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差し出された小さな掌に漏れ聞いたのは、過去のクラスメイトの言葉だった。

 ――■■■と□□□を区別するの、日本だけらしいよ。

 そのクラスメイトもまた、小さな手をしていた。丸められ、一本だけまっすぐ伸ばされた柔らかそうな指は、風の冷たさ故に閉め切られた窓を示していた。国語と算数は微妙だが写真や図鑑は好きで、地声が大きく体育ではいつも前線の、その頃から確立していた教室のピラミッドの頂点に立つクラスメイトだった。

 窓の外で、またひとつ、はらりと赤い葉が舞った。赤い葉は、太い木の根元に深浅様々な斑模様を描いていた。

 ――■■■が落ちてる。あ、また落ちた。

 そのクラスメイトを囲む面子の中に、俺も含まれていた。俺はいつも見るだけだった。名前が出ただけで戸惑っていたのに、突然たくさんの視線の中心に据えられたことで頭が真っ白になった。

 今思うと、なににそんなに傷つき、なににそんなに怯えたのかわからない。でも当時の俺は、何故か沸き起こったクラスメイトたちの大爆笑がとても怖かった。目という目の黒色が、飛び出して針になって全身を刺していた。俺が家に見放された一番最初のきっかけが、たぶんそれだった。

 握り返されるのを待っている掌が、空中でぴくりと動いた。俺よりも下にあるふたつの目は、猫みたいに動かなかった。

「柚井くんって呼んだほうがいいの?」

 どういう意味で訊ねたのかはわからなかった。肩の鞄を無意味に掛け直し、俺は無言で顔を逸らした。なんで個室じゃないんだろう、くそぼろ施設がと内心で悪態をついていた。

 細長い爪がくっついた手持無沙汰な指が、唇に置かれていた。下を向いて少し考えた後、猫みたいな両目がまた俺を見上げた。

「遠いと思う」

「なにが」

「だってこれから一緒に暮らすんだもん。家族じゃん、それ」

 同室になる奴の情報は、予め聞かされていた。ふたつ年下で、つい最近、ルームメイトが親族に引き取られたこと。気分屋なところがあるが、素直で聞き分けがよく、周りに気を配れる性格であること。生まれたときからずっと暮らしているため、職員でも知らないような施設敷地内のルートを知っていること。血縁者が会いに来たことは一度もないこと。

「じゃあ、ゆーくんでどう? おれのことは真也でいいよ」

 再び小さな手が宙で開いた。俺はまたもや反応しなかった。目線をずらしたその瞬間、右手の両面がじわりと熱を持った。真也は俺の右手を両手でサンドしたまま、肘を折って持ち上げた。

「よろしく、ゆーくん」

 不揃いの白い上下の歯が、不恰好な隙間を作っていた。部屋の天井の真ん中に取り付けられたカーテンレールを挟み、ちょうど正面にあった窓の向こうで、赤い葉の先から細かい粒が垂れていた。真也は8歳、俺は10歳だった。

 あの日も、今日みたいな雨だった。細い雨粒がしとしとと降りしきる、秋の冷たい雨。おかげで湿度は高いが、晴れの日は朝昼晩で不安定に振れる気温は一定の低さを保っている。

 台所に置いた鍋と野菜、豚肉、卵、箱に入ったラーメン鍋の元、真也が上機嫌にMCを務めるバラエティ番組を交互に見つめ、手元のスマホで時間を見た。夜9時少し前。真也が来るのはもうすぐのはずだった。

 泊まりに行きたいと真也が言い出してから、半年が過ぎていた。都合が合わないのはあっちだった。現役高校生にして忙しく地方や都会を駆け回る真也には、オフの日がほとんどない。俺としては両方翌日休みが理想だったが、そんな日はないしあっちがテレビ出演はオフ扱いなどと半ばキレ始めたので、もうその概念を適用することにした。確かにその概念がなければ、泊まりに出かけるような元気はなさそうだと少し思った。

 チャイムが鳴った。着いたよ、と一言連絡するよりチャイムを押すほうが早いというのは、真也の意見であり正論だった。

「手ぶらっていうのもなんだから、アイス買ってきた」

「さんきゅ」

 ラーメン鍋をリクエストしたのは真也だったが、材料調達は譲らなかった。同い年ならともかく、一応こっちが年上である。それを思ってのことか、真也はあまり食い下がらなかった。

