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 無視し続けて真也を撒いた後、俺は施設の敷地を散策していた。まだ入って日が浅かったし、ここが生活空間なんだから、施設の構造くらいは知っておこうと思ったのだ。ぶらついているうちに、話し半分に聞き流していた真也のお喋りを部分部分思い出し、その場所を覗いてみたくなった。

 無理をすれば裏庭と呼べるような、建物裏側の狭く細いスペースに入ったときだった。非常階段の下に、小さな猫が佇んでいるのを見つけた。海岸の砂を零すような雨が止むのを待っているように、じっと正面を見据えていた。雨粒に水玉模様を打たれたような、茶色いブチ柄の猫だった。

 まず口角が吊り上がった。よう、兄弟。お前は俺と同じなんだから、ここに来たのは当然だ。心の中で毒づいてから、嘲笑は憫笑に変化した。目の前の猫は、家に住み着いていたもみじではなかった。斑の大きさも瞳の色も違っていた。本当は、一目見てすぐにわかった。でも毒づいた。

 踵を返し、食堂の食品棚からくすねてきたツナ缶を持って、再び猫のもとに向かった。もうちょっと手近そうな餌がよかったが、人がいて選ぶ間がなかった。

 俺が寄っても微動だにしなかった猫の視線が、丸いツナ缶を追って動いた。俺はその場でタブを引いたが、さすがに油が多すぎかと妙な気を巡らせてしまい、傍に落ちていた赤茶色の葉を曲げて身だけを掬った。待ち侘びていた猫は、地面に落ちたそれにすぐに顔を持っていった。真也が言っていたことを確かめる目的はとっくに失せていて、暫くの間、俺は猫がツナにがっつくのを眺めていた。ようやく気が済むと、余った缶を食堂のゴミ箱にこっそり投入し、思いつきで図書館へ行って、一冊無断で部屋に持ち帰った。

 真也は、自分が初めてあの猫を見つけたと思ったのだろう。食べていたツナではなく、運悪く歯に引っかかってしまったツナを見てツナと名付けたくらいだから、あの猫は餌を食べ終えた後も雨宿りを続けていたのだ。8歳の真也は、誰かがここで餌を与えたとは発想しなかった。

 わざわざ補足することではなかったし、せっかく嬉しそうだからと少し思ったのは事実だった。真也は俺にとってどうでもいい存在であり、故意に傷つける意味も理由もなかった。俺の手癖を庇っていることは、まったく考慮しなかった。

 時計の秒針の代わりに、雨音が響いていた。ともすれば夜の闇に吸い込まれていきそうな、微かな音だった。真也は起きる様子なく、俺の片手を両手で緩く覆ったまま、静かに眠っていた。ピアノでもトランプでもアニメ観賞でも、どれかひとつでも段違いの肩を並べていれば、あんなふうに泣かせないで済んだんじゃないか。赤く腫れた真也の目の周辺を見つめながら、だんだん瞼が重くなるのを感じながら、そんなことを考えた。

 次に気が付いたとき、やけにぱっちりと目が開いていた。真也は俺の胸にほとんど頭をくっつけて寝ていた。手は解放されていた。

 電気は消えていた。学習机の上のおにぎりは、ふたつに減っていた。カーテンに浮き出る影がちょっと揺れていた。雨は降っていなかった。

 触れないように気をつけながら身体を起こし、ベッドを出て、毛布を真也の首まで引いた。時計を見た。元旦でも起きたことがない早朝だった。

 昨日のままの格好で、自分のテリトリーにある玩具みたいな箪笥に突っ込んだ鞄を引っ張り出した。俺がここに来たとき、少しだけの荷物を入れてきた鞄だった。ドアノブに手を置き、一度振り返り、真也の寝息を確認してから部屋を出た。空っぽの鞄を無理矢理小さくして服の下に押し込み、薄暗い廊下になるべく音を残さないようにしながら急いだ。俺が向かっていたのは、昨日、ポニーテールの職員さんが小皿を置いた事務所の玄関先だった。眠ってしまう前に薄々考えていたそれは、飽くまでも野良猫を屋内に入れないスタイルだからこそ、実行できる可能性があった。

 2箇所で食事にありついたツナが、どちらに現れるかは賭けだった。職員さんたちにとって、迷い込んだ猫はとても困った存在だった。子どもたちに悪い例を見せるわけにはいかないが、誰かがお手本になれるわけでもなかった。たまたま実家に猫がいる職員さんがいたから小皿をあてがわれただけで、もしいなかったら。きっとみんな思うはずだ。どうか誰にも気付かれないように、ひっそり姿を消してはくれないだろうか。

 アレルギー対策の便宜上、ツナは外に出たままだった。是が非でも保護するつもりなら、職員さんたちは、たった1日子どもたちが毛を吸わないよう工夫することくらいはできた。でもしなかったということは、結局のところ、ツナがいなくなったらいなくなったで全然構わないのだ。ポニーテールの職員さんの実家が遠い地域にあることは、なんとなく聞いたことがあった。

