12 勇気の歌
何が起こったのか、一瞬分からなかった。
横たわった従魔の体が大きく膨らみ、次の瞬間に一番近くにいた馬から血が噴き出していた。
断末魔の嘶きが無情に響く。
従魔が緩慢な動作で起き上がる。両目に灯る赤が濃くなっていた。
ようやく気づく。従魔の体から流れた黒い血液が地面から伸び、馬の横っ腹を貫いていた。
「こいつぁ、やべぇ! だんな、お嬢ちゃん、逃げろ! 馬を使え!」
ザミーノが斧を全力で振り下ろし、棘を切断した。しかし切り取られた部分は従魔の体に戻り、抉れた胴体を再生していった。ダスクの魔法のダメージがあっという間に回復する。
「自己再生だと……そんな従魔、聞いたことがない……!」
「ダスク様! スティナを連れてお逃げください!」
ミントが地中から生えてくる棘を、目にも止まらぬ速さで斬り裂いた。敵にダメージはなく、従魔の体に戻っていくだけだった。
傭兵の一人が、ザミーノの馬を連れてやってきた。ダスクとスティナを無理やり乗せようとする。
「あんたらが無事逃げ果せたら、オレたちも撤退できるからよ! 早く行きな!」
このような状態になっても傭兵たちは仕事を投げ出さず、依頼人を逃がそうとしていた。決死の突撃で従魔を足止めしている。
そばで震えていたジュージも、何度もよろつきながら立ち上がった。その横顔は泣いているように見えた。
「俺たちが……帰らなくてもっ、報酬をギルドに……田舎のおふくろに渡るようにしてくれよ……!」
そして腰の剣を抜き、自らを鼓舞するように叫びながら兄と仲間の元へ駆け出した。
ダスクは苦しげな表情で馬にまたがり、片腕でスティナが落ちないように抱え込んだ。ダスク自身も体が辛いようで、あまり力が入っていない。
ダスクの上級魔法でも倒せなかったのだ。もう逃げるしかない。
「あの、ミントさんは?」
「私のことは気にせず先へ」
「そんな……!」
周りを見渡したが、騎獣たちは怪我をするか逃げ出しており、獣車の鹿たちも膝を折って震えていた。この馬以外は全滅だ。
ダスクとミントが一秒よりも短い時間、見つめ合った。ダスクは顔を歪め、対照的にミントは凪いだ海のように穏やかな表情だった。
ミントが小さく礼をして、従魔の方へ向かった。同時にダスクも手綱に手をかけた。
「待って! ミントさん!」
「口を開くな!」
傭兵たちとミントが一丸となって従魔を抑えているうちに、馬がその脇を駆け抜ける。みんな血を流し、苦しげな声を上げていた。
――こんなの、嫌だ……。
こんなはずじゃなかった。
スティナは後悔に打ちひしがれていた。やっぱり峠越えなんてやめておけば良かった。自分のせいでミントが、傭兵団のみんなが死んでしまう。
「ぐあああああ!」
地響きとともに、耳を塞ぎたくなるような声と、肉が潰れる音が聞こえた。
「くそっ!」
地面が割れ、乗っていた馬が足を取られた。ダスクとスティナは宙に投げ出され、滑るように地に落ちる。
「ダスク様……!?」
ダスクは着地の際、スティナを庇った。そのせいで脚を痛めたようだった。助けを求めて反射的に振り向くと、地獄絵図が広がっていた。
傭兵団のほとんどが地に倒れ、動かない。
従魔の棍棒がザミーノを襲った。ザミーノは斧を従魔の頭に向かって投げつけたが、弾かれて木に突き刺さるだけだった。
みしり、と嫌な音がザミーノの体から聞こえた。
「姉ちゃん! やれ!」
ザミーノが捨て身で止めた太い腕を駆け上がり、ミントが従魔の顔に向かって刺突を繰り出した。
「うっ!」
しかし棍棒を持たない手が予期せぬ速さで動き、ミントを叩いた。
「ミントさん!」
地面に倒れたミントが肩を押さえ、もがいている。ザミーノも吹き飛ばされて動かない。
その場に立っている者は一人もいなかった。スティナは腰を抜かしてしまい、従魔が黒い棘を集めて体を再生していくのを黙って見ていた。
「何をしている……お前だけでも、行け」
ダスクの言葉にスティナは首を横に振った。涙がとめどなく溢れ、言葉にならない。恐怖で呼吸すらままならなかった。
――わたし、どうすれば……?
