第七話 追憶、陽炎1
いつものように魔女服を纏い、夏の日差しに満ちた庭でじわりと汗をかきながら剣を振っていた楓は、ふとその動きを止めた。
――師は、いつ帰ってくるのだろう。
よく家を留守にする天坂といえど、数か月に渡って帰ってこないということは初めてのことだった。次第に、楓の心にも天坂を心配する影が生まれていた。
――もしかしたら、何かあったのだろうか。
楓の心によぎった一抹の不安。まるで、それを体現するかのような者が、いつのまにか庭先に立っていた。
その姿を目の端で捉えて、楓は驚いてその方向へ顔を向けた。
そこにいたのは異様な男だった。顔から足元まで黒衣を纏い、目が見えるように引き裂かれた真一文字の裂け目から虚ろな瞳が覗いている。
黒衣の男が発する冷気が、強い日差しでほのかに汗をかく楓の皮膚を粟立たさせた。突然影も形もなく現れた男に、楓は強い警戒心を抱いていた。
「……だ、誰?」
緊張で乾いた口で問いかけた言葉は、確かに男に届いていたはずである。しかし、男はそれを当然のように黙殺し、一度楓から視線を外して屋敷を見た後、再度楓を見つめた。射抜くような視線だった。
「ここに、ラピスがあるだろう?」
低く暗い、地の底から響くような声だった。確かに人の声に聞こえたが、楓にはなぜか死者の呻きのようにしか思えなかった。
「ラピスをとってこい。そうすれば、見逃してやる」
目を細める黒衣の男は、楓の心中の恐れを見透かしているようだった。
「……断る。あれは、師のものだ。貴様に渡すつもりはない」
やっとの思いで楓はそう言った。男の正体は分からないが、ラピスを狙っているとあらば見過ごすことはできない。
すると黒衣の男から小さく声が漏れた。どうやら、忍び笑いをしているようだ。男は楓を嘲笑っているのだ。
「ならば、死ぬしかないな」
ひとしきり笑った後、黒衣の男は突然殺気を露わにして、瞬き一つの間にその手に武器を宿していた。
黒衣の男の手にあったのは、長大な刀だった。楓は男から発せられるマナの気配に驚いて一歩退いた。この男は、ラピスを扱えるのだ。
やにわに始まった決闘に、楓はすぐに覚悟を決めた。男の猛烈な殺気に打ち負けない様心を律する。
黒衣の男はやや腰を深めに落として右脇に構えた。まるで大きく根を張った大樹のようだ。
対して、楓は慣れ親しんだ八双に剣を構えた。初めての実戦で相手の出方も分からぬ以上、武辺の魔女が基本とする右肩かつぎの八双にて注意深く相手の動向を探った方が良いとの判断だった。
素肌剣術において、極基本となる構えは剣先を相手に向ける中段、正眼の構えである。これは攻めるも受けるも自在な構えであり、準備動作を必要としない迅速な刺突と、真正面に剣を構えている威圧感から相手の出方を牽制することができる。
しかし楓も黒衣の男も、正眼には構えなかった。これは両者の根ざす剣理が正眼を良しとしなかったからである。
相手の出方を探ろうとする楓は、半ば持久戦を覚悟する必要があった。そうなれば、安易に正眼に構えることは出来ない。
正眼の構えは、相手に剣先を向ける必要上剣の重さが負担になる。小柄な楓はまだまだ体が出来ておらず、一触即発の立ち合いの中で堅牢な正眼構えを長時間維持する体力に難があった。
いかに正眼の構えが堅牢と言えども、構えが崩れては無意味である。
対して、楓の右肩に担ぐような八双構えは、あたかもぽつりとそびえ立つ樹木の風情を残している。自然な構えとなれば、体にかかる負担も少なく、長時間構えを維持していられるのだ。
楓は慎重に間合いを測りながら、男の動向を探った。
正面をがらんと開けている右脇の構え。それは傍から見るといかにも斬り頃に見えるが、その実は違っていた。
あれは誘いである。開けられた正面を斬りに行けば、その出端を挫く形で見切りにくい下からの切り上げが楓の脇腹、あるいは手首を襲うだろう。
更に、男の体格は楓よりもはるかに大きく、加えて手にする得物は楓の物よりも長大だった。ラピスを刀へと変化させた一瞬程の間に見て取った刀の長さは、はっきりとは分からないものの恐らく、野太刀と称して問題ないものであろうと、楓は考えていた。
これは一般的な打刀の刃尺よりかなり長く、三尺以上に渡る。楓が顕現する刀は二尺三寸程であり、刃尺は大きく劣っているのだ。
体格も得物も相手の方が勝っている。その事実が楓の心を騒がせた。