 事務所も食堂も明るかった。夜勤の職員さんもいるし、朝食の準備を始める人たちもいた。みんなの出勤時間は知らなかったが、事務所付近をうろついていたら誰かに見られるかと案じ足が止まった。

 仕方なく進行方向を変え、裏庭を目指した。最初にツナ缶を開けたところに立ち、周辺を見渡してみても、ツナの姿はなかった。浅い息を吐いた。起きだちよりもほんの少し明るくなった空を見上げた。昨日とは真逆に、秋の晴れ空が透けていた。視線を落とすと、地面はからりと乾いていた。

 ツナに出会って失速し、消滅していた目的が急に色を持った。走って、音をたててはいけないことを思い出して爪先を立てて、うろ覚えの真也の言葉を追った。

 聞いた通り、レンガ積みの塀は年月を経て脆くなっていた。隅のほうの一部分が特に劣化が酷く、小さな犬や猫なら通り抜けられそうな穴が開いていた。ちょうどその真ん前に、表面が縦に分断しているような太い樹木が植わっていた。

 大人数が過ごすこの場所に、堂々と正面から猫が入り込み、誰にも気づかれないはずがない。ツナは、最初からこの穴を使っていたのだ。そしてこの穴を知っているのは真也だけだから、自分が最初に見つけたのだと勘違いした。真也は俺が話をちっとも聞いていないと思っていた。もちろん、そんなふうに思わせていたのは俺だった。

 服の下に隠していた鞄を肩に引っかけ、太い木の出っ張りに右足をかけ、レンガ塀の微かな隙間に左足をかけた。何度か繰り返すとレンガ塀の高さを超え、身体を反転させて、今度は慎重に地上を目指した。無事辿り着いたアスファルトの地面では、興味深そうに俺を見上げながら、ツナが前足を揃えていた。俺がいたから近づけなかった、と瞬きで伝えてくるみたいだった。

 鞄を広げても、ツナは動かなかった。目だけが俺の動きを追っていた。ごめんな、と一言呟き、ツナの前足と後ろ足を支えて鞄に入れた。謝罪にはふたつの意味があった。鞄に入れて8割ファスナーを閉めてしまうことと、食堂に忍び込めなかったせいで朝ご飯を調達できなかったことの謝罪だった。そうっと持ち上げた鞄の中で、静止しているツナの頭を撫でた。ツナはちょっと敏感に頭を動かした。

 ツナがいなくなればいい。職員さんたちが密かに望む結論に、俺も行き着いていた。でも、俺と職員さんたちでは主観が違っていた。俺が選んだ消失は、真也がツナと一緒にいられないことを正当に納得するための、結果ではなく手段としての消失だった。その一手を打てたことにも、当然ながら理由があった。

 施設から徒歩20分。子どもの足で20分だから、大人の足ならもっと近い。バカみたいなその近さが、俺と家族との距離だった。1ヶ月ぶりに見る古ぼけた一戸建てと、赤く葉を広げる見慣れた樹木。僅かな風がせせらいだ。割れた風船が空気ではなく窒素を撒き散らしたみたいに、突然呼吸が途切れた。葉の赤色が、いくつも光を塗したように輪郭を崩していた。

 真也が欲しがる帰る場所を、一緒にいてもいい誰かを、俺は自ら放棄したのだ。捨てられたのではなく捨てた。俺はひとりきりの家族を捨てた。もみじの名前に込められたのは、もっと単純な意味だったかもしれないのに。幼い心に後悔が押し寄せた。こんなに近くなのに二度と帰れないことが、そういう道筋を自分で作ってきたことが、どうしようもなく悲しかった。

 義務感が鼻を啜らせ、涙を拭かせた。玄関前から狭い庭へ足を忍ばせ、母がもみじを呼んでいた場所に鞄を下ろし、下ろしただけでは気付かれないから、傍らの網戸を数回揺らした。家の中で気配が動いたのを察知すると、すぐに庭から出た。帰れない家を二度見せず、来た道を走った。走らないとまた泣きそうだった。

 結局一度振り返った。疲れた顔色の寝起きの母は、足元に見覚えのある鞄を見つけ、一瞬硬直し、やがて腰を屈めるのを見届けて、再び俺は地面を蹴った。俺のエスカレートする悪癖を見限ったかのように、突然姿を見せなくなったもみじを、母ならきっと思い出してくれるはずだった。捨てなければならない記憶に甘えることを、一度だけ許されたかった。

 真也は同じ姿勢で寝ていた。抜け出る前と同じように、俺も隣に身体を伸ばした。ずっと隣で寝ていたという芝居を打つためだった。これからはちゃんと真也の話を聞こうと決心したのは、唯一一緒にいられる可能性を見出した存在を遠ざけさせたことの謝罪のためでもあり、絶望の淵へ追いやった母への贖罪のためでもあった。自分の満足のためでもあった。これ以上誰も追い詰めたくなかった。目の前の真也は、俺を許してくれるだろうか。


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