第二十四話 楓の剣2
「楓、お前に今の魔技を打たせるわけにはいかない……お前程度が夜魔を倒せるとは思えんが、よもやということがある。夜魔の周りを飛ぶハエのような魔女らよりも先に、ここで死んでもらおう」
「……そんなにも夜魔が大切ですか? あんな醜悪なものは、我が一刀で無為に返すのが当然だと思いますが」
「小娘がよくも吼える。いつからそんな言葉を吐けるほど強くなった? 食われる両親の前で怯えて泣きじゃくっていた小娘めが……自惚れもほどほどにしろ」
天坂に言われ、楓はあの日の自分を思い返した。
確かに天坂の言う通りだ。あの日の楓はただ怯え、泣きじゃくる小娘にすぎなかった。しかし……今は違う。
「私を過日の朝比奈楓と思い侮るなら、天坂夕月、あなたは小鴉と伏倉の後を追うことになります。我が一刀、すでにあなたの及ぶ所ではありません」
「はっ……大言壮語もそこまでいけば笑えるものだ。師である私の剣を超えただと……? 面白い、ならばその一刀、ぜひともご教授願おうか」
言うなり天坂は刀を顕現させ、八双に構えた。楓も合わせる様に八双にて迎えうつ。
はるか遠くでは魔女たちが夜魔と戦っている。そのさなかついに師弟が雌雄を決しようとしていた。
――まずいな。早く勝負を決めなければ。
楓の心には若干の焦りが生まれていた。勝負を長引かせると、それだけ一之太刀にうつるまでの時間が伸びてしまう。その時魔女たちの様相が敗北の色を帯びていればもう手遅れだ。
正調の魔女が夜魔から楓を守ることができなければ、一之太刀は完成しない。時間が経ち正調の魔女が余力を失えば、全ては机上の空論として水泡に帰す。
逆に言えば今、天坂は無理に勝負を決めに来ないということだった。彼女にとっての勝利とは楓の一之太刀を封じることであり、時間をかければその勝利条件を満たすことができる。
楓は時を失い続けるが、天坂は時を己のものとする。その差が生み出すのは心の優劣であった。
心技体のいずれかに勝る者はいずれかに劣る者に有利なのは言うまでもない。心は天坂が有利であれば、体はほぼ互角である。楓と天坂では天坂の方が身長が少しばかり高いが、それは絶対的な差ではなかった。手にさげる得物も楓と同じく二尺三寸ほどの打刀であり、力の差は僅差といえよう。
残るは技。どちらの剣技が冴えを見せるか。マナの操作技術ははたしてどちらが上か。楓はこの一要素で天坂を大きく上まわっていないと、迅速な勝利を得ることはできない。
当然のことながら、先に仕掛けたのは楓であった。楓はまず八双から霞正眼へ、霞正眼から霞下段に波打つように構えを変化させ天坂の剣を誘った。しかし天坂はそれに乗らず、鎮静を保っていた。
この時楓と天坂の距離はやや遠間である。楓は霞下段に構えたまま小走りに間合いを詰めていった。間合いが縮まるに連れて楓の身勢が下がり剣形は右脇へと移っていた。
一足一刀の間合いに入った途端、楓の刀が閃いた。八双に構える天坂の左肘を狙う切り上げである。
「甘いっ」
天坂は楓の一刀に対して、左足を引くことで応じていた。左足を引くことで左前の身勢が右前となり、天坂の肘を狙った楓の一刀は抜かれ、更に天坂は同時に袈裟斬りの一刀を放っていた。
一挙動で相手の剣撃を避け、かつ一刀を加える達人の所業である。天坂の一刀は存分に楓の左肩を切り裂き、彼女に勝利をもたらすだろう。
天坂はそう信じて疑わなかった。しかし彼女の視界からはなぜか、楓の姿が忽然と消えていた。天坂の一刀は空を切ったのだ。
背後から強烈な鬼気を感じて、天坂は袈裟切りの一刀からつんのめるように体を前方へ投げ出した。一瞬遅く、彼女は背に灼熱感を抱いた。
楓の右脇からの切り上げはもとより天坂の左肘を狙ったものではなかった。楓は小走りで距離を詰めた疾走力と右脇からの切り上げの力を利用して、すぐさま半転し天坂の左側面をとっていたのだ。天坂が左足を引くと同時に袈裟斬りを放った時には更に半転を行って彼女の背後を取り、無防備な背中に向けて袈裟切りを放っていた。
