミントたちには無表情を崩さないアサギだが、スティナの前では微笑むこともある。やはり神候補同士、異世界の記憶を持つ者同士、通じるものがあるのだろうか。
それともこれもスティナの魅力の賜物か。あるいは、アサギの側に何か特別な感情があるのかもしれない。
「仲良く……」
見た目の歳は離れているが、神々にとって年齢など些細なことなのでは?
そんな疑問とともにあまり心に優しくない想像をしてしまい、ダスクとミントの間に気まずい沈黙が流れる。
「……ダスク様。帰ってきたとき、スティナとアサギさんが妙な雰囲気になっていたら、どういう対応をすればいいでしょうか?」
「やめろ! 寒気がする!」
遠くの空に黒い雲を見つけ、ミントは落ち着かない気分になった。
一週間きっかりで、スティナとアサギはムトンシェに帰還した。
しかし、思いも寄らぬ姿で。
「しっかりしろ! スティナ! どうしてこうなった!?」
スティナは高熱に浮かされ息も絶え絶えの状態。アサギに背負われて帰ってきた。
今にも死にそうに見え、シェザード家の面々は青ざめた。
「神器があるからって神技を連続で使ったのと、途中で雨に打たれたせいだと思う……あと、俺がスティナの心に負担をかけてしまった」
「貴様! スティナに何をした!?」
激昂するダスクに、アサギは何も答えなかった。しかし、落ち込んでいるのは彼の表情から読み取れる。
ミントは目を見開いた。冷たい無表情ではなく、アサギの顔に感情がある。
「アサギくんは、なにも悪くないです……わたしが調子乗っちゃって……ごめんなさい……」
その言葉に追及を諦め、ダスクはアサギからスティナを剥ぎ取り、彼女の部屋のベッドに寝かせた。
「だいじょうぶ、だよ……アサギくんも、疲れてるでしょ? 休んできて」
「もう少しここにいる」
アサギはそばを離れなかった。ぎゅっと小さな手を握っている。スティナの手首には見慣れぬブレスレットがあった。
「うん。じゃあ、わたしが眠るまで、ね」
ミントもダスクも黙って見守ることしかできなかった。この神聖な空気に立ち入る勇気はない。
――本当に、何があったのでしょう?
森の中での出来事について、スティナとアサギが口を割ることはなかった。




