バパルカへ向かって
ナオヤは始まりの村を出て、旅を始めます
承章2 混乱都市 バパルカ④
僕の名前はナオヤ、八神直哉。前転生者の彼の足跡を追って始まりの村を出た。
始まりの村を出てほぼ丸一日掛けて隣村のイーナにたどり着いた。
隣村と言っても村と村の間は40キロ程離れているし、始まりの村からはほとんど登り道なのだ。
そのほとんどが森の小径だから曲がりくねり、荷馬車が通れる程度のダートだ。
体力が有っても徒歩ではさほど傾斜が無いと言っても登り道できついものがあった。
小峠を抜けると言う事は森を抜けると言うことと同じだった。
視界が開け、遠くに村の囲いが見えた。そしてその前に広がる牧草地帯、二重柵の内側では牛が放牧がされていた。乳牛が育てられているようだった。
森の中から餌を求めて出てくる肉食の魔物がいない訳では無い。そんな魔物対策だろう、地形を利用して作られた柵の外側には堀や小川があり、内側の柵は外側の柵より50センチ程高くなっている。ほぼ同じ幅の柵の中で一部柵が低くなっていて少し広めの場所を作ってある所がある。多分落とし穴があるのだろう。
内側の柵に高い棒を立て、ヒモ付きの鈴がぶら下がっているようだった。恐らくヒモは落とし穴に繋がっていて、魔物が落ちたら鈴が鳴るような工夫がされているのだろう。
これなら二重柵の内側を巡回して、音がするところへ駆けつければ早めに魔物に対応出来るだろう。
道は曲がりくねりながらイーナの村に繋がっていた。
途中、巡回中の男たちに呼び止められたが始まりの村のメリダさんの所で厄介になっていたと答えると警戒していた態度が途端に親しみを込めたものに変わった。メリダさんさまさまだな。
イーナの村の入り口で警戒していた男も同じでメリダさんの知り合いなら何の問題も無い、村長に言って泊めて貰えば良いとさえ言ってくれた。
村を入って暫く歩くと軽食屋があったので、そこで一休みしながら村長の家の場所を聞いた。場所はすぐ近くで歩いているうちに見つかった。
村長の家でメリダさんの名前を出すと、離れでの宿泊を許してくれた。
村長のイリスは夕食を出してくれて、始まりの村のあれこれの話を聞きたがった。泊めて貰えるお礼にとメイちゃんの事とか村長のメイクンの事とか当たり障りの無い話をしておいた。
話の折に彼の事を訊いた所、イーナの村では特に事件は起こしていなかったようだった。
乳牛の話になり、二重柵に感心したと言うと、明朝に酪農をしている者に紹介してやると言われ、半ば強引に会うことになった。
次の日早朝、村長のイリスに牧場をしているイーベンのところに連れて行かれた。
イーベンは元冒険者で、辞める切っ掛けになった怪我を牛乳のお陰で治せたのだと話した。
元冒険者だからあんな用心深い工夫のある柵を作れたんですねと言うとかなり試行錯誤してあの形に辿り着いたのだと照れながら言う。
酪農をして得られた牛乳はほとんどクリームかチーズかバターに使われていて、始まりの村で生乳を赤ん坊に飲ませる話だって、乳母になれる者が居なかったから仕方なく壺二つ程の都合をつけただけの話で、止める切っ掛けがなくずるずるしているだけなのだと愚痴られた。
生乳を届けるのを止められれば止めたいところでもあると言う。なのに生乳を逆に更に増やせないかと言う問い合わせがあるのだが、何か知らないかと聞かれてしまった。
多分“プリン“のせいだろう。思わず冷や汗が出そうになる。
そこで、何とか生乳が痛まないように運べ無いかと相談されたのだ。
生乳を持たせるには2つ方法がある。低温殺菌法と保冷保管である。
低温殺菌法は62~65℃で30分以上か72~87℃で15秒以内加熱するものだが温度管理がシビアなので、温度指標が無い今は無理なのでは無いかと思う。
となると、保冷保管である。保冷する容器となるとノワールで作った冷蔵箱になるが、これが結構大きい。
生乳をこの村に置くだけなら可能だが、道が凸凹なので荷馬車にそのまま載せると冷蔵箱の中で壺が割れてしまうかも知れない。
冷蔵箱に代わる移動可能な方法が必要だ。
しかもお金も余り掛けられない。
村長のイリスに一つ方法があるがと断った上で、イーベンに持ち掛けた。
イーベンも了解したので全員で鍛冶屋へ生乳保管用の容器を作って貰えるか相談に行った。鍛冶屋も作ったことの無い容器の為2日程時間が必要との事で、イーナの村の滞在予定が延びてしまった。
イーナの村は始まりの村以上に見ておくべきところとか無く、めぼしいのはイーベンのところの牧場しか無い。