これこそが伏倉との戦いで目覚めた楓の境地である。対敵の剣撃、体捌きなどが描く円の軌道をとらえて己もまた円を描き之を制する。円の理であった。
小鴉や伏倉など、自分よりもはるか強敵と戦ってきた楓の剣は練り上げられた実戦剣となっていたのだ。そのことを天坂はまざまざと思い知らされた。
天坂は歯を食いしばりながらすぐさま立ち上がって、八双に構えながら楓を睨みつけた。
楓もまた八双へと刀を構え、慎重に天坂の進退を伺う。
見事天坂の裏を取った楓であるが、心中では今の一刀で天坂を行動不能へと追い込めなかった痛恨の念で溢れていた。楓の一刀が背中をとらえるよりも一瞬早く天坂の体が前方へと逃げていた。結局のところ、楓の一刀は切っ先で浅く魔女服を斬り破り、その下の皮膚に軽く傷をつけただけに過ぎないのだ。
こうなってくると、楓にとって厄介な勝負になってくる。楓の手練手管を知った天坂の受け攻めは巧妙になり、うかつな進退を取ることは無いだろう。
楓の先ほどの体捌きも考慮されるとなれば、決定打を打ち込めるまでどれほどかかることか。
楓の心中の焦りが徐々に大きくなってきた。現状傍目からは楓が有利に見えるが、時を失うことによる焦りを抑えきれない楓は徐々に不利になっていくのだ。
――まだ正調の魔女は……美景さんは、大丈夫だろうか。
焦りが不安を生み、不安が楓に余分な考えを抱かせた。正調の魔女として戦いに望んでいるであろう美景の身を、楓は心配してしまった。
一触即発の真剣勝負の最中、その心の揺れ動きは明らかな隙である。楓の焦りを察した天坂が間合いを詰め、一刀を斬り下げてきた。
心のゆるみを突かれた楓は対処に遅れた。どうにも仕様なく一刀を盾にして天坂の剣撃を受けようとしたところで……何者かが横から一刀を打ちだし、天坂の刀を弾いていた。
「ちぃっ……」
横合いから一刀を弾かれて、天坂は舌打ち一つ後ろに下がった。
「楓、大丈夫?」
楓と天坂の間に割り入ってきたのは、紅音であった。紅音に続いて、数名の武辺の魔女が刀を携えて天坂に正対した。
「紅音……どうして?」
「師匠に言って、無理やりついてきたの。……だって、あなたが一人で行っちゃうから、心配で……」
油断なく天坂を睨む紅音だったが、その声はわずかに震えていた。楓の無事が、きっと彼女を喜ばせているのだろう。
正調の魔女だけでなく、武辺の魔女もこの修羅場に馳せ参じてきたのだ。おそらく彼女たちの目的は、小鴉や伏倉、天坂を討伐することだろう。
「どこかにまだ魔女殺しらが潜んでいると思います。警戒してください!」
武辺の魔女を率いる首領格らしき者が、警戒を促すために叫んだ。どうやら彼女たちは道中で死体を発見していないのか、小鴉や伏倉がまだ生きて潜んでいるものと思っているらしい。
首領格に向かって、楓は静かな声で言った。
「警戒する必要はありません。小鴉も伏倉も、私が斬りました」
「え……?」
呆然と首領格と紅音が楓を見る。とても信じられないと言いたげだった。
その後首領格は天坂の顔を見て、その憮然とした表情から楓の言ったことは真実だと理解した。
「なら、残るは彼女だけと言うことね……!」
戦意を高める首領格を見て、楓は感嘆し小さく息を吐いた。正眼に構える彼女からは隙を見いだせず、かなりの実力者だと伺い知れた。おそらく彼女が率いる他の武辺の魔女も中々の実力者なのだろう。
それを加味して、楓は思案した。このまま武辺の魔女たちと協力して、天坂を倒すべきかどうか……すぐにその結論はでた。
「紅音と他の方たちは、どうか天坂の相手をお願いします。無理に斬ろうとせず、時間を稼ぐだけで構いません」
「……か、楓?」
紅音が戸惑いがちに楓を見た。
「……あなたはどうするつもりですか?」
首領格の魔女が、厳しい声音で楓に聞いた。楓の意図が分からないといった風だった。
「私は……夜魔を斬ります」