もしうかつに踏み込めば、楓の一刀が届かない距離で敵の剛剣が襲いくるだろう。一方的に受けの立場に回らずをえないそれは、非常に不利であった。
そもそも、敵方の剣を受けることが不可能だと楓は思っていた。敵もラピスを用い、維持、あるいは精密まで至っている様子。仮にマナの制御を互角としたら、体格と得物の差で力が大きく劣っていることになる。
そうなれば、敵の渾身の打ち込みを刀で受けるのは危険であった。剣術において受けとは、何もむざむざ敵の一刀を受け止めることを指したりはしない。相手の斬撃をこちらの一刀で受けるやその力を利用し返す刀で切りつけたり、鎬を用いて摺り流したり、撥ね上げたりと、相手の一刀に対する技術はいくつかあるのだ。しかしそれらの技術を用いてもまず受けるのは不可能。それが楓の出した結論であった。
力が違いすぎるのだ。黒衣で隠されてはいても、筋骨逞しい男性というのは傍目から分かる。更に得物が長大な野太刀であれば、剣撃の威力は楓の数倍はあると考えていい。そうなると受けに回れば確実に押し切られる。摺り流そうとしたり撥ね上げようとしたら、そのまま剛腕で押し切られ体を斬られる危険性が高いのだ。
受けが無理なら、体捌きで回避するというのも一手ではあった。しかし、相手の一刀を見切って躱しざまに一太刀浴びせるというのは達人の妙技で、楓にはまず不可能である。楓に出来るのは、大きく飛び下がって刃圏から逃れることくらいのものだ。そしてそれを行えば、男の剣は更に切返しの一手を用いて楓に追いすがる。そのうち回避行動に限界を迎え斬られるのは、想像に易かった。
この状況。最上なのは対敵に剣を振らせず一方的にこちらが斬ることである。無論、それがどれほど難事かは言うまでもない。
八方塞がりともいえる不利な状況で、だが楓は勝負を諦めてはいなかった。剣術とは不利を利して勝利に導く理も有している。まだ、諦めるのは早い。現状が不利なら、己の有利を見つけ出せば良いのだ。
楓は意を決したように動いた。相手の側面に回り込むように、緩く右転したのだ。すると黒衣の男もそれに合わせるように足を踏みかえる。
だが、その動きはいかにも鈍重だった。しっかりと根を下ろす大木がその向きを変化できないように、男もまた楓の円転に合わせる動きが鈍いのだ。
――斬れる。
本能的に楓はそう思った。この勝負は勝てると。
今のように右転し続ければ、男はやがて楓の動きに合わすことが出来ず致命的に隙を晒すだろう。その隙があれば一息に間合いを詰めて斬ることができる。
力に劣り間合いに劣る楓が見つけた一筋の光明。円転による剣形崩しに活路がある。
問題は、楓の気概だった。今までその手を血で汚したことのない楓が、殺意を伴った剣撃を放てるだろうか。もし生半可な一刀を打ち込めば、男の剛剣がうなりを上げて楓を断ち切る。殺らねば、殺られる。
はたして斬れるのか。楓がその問いに答えなければいけない時が、近づいていた。
時に緩く、時に小刻みに右転を続ける楓の動きに、ついに黒衣の男がはっきりと後れを見せた。
斬れる。斬らねば。弾かれたように楓の体は動き、一歩で間合いを詰め続く一歩でしかと踏み込んだ。踏み込みの力を乗せて放たれる一刀は腕と腰の動きによって速力を増し、殺刃へと変化する。
狙いは肩。八双からの袈裟斬りは、日頃の鍛錬の賜物か淀みない殺刃となって、黒衣の男の左肩口から右脇までを切り下げようとする。
しかし、楓は驚愕に息を飲んだ。十分に力を込めた一刀は、黒衣の男の体に当たる遥か前で止まっていた。
――これは!?
楓の一刀を阻んだのは、陽炎めいた黒い炎の揺らめきだった。すぐに楓はこの黒い炎のような物の正体を看過する。
――これはマナだ。目に見える程、剣を受け止める程、密度の高いマナ……!
渾身の切込みを条理にそわない方途で受けられた楓の体は、どうしても死に体となる。一刀に込めた力は発散されて体は弛緩し、心は驚愕で数瞬判断を行うことができない。
その隙は、まさに致命的だった。
黒衣の男の野太刀がうなりを上げて楓に向かってきた。脇構えから敵手の左脇腹を切り上げる剛剣を前に、楓は死を予感した。
野太刀が楓の体に食い込み、小柄な矮躯が弾かれたように吹き飛ぶ。
楓は庭のすみに生えた木の幹に背からぶつかって、そのまま死んだように動かなくなった。