 コンビニの袋に入っていたのは、ラクトアイスではなくアイスクリームだった。付属のスプーンは紙製でも木製でもなく、かつていた施設では間違っても出てこなかった高級品だった。

「適当にしてろよ。ラーメン鍋、すぐできるから」

「じゃあぬいぐるみ選んでる。ひとつもらっていいんだよね」

「ダメだっつっても決行するだろ」

 秋雨と真也と丸い容器。心の端がざわつくのを感じながら、冷凍庫にしまった。真也にずっと言っていないことがあった。もし真也が覚えていれば話そうと思うと同時に、真也なら絶対覚えているという確信もあった。 

「ゆー君さあ」

「ん」

 そんなふうに改まった切り出され方をすると、平常通りの顔が崩れないかといつもびくついていた。例に倣って今日もそうだった。

 お椀――と言っても部屋に一人分の食器しかないので、用意しておいた使い捨てのプラスチックのお椀である。盛った麺の最後の一啜りを終え、おかわりの一杯を取り始めた真也の隣には、タオル生地で幼児体系のクマが座っていた。手触りがいいしなにげにゲットに時間を要した一品だったので、それに目星をつけられたことに俺は若干ショックを受けていた。

「毎日自炊してるの?」

 きつい結び目に鋏を入れたみたいに、緊張感が一気に解れた。そんな安堵を出さないように意識して表情を変えず、真也が離した菜箸を持った。

「しなきゃどうにもならないだろ。外食するほどリッチじゃないし、油臭いのに店入るのも嫌だし」

「してくれる彼女いないの? ゆー君優しいし、いないの絶対おかしいと思うんだけど」

「だからいないとは言ってないだろ」

「いるとも言ってないじゃん」

「そういうお前は?」

「あー、俺ね」

 予想と違う返しだった。鍋の底からおたまに救い出された卵が、ころんとお椀に転がった。俺も今日は使い捨て食器にお世話になっている。

「一ヶ月くらい前に。お互いのルールだから、あんまり詳しいことは話せないんだけど」

「え、あ、うん……そっか」

 そりゃなにより高校生なんだから彼女くらい。と思いながらも、いないことを知っていたつもりで訊き返した俺は意表を突かれていた。

 出てくると踏んだ答えと違っていたから驚いただけだ。一応そんなに興味のないふりをして、俺は再びお箸を持った。

「クラスの子?」

 屈指の人気芸能人という身分を兼ねる真也なら、交際するのに気を遣うのは納得できた。邪推が大好きな世間は、すぐによからぬ方向に物事を結びつける。

 しかし真也は、意外にも頷かなかった。

「同い年のモデルの子。今のところは週休二日制って言ってた」

「OLかよ」

「もう別れちゃったんだけどね。一週間とちょっと前に」

 こういうときになんと言えばいいものなのか、俺の19年の人生ではまだ培われていなかった。見た目は派手だけど話すと知的だった、などと説明する声は対応に悩んだ頭にあまり入ってこず、卵の黄身の熱さだけをくっきりと喉に感じて苦しかった。

「実質数えるくらいしか会ってないってことか? それもうノーカンでいいんじゃないの」

「ノーカンはダメだと思う。2回もキスしちゃったし。どっちもあっちからだけど」

 どんなの、と訊こうとしてやめた。無粋すぎる。

「でも、お別れもあっちからだよ。すれ違いってやつ」

「3週間足らずで? お前が忙しすぎるから?」

 小気味よかったリズムが、突如ブレイクした。

「まあ、言い出したのもあっちだからさ。俺も別に深くは考えてなかったから」

 なんでもない真也の口調に、違和感は消え去っていた。ごちそうさま、と手を合わせた真也の爪は、昔と同じで綺麗な細丸だった。

「お風呂入ってからアイス食べる」

「先どうぞ。温度は好きに設定してくれ」

「設定とかー。今どき赤色と青色をバランスよく捻るやつなのに」

「バカにしてんの」

「褒めたんだよ。あれ好き。昔を思い出すよね」

 真也はプラスチックのお椀を軽くすすぎ、残りの食器も分別してゴミ袋に入れると、自分の荷物からタオルとトレーナーを引っ張り出した。真也が今思い出している昔は、どんな昔なのだろう。脱衣所のドアに隠れる背中を、俺はぼんやりと見つめていた。



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