イーベンの牧場ではニワトリも飼っているが卵を取って売っている量はさほどでなく、卵は移動による振動で割れやすいため高値で近場の都市バパルカの貴族くらいしか需要も無いのだと言う。日本のように庶民の食べ物と言う訳では無いのだ。
結局卵も保冷保管出来れば沢山売ることも、遠くに売ることも出来るのだ。
魔法と言う方法もあるが、直接冷凍してしまうと売り物にならず考えてもいなかったと言う。
ニワトリが地面をつつき、時たま嘶くのんびりとした風景の中で僕は考えていた。
氷魔法は火魔法の中級魔法である。氷を直接現出させて相手にぶつけたり、尖った形の氷を投げつけて相手を倒す魔法である。
生活魔法としてロックアイスを使う事はあってもそれ以上の利用は普通ないそうだ。
魔法が当たり前の世界に置いて、如何に魔法か物理法則に反した事をしているかなんて考えないのだろう。
氷魔法を使うと空気中の水分を集めて、温度を下げて凍らせて、氷塊に加速度を与えて投げつけると言う現象を起こす。
空気中に水分が無いと水素と酸素を結び付けて水を生み出すと言う事までする。
つまり、魔力は分子や原子に干渉したり、移動と言う力の出現も操る事が出来ると言うことなのだ。
魔力は意志に反応する。意志とは志向方向を持つ意識のベクトルと言える。意識の力が意志なのだ。
素粒子やその間に働く力に干渉するには魔力に対応した現実的な素子が無いと関係を築けない。その素子を魔素と呼ぶ。
魔素は恐らく通常素粒子のスケールの1000分の1以下のオーダーであり、集散を繰り返す事で素粒子に干渉し、原子や分子を操る。
加速度を操ると言うことは電磁気力や重力も生み出す事が出来るという事なのだ。
ある思考実験がある。
『均一な温度の気体で満たされた容器を用意する。 このとき温度は均一でも個々の分子の速度は決して均一ではないことに注意する。
この容器を小さな穴の空いた仕切りで2つの部分 A, B に分離し、個々の分子を見ることのできる「存在」がいて、この穴を開け閉めできるとする。
この存在は、素早い分子のみを A から B へ、遅い分子のみを B から A へ通り抜けさせるように、この穴を開閉するのだとする。
この過程を繰り返すことにより、この存在は仕事をすることなしに、 A の温度を下げ、 B の温度を上げることができる。 これは熱力学第二法則と矛盾する。
マクスウェルの仮想したこの「存在」をケルヴィン(1874年)は、「マクスウェルの知的な悪魔」(Maxwell's intelligent demon)と名付けた。』
氷魔法は『マクスウェルの知的な悪魔』が現実化して術者の意志を現実のものとする。
水に含まれる熱を奪い、氷に変える。奪われた熱は火魔法という意志が無い限り、空気中に放散され現実のものとならない。
だから氷魔法は火魔法の中級魔法なのだ。
属性の無い魔法は無属性魔法と言う。7つの属性に分類出来ない魔法は全て無属性と言われる。
魔素を直接操る魔法を得意とする僕は無属性魔法が得意と言う事になる。
だから、容器中の空気分子を容器の中から追い出し、真空を作る事も出来る訳である。
鍛冶屋で二重容器を作り、真空にして穴を塞いでしまえば断熱性の高い金属容器の出来上がりである。
大きさは両手で持てる取っ手付きで容量20リットルの大きさのものを予備を含めて50缶作成した。
容器の真空化作業は僕の好意だし、多分他の魔法使いには不可能だろう。丁寧に扱って貰えれば何年かは持つだろう。
このミルク缶はイーベンに凄く喜んで貰えた。
卵の保管容器については冷蔵箱の小型版を用意し、バラバラに敷いた麻の間に置くようにした。保冷と振動の両方に対策された僕の力作だ。これでおおよそ100個は保管出来るので充分だろう。
気を良くしたイーベンがバパルカまで卵を納めに行く為に荷馬車を仕立てて、それに相乗りさせて貰える事になった。
バパルカまでは牧草地帯や小森を抜けて2日程、途中野宿が必要なのだと言う。
知り合いが一緒だと安心ではある。
道すがらイーベンにバパルカの事を訊いた。
この辺にしては大きな都市で、1ヶ月程前に聖都バフォメの西の聖女になった方が慰問に訪れるらしい。
遠目でも良いから一目みたいとイーベンは言う。余りに熱心なので僕も少し興味が湧いた。
何でも女神ガライヤの神託に依って見出された奇跡の聖女だと噂らしい。
ガライヤの名前を聞いて僕は何となく運命を感じた。
バパルカでナオヤを待ち受ける運命とは?