楓の一言を聞いて、紅音や首領格を含む武辺の魔女たちがどよめいた。ただ一人、相対する天坂のみが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
確かに今、人数をかさに天坂を責めたてるのは有利かもしれない。しかし楓は多人数による戦法を熟知しておらず、周りの者たちとうまく連携を取れる自信がなかった。
数に勝ってようと、絶妙の連携なくしては見た目ほどの有利差は得られない。思い思いが好き勝手に斬撃したところで、対する相手には一人一人個別に相手していることに変わりないのだ。一糸乱れぬ連携こそが多人数戦法の利であり理である。
紅音以外顔も名前も知らない武辺の魔女と協力しても、天坂を仕留めるのに時間がかかればそれこそ無意味。
ならば紅音たちに天坂を足止めしてもらって、己は一之太刀の準備にうつるのが上策であった。
「や、夜魔を斬るなんてことが、楓にできるの?」
紅音の問いに、楓は軽く頷き返した。
「確実にとはいえない。だけど私の一刀なら可能性はある」
迷いのない楓の瞳を見て、武辺の魔女たちは息を飲んだ。
本当にそんなことができるのだろうかと武辺の魔女たちから訝しむ気配が漂ったが、首領格は楓の瞳を真っ直ぐ見つめて、言った。
「……分かりました。ここは私たちに任せてください」
「ありがとうございます」
この修羅場で何を世迷いごとを。楓はそう言われることも覚悟したが、首領格は素直に応じてくれた。
かなりの実力者である首領格の魔女は、おそらく楓を見てその力量を理解したのだろう。一見してただの小娘にしか見えない楓は、しかし数々の強敵を屠ってきて今ここに居るのだ。
その事実を受け入れて、首領格の魔女は楓の言葉を信じたのだ。
楓は首領格ら武辺の魔女たちに軽く頭を下げて、一之太刀を打つのに適した地形を求めて走り去っていった。
「待て、楓っ!」
背を向ける楓を追いかけようとする天坂であったが、その行く手を紅音と首領格を含む五人の武辺の魔女が遮った。
「行かせる訳にはいきません」
「くっ……!」
いくら天坂と言えど、これほどの人数を同時に相手取るのは骨が折れる。しかも武辺の魔女らは楓に提案された通り足止めを行う腹積もりであった。
数の不利を負い、更に相手方が防御に徹する構えであるとなれば、やすやすと斬り崩すのは不可能である。
楓の図った通り、天坂はこの場で足止めを余儀なくされた。
対して楓はすでに紅音らと天坂から大分遠ざかった地にいた。
今探すのは一之太刀の集中に適し、かつ夜魔をはっきりと視認できる場所である。
――あった、ここでいい。
楓が選んだのは、そこだけ少し土が盛り上がり小さな丘のようになっていた場所だった。
ここならば、夜魔の姿を視認するのに邪魔な木々が少ない。
楓は小さく息を吐いて、決心を固めた。
一刀を構える。慣れしたんだ右肩に担ぐような八双から更に振りかぶり、その刀身を背に隠した。
背に隠れる程刀を振り上げ一息に斬り下ろす、ただ力を求めるだけの剣形である。
そして楓は、未練を断ち切るように目をつむった。
夜魔を一太刀で殺せるほどのマナを集中させるためには、こうするほかない。目も、耳も、五感の何もかもを無視してただ一心に剣を求める心境こそが必要なのだ。
無論こうすれば状況の変化に対応できない。もし、夜魔が楓の魔技に気づいて攻撃をしかけてきたら……もし、天坂が紅音たちを退け楓の元にきたら。
そうなれば言うまでもなく惨死を迎える。
しかし楓は今、そんな恐れを一かけらも抱いていなかった。
夜魔が仮に楓の魔技に気づいても……きっと、正調の魔女が、美景が守ってくれる。天坂はきっと、紅音たちが食い止めてくれる。
それだけを信じて、楓は剣に心を託した。全てが遠くなっていく。体の縛りも、心の縛りも、どこか遠くに消え去って……今楓には意志だけが残った。
夜魔を斬る。ただそれだけの意志が。