どうやって償えばいい。途方もない罪悪感が胸に満ち、思考が空回る。
「歌わないのですかにゃ? 今のスティにゃんには、それしかできないはずですにゃ」
ぽつりと、そんな声が聞こえた。見渡してもニャピの姿はない。
――歌? 今、ここで……?
そんなものが何の力になるのだ。正気ではない。
第一、声が出ない。歯の根さえも合わないのだ。スティナの心は恐怖に塗りつぶされ、今にも壊れてしまいそうだった。
――時空の神様、お願いします。わたしはもうリタイアします。前世の記憶も歌も夢も諦めます。命だって、もう要らないから……。
従魔が体の再生を終えた。瞳の色が赤黒く光り、周囲に転がる人間を何の感情もなく見下ろしていた。
傭兵たちとミントにはまだ息があった。その命の灯を消そうと、従魔が棍棒を振り上げる。
――みんなを助けて……わたしのせいで誰かが死ぬなんて、耐えられない……。
理不尽な死。スティナの心を占めたのは、前世の自分の最期だった。あのときの痛みと恐怖が、今度はミントたちに襲い掛かろうとしている。
ぎゅっと目を瞑ったスティナの脳裏に声が聞こえた。
『情けないです。神に祈るよりも先に、やるべきことがあるはずです』
甦ったのはカグヤの声。
いつ言われたのだったか。よく思い出せない。
『希望を歌うのなら、自らの力で輝かなくては説得力がありません。命を懸けるのなら、歌に全てを込めなさい。あなたにならできるはず。この私が選んだのだから』
スティナにはもう自分を信じることができなかった。しかし、自分をメンバーに選んでくれたカグヤのことは信じられた。
彼女が間違ったことを言ったことは一度もない。
――カグヤちゃんなら、きっと諦めない……。
強い衝動がスティナの体を駆け巡った。歯を食いしばり、深く息を吸い込む。
「――――――」
涙に濡れ、震えた声が響いた。
とあるアクション映画の主題歌、『ブレイヴ・ペイン』――カグヤが作った戦いの歌。立ち向かえ、と背中を押してくれる歌。
情けない無力な自分を封印し、スティナはカグヤになりきって歌った。
滲む視界を拭い、勇気を振り絞って目を開いた。
従魔が棍棒を振り上げた状態で動きを止めていた。確かに歌に反応している。
ならば、とスティナは立ち上がり、歌いながら従魔に向かって歩き出した。
「スティナ! 馬鹿か!」
ダスクの言葉に心から同意しつつも、スティナは足を止めなかった。
自分でも愚かだと思う。でもそれで良かった。
臆病者になるのは嫌だ。
人が死ぬのを黙って見ているなんて我慢できない。
みんなが武器を持って戦ったように、自分もたった一つの武器を振るう。
――わたしを見て。わたしだけを。
スティナは従魔に向かい、にこりと微笑んだ。
その瞬間、分厚い雲間から、柔らかな光が差し込んだ。光に誘われるように風が吹き、木々が艶を取り戻していく。仄かな光の粒が枯れた大地から立ち昇る。
景色が鮮やかに塗り替わっていった。
「これは……一体何が?」
「マナが……溢れている……」
反対に、従魔の体からどす黒い瘴気が溢れ出し、空に還っていく。大地のマナが甦ることで、従魔の力を削り取っているのが肌で分かった。
錯乱したように従魔が棍棒を手離し、頭を抱えた。耳を塞いでいるようにも見える。大きな雄叫びでスティナの歌を掻き消そうとしていた。
スティナは笑みを浮かべたまま、容赦なく歌を紡いだ。
どんな理由があろうが、許せない。たくさんの人を殺し、ミントたちを傷つけた。
怒りが消えない。自分自身と、目の前の怪物に。
ついには従魔が手を振り上げた。スティナを叩き潰すつもりだった。
避ける気になれなかった。一歩だって引きたくないと、いつになく強気になってスティナはただ歌声を張り上げた。
【来たれ、暴風の使徒!】
風の刃が従魔の手をずたずたに切り裂いた。短縮詠唱なのにとんでもない威力であった。
