第二十五話 楓の剣3
楓が魔技の調整に入った時、正調の魔女は必死で夜魔にくらいついていた。
そう、必死である。常人の理解を超えた魔術を操れる正調の魔女にしても、夜魔は想像以上の化け物だった。
戦闘が始まる前……夜魔の姿を見た時から、この森の周囲は数人の魔女が力を合わせ結界と外部からの認識を阻害する幻覚の魔術をかけている。
その結界術は小鴉隼人の朧にすら劣らない。数人の正調の魔女が力を合わせてあの男と同等の結界という現実ではあるが、その強度は折紙つきである。
その結界が、度重なる夜魔の攻撃のせいで瓦解しかけていた。
夜魔の攻撃は単純なものだった。自らの肉体が生み出す高密度のマナを圧縮し大きな塊として、対象に向かって打ち出す。ただそれだけである。
しかしその威力は、とてもまともに受けられるものではなかった。数人の魔女が尽力する結界ならともかく、個人の結界では防ぎきれない。
そのため、魔女はまず夜魔の攻撃を回避しなければいけなかった。しかしそのせいで夜魔の攻撃は森を覆う結界に直撃してしまっている。
このままでは森を覆う結界が破れてしまう。そうなれば戦いの余波で周囲の民家どころかこの町一つが犠牲になるかもしれない。
「くっ……!」
迫りくるマナの塊から危うく身をかわし、美景は強く箒を握った。魔術によりその肉体は強化と保護を受けているため、急激な旋回や上昇下降を行っても血流は乱れない。
それでも戦いが長引けば長引くほど肉体への負荷は増し、いつか限界を迎えるだろう。
ここまでの攻防で、すでに正調の魔女の数は半分になっていた。一人また一人と、夜魔の餌食になっていたのだ。
それまでに何度夜魔に攻撃を加えたことだろうか。美景も人間大の氷柱を何百と打ち込んだ。しかし、それは夜魔の肉体の表面に突き刺さっただけで何の効果もあげず、あげくにほんの数秒で体表に受けた傷を回復する。
伝承に残る三魔女が夜魔を封印するしかなかった理由が、今なら分かる。これは到底殺せる存在ではないのだ。
かつての三魔女のように、夜魔は封印するしかない。美景は戦いの果てにそう結論を導き出した。おそらく今生きている他の正調の魔女もそう考えたことだろう。
しかし、封印するにしてもそう簡単にはいかない。封印術は三魔女ならともかく、現代の魔女では数秒で終えられる程簡単な魔術ではなく、おそらく今生き残っている正調の魔女が力を合わせても数分から十数分はかかるだろう。その間、夜魔がおとなしくしているはずがない。
「私たちの負けなの……?」
絶望の言葉が、美景から漏れた。現状、魔女は夜魔に勝つことは不可能である。そして夜魔を封印することすら難しく、もはや勝機はどこにもない。
絶望が活力を奪い、戦意を鈍らせる。このような心気ではいつか夜魔の攻撃を避けられなくなるだろう。
死への一歩を歩み始めた時、美景はそれに気づいた。
「このマナは……何?」
美景からはるか後方のどこかで、マナが集いその規模を増していく。これの正体はいったい何なのかと美景は思い、視覚強化の魔術を用いて、後方をさぐった。
「あれは……楓ちゃん!?」
美景がその目にとらえたのは、朝比奈楓の姿であった。昨夜美景の家から抜け出し、おそらく一人で戦いに望みきっと生きてはいないだろうと悲観した少女が、そこにいた。
楓の背後におびただしい程のマナが集っている。この時点でもはや常軌を逸したマナの量だというのに、それでもまだマナは集まり更にその量を増やしていた。まるで、限界など知らないというように。
いったい楓は何をしようとしているのか。美景には想像もつかなかったが、彼女は楓に希望を見出した。
あれほどのマナを使った技ならば、おそらく夜魔に大打撃を与えしばらく行動不能に陥らせることができるかもしれない。そうなれば夜魔を封印することができる。
これに賭けるしかない。朝比奈楓という少女の剣に美景は全てを託した。
しかしここにきてついに、夜魔が朝比奈楓の存在に気づいた。
夜魔からすればまだ楓の集めるマナは小さなものである。しかし夜魔は知っている。彼女の剣が己の体に傷をつけたことを。
夜魔にとって、その身に群がる正調の魔女などハエや蚊と同等の存在である。しかし、朝比奈楓は、あの魔女だけは……すでに、敵と認めていた。
ならば一切の遠慮は無用と、ついに夜魔は全力の攻撃にうつった。
夜魔の最大、最高規模の攻撃。それは先ほどまでとは比べ物にならないほどのおびただしいマナを圧縮し、光芒として打ち放つ魔砲であった。
もはや当たれば全てを塵にする。その最大の攻撃を放とうとする夜魔を前にして、美景は楓を守る様に夜魔と楓の間に身を躍らせた。
そして空中に手をかかげ、結界を張る。こんなものは夜魔の魔砲の前では無意味である。
「お願い皆、あの子を守って……!」