驚いて振り向くと、ダスクの周りに光の粒が集まっていた。赤、青、緑、黄色、その中でも黄色の光が自己主張するように激しく明滅している。
「そのまま歌っていろ!」
スティナは頷き、さらに声に力を込めた。
ダスクの元にマナが集い、強く輝き、精霊が顕現していく。光はやがて黄色一色となって帯になり、周囲に広がっていった。
【大地を穿つ魔を払うは地脈の主! 我が呼びかけを導に、来たれ! その貴き名は――地の精霊王】
腹の底に響くような地響きとともに、せり上がった土壁が巨大な蛇の頭となって現れた。そして、その裂けた口で従魔を丸飲みにする。
従魔の体がずるずると地中に引きずり込まれていく。おぞましい断末魔の叫びが徐々に小さくなり、聞こえなくなると、黒い瘴気は掻き消され、最後に清廉な光となって弾けた。
「…………」
静寂。
スティナは激しい眩暈を覚えてその場に尻餅をつき、浅い呼吸を繰り返しながら従魔が消えた地面を見つめた。
「終わったの、か……?」
傭兵の一人がかすれた声で呟くと、直後、みんなが喝采を上げた。助かった、奇跡だ、と泣き笑いが聞こえてくる。
「命拾いした。言いたいことはいろいろあるが……よくやった、スティナ」
ダスクが座り込んだままのスティナの肩を軽く叩き、片脚を引きずりながらミントの元へ向かった。まだ顔色は悪かったが、あんな強力な精霊魔法を使った直後とは思えない。
スティナは大きく息を吐いた。命を助けられたのは、明らかに自分の方だ。
――わたしって、本当にツイてる。
ダスクのような魔法使いに出会えた。ミントや豪嵐傭兵団に守ってもらえた。彼らと一緒でなければ、とっくの昔に死んでいる。
スティナは息を整え、立ち上がる。ダスクたちに礼を言いたかった。ミントの容体も気になる。怪我の手当てなら手伝えるかもしれない。
「ダスク様、待って――」
その瞬間、背後から冷たい風が吹いた。
黒い瘴気が視界を掠め、スティナは足をもつれさせて転んだ。男たちの笑い声が凍りつき、時が死んだように何もかもが動きを止める。
「嘘……」
スティナが目にしたのは、黒い瘴気を天衣のように纏う影の巨人だった。先ほど倒した従魔を黒で塗り潰し、さらに巨大化させたような姿。それは、ぎらついた鉈を手にスティナを見下ろしていた。
「“禍身”……!?」
従魔を倒すのがあと一歩遅かったのか、それとも運命の悪戯か。
現われた禍々しき化身の本体に、スティナは今度こそ死を覚悟した。従魔よりも何倍も濃密な瘴気が、あっという間に周囲のマナを殺していく。
瞬時に理解した。人間が敵う相手ではない。
鉈が振り上げられる。ダスクとミントが自分の名を叫ぶ。スティナは声を上げることすらできず、ただ、愕然と目を見開いた。
「――ッ!」
白い火花が散った。その場にそぐわない金属音が鳴る。
「え……」
スティナを庇うように、少年が刀で“禍身”の攻撃を受け止めていた。そのフードには見覚えがある。ギルドの食堂でザミーノが声をかけた少年だ。
「どうして……」
助けられないって言っていたのに。
スティナの呟きに少年が答えた。今まさに“禍身”の強大な力とせめぎ合っているというのに、そんなことは微塵も感じさせない涼しげな声で。
「自分でも、よく分からない。他人の試練を邪魔するつもりはないし、関わらない方が楽だと思った……でも」
あろうことか少年は鉈を押し返し、一歩踏み込んだ。
刀が光の尾を引いて、“禍身”の胴を一閃。
ケーキにナイフを入れるときだってもう少し抵抗があるだろうに、少年の一振りは素振りをしたかのように何の引っ掛かりもなく滑らかだった。
尋常ではない。気づいたときには終わっていた。
黒い瘴気が浄化し、“禍身”は霧散して消えた。
「俺は、楽がしたいわけじゃないから」
外套が翻ってフードが背に落ちた。
銀髪の美しい少年が冷たくスティナを一瞥した。
ストックがなくなったので不定期更新になります。
ごめんなさい。