しかし正調の魔女ら全員が力を合わせればどうか。確実に防げる……とは美景は思っていなかった。もしかしたら力を合わせても全く無意味かもしれない。
それでも、やるしかない。できるかできないかなど、そんなことを考える暇もない。何よりも大切なのは……彼女を、朝比奈楓を守ることなのだ。
美景の想いを察した正調の魔女らが集っていく。その数十二名。全員が、渾身の力で結界を張った。
夜魔は絶叫して、ついに魔砲を打ち放った。それは光である。一筋の光が音もなく一瞬にして解き放たれ、瞬きをするよりも短い時間で魔女の結界を打ち壊していた。
だが、それまで。魔女の結界は見事夜魔の魔砲を防ぎきり楓を守りきった。
魔女の被害は甚大であった。結界を壊された衝撃で魔女は全員吹き飛ばされており、皆地に落ちていた。幸運にも美景を含む全員が生きていたが、地に吹き飛ばされたせいで彼女たちの体はひどく傷ついていた。中には骨折し飛べなくなったものまでいる。
これではもう、結界を張ることはできない。もう、楓を守ることができない。
魔女たちの様相を嘲笑うかのように、夜魔がまた魔砲の準備にうつった。これを防ぐのはもはや不可能である。
「ダメ……逃げて、楓ちゃん……」
美景が絶望に暮れた、その瞬間……朝比奈楓の魔技が、ついに完成した。
楓は目を開いて、現状を把握する。
夜魔がこちらに向かって攻撃をくわえようとしている。それだけを認識して、楓は心を決めた。
――恐れることはない。ただこの一太刀を信じろ。この一太刀を放つに至るまで私を守ってくれた人たちを、信じろ。
全てを破壊する夜魔の魔砲が、ついに放たれる……その、機先をとらえて。
楓の一刀が、放たれていた。
朝比奈楓の限界をはるかに超えた……否、正調の魔女の、武辺の魔女の、夜魔すらの理解を超えた大規模、大容量のマナが今、解放された。
おびただしいマナは目に見えない鋭利な刃と化して、一刀の軌道が描く延長線上の悉くを音もなく切り裂いていく。
それは、瞬き一つのほんの一瞬。目に見える程の大きな変化はなく、実に静かな一太刀である。
……誰も、言葉を発しなかった。楓の一太刀に時すらも寸断されてしまったのか、全てのものが凍り付いたように動かなかった。
だが現実として時は流れている。誰も彼もがその光景を信じられずに、己の時を止めてしまっていたのだ。
全ての因縁は、三魔女の話にまで遡る。彼女らは己が夜魔と同一の存在と知った上で、始祖の魔女と彼女が肉体を作りし夜魔と敵対することを選んだ。
彼女ら三魔女は、純粋な人間ではなかったかもしれない。しかし彼女たちは善を学び悪を知っていた。その矜持が、夜魔との戦いを選択させたのだ。
しかし、彼女らと夜魔は、ほぼ同一のもの。どれほど互いに傷つけ争っても、所詮は千日手であった。
彼女たちは苦渋の決断をして夜魔を封印する道を選んだ。夜魔を滅ぼすことは叶わず、後世に不安を残すことになったのだ。
すでにこの世を去った三魔女の願いは、一つである。いつか復活を遂げるであろう夜魔を、今度こそ、滅ぼすこと。
それだけを胸に秘め、彼女たちは後継者を育てた。
だが……はたして、誰が之を想像したことだろうか。
三魔女の頃にまで遡る因縁を断ったのは、彼女たちの後を正しく継いだ正調の魔女ではなく、朝比奈楓というまだ幼き魔女の剣であった。
夜魔は、絶命していた。朝比奈楓のただ一太刀を浴びて、その体を両断され命と意思そのものを切り裂かれた。
ただ一太刀の元に夜魔を切り裂いた魔性の一刀。楓はその名を静かに告げた。
「魔技、一之太刀」
その光景を見る者たちの、時が動き出した。
ある者は呆気にとられ、ある者は思いがけない勝利に感極まり涙を浮かべた。
紅音と美景は、この勝利が楓によってもたらされたものと理解し、喜色を浮かべていた。
魔女と夜魔の因縁は、今ここに断たれたのである。ここにいる全ての魔女がそれを理解し……歓喜に沸き立った。
夜魔の肉体もまた、時に沿い始めた。
夜魔の体は一之太刀の切れ目から弾け飛び、マナとなって空に散っていく。
目に見える程の圧縮されたマナが飛び散る様は、まるで魔女の勝利を告げる祝福の花火めいていた。
赤、青、黒、色とりどりのマナが飛び散り、空を舞い、やがて目に見えぬほどの薄いマナとなって大気に溶け込んでいく。
幻想的な光景の中で魔女は勝利に酔った。歓声が空に響いていく。
しかし、今ここに二人、魔女の勝利に酔わない者達がいた。
一人は天坂夕月。夜魔を復活させた首謀者である。
そしてもう一人は、一之太刀を用いて夜魔を葬り去った、朝比奈楓であった。
楓は一之太刀を放って夜魔の死を見届けた後、紅音たちの元に戻ってきていた。
魔女の因縁は断たれた。次は、朝比奈楓の因縁を断つ番である。




