第二話 切落し2
武田は両手を頭上高くに取る、上段の構えを取ってみせた。攻気も露わな上段構えで、少女を威圧する腹積もりである。
対して少女は右肩に担ぐような剣形を取った。柄を握る両の手は右胸よりやや上に位置し、刀身は肩から後方へ寝かせている。一般的な八双の構えより刀身を後ろに隠す様にしているが、流派によって構えは様々である。おそらくは、この構えが少女にとっての基本なのだろう。
間合いは……先ほど少女が後ろへ大きく飛び下がったため、一足一刀には少しばかり遠い。勝負の様相は、間合いの測り合いから始まった。
武田はじり、と、半歩近寄った。対して少女は不動。あたかも周囲を取り囲む大木のごとく沈静を保っている。歩法によっての間合いの取り合いに、少女は見切りをつけているようであった。
「はっ、ガキが……」
武田は嘲りの笑みを見せた。なるほど、少女の選択は理解できると、武田は思った。
剣と剣の勝負において、歩法によっての間合いの取り合いで利を得やすいのは、射程距離に優れている者である。武田と少女、どちらにその優劣があるかといえば、それは武田にあった。
互いの得物の刃尺にはそう違いはない。大きく違うのはその体格であった。
少女の矮躯は、武田の胸を超えるか否か程度しかない。それは、武田に比べて身長が劣っているということであり、つまり手足の長さも劣っているのである。個人差はあるものの、身長が低ければ手足も短いのが道理。刃を操る手が武田よりも短く、地を一歩踏み込む足も短いとあれば、自然と射程距離は武田に劣ってしまうのだ。
刃が届く範囲、つまり斬り間は武田が有利。少女がいかに歩法で間合いの奪い合いを試みたとしても、その優劣は絶対である。少女がその刃を届かせられない間合いであっても、間合いに勝る武田なら刃を食い込ませることができるのだ。すなわち武田には、一方的に先手を取れる利がある。
少女がその刃を武田に届かせるには、武田が一方的に襲う間合いに踏み込み、その間合いで細見を晒しながら少女の利する間合いまで近づかなければいけない。
そのため、少女が歩法で己の利を得るとするならば、対敵の呼吸をはかりつつ、攻勢を読んで意の裏を取り、対敵に刃を振らせることなく間合いを盗むほかないのだ。いわずもがな、難業である。
しかして……少女は不動の構え。武田がにじり寄るに任せている。
おそらく少女の狙いはいわゆる後の先であろうと、武田は考えた。彼は剣術家ではなかったものの、学生時代に剣道を嗜んでおり、そのつてで何度か剣術道場の稽古を見学したり、話を伺ったことがあった。
後の先とは、相手を先に動かし、相手の剣撃を体捌きで躱す、受け流すなどを用いて凌ぎ、死太刀を打ち込んだ相手の体躯が居ついた隙を斬るのである。
間合いで劣る少女は、どうせ先手を取られるからと武田に先に打ち込ませ、それを凌いで彼を斬る腹積もりなのだろう。
しかし、それもまた難業である。そもそも、体格で大きく劣る少女の勝機は、客観的に見ずとも紙のように薄い。
体で劣っているというのは、つまり力で劣っているということである。少女の細身で繰る剣撃と、武田の繰る剣撃。仮に正面からそれがぶつかり合ったとすると、少女は一方的に打ち負けるだろう。
それは、少女が武田の剣撃をその刀で受けようとした時にも適応される。武田の渾身の一刀を少女が受けたとして、その力を流せずに押し切られ致命傷をくらう、ということも十分にありえるのだ。
少女の取れる手はもはや一つ。武田の一刀を体捌きで避けることしかない。そしてこれもやはり、難業であるのだ。
殺意めいた白刃をただ避けるだけでも難儀な話である。相手の攻気を正しく読み、振りかざされる殺刃の軌道をしかと見極め、死の恐怖に打ち勝った精神で正しく体を操ることができて初めて、やっと敵の一刀を避けることができるのだ。一瞬躊躇すれば死ぬに易い。殺刃の持つ死の恐怖に打ち負ければ、棒立ちで斬られるのが落ちである。
加えて、避けた隙に一刀を打ち込むとなると、はたしてどれほどの技量が必要であるか。たゆまぬ努力によって培われた技術と、鍛えられた肉体、強靭な精神に反応速度。どれかが不足していれば不可能であるし、これらが十分であっても、また別の要因で不可能となる場合もある。
敵の剣撃を避け、その隙に一刀を食らわせるなど、達人の域なのだ。
はたして、この少女が達人の至芸を為し得るというのだろうか。いや、ありえないと、武田は心の中で笑った。
……間合いは、いつしか狭まっていた。後つま先一つ分ほど近寄れば、武田の間合いである。
斬り間に達すれば、武田はすぐさま斬りかかる意気込みである。対して少女はやはり不動のまま。あくまで先手を譲る腹らしい。
意気を計る。呼吸を整える。武田の狙いは単純明快であった。少女が後の先を狙うというのなら、ただ愚直に先を斬る。体捌きで躱す暇も与えぬ、渾身の一刀を叩きこむつもりだ。
仮に少女がその刃で武田の剣撃を受けたとしたら、その受けごと粉砕するのみである。
間合いが狭まる……つま先一つ、武田の間合い。
「シャア!」
武田は気声一つ、地を踏みしめた。迅雷の太刀筋がはしった。武田をして会心の一刀である。避ける暇も、受けきる度量も少女にあるまいと、武田は思った。
「……あ? な、なに……?」
しかし、武田は疑問を吐いた。少女は健在のまま武田の目に映っている。彼の刃は少女をとらえていなかったのだ。
「ば、バカな……」
ありえないと、武田は呆然としながらそう口にした。
そう、ありえるはずがないのだ。斬られていたのは、少女ではなく武田の方であった。
武田の左手が、鮮やかに切断されていた。切断面からは鮮血があふれ、少女の魔女服を汚していた。
武田は左手を失った衝撃と痛み、そしてその現実を受け入れられず、刀を手放して膝から崩れ落ちた。色鮮やかな血の赤が、大地を染め上げる。
武田は、呆然としながら先ほどの交錯の時を思い返していた。
あの交錯の時、武田が斬りかかったのを見て取り少女は遅れて動き出し……刀と刀が切り結ぶや、武田の一刀は弾かれ、少女の一刀はそのまま武田の左手を斬り落としていた。
ありえないことであった。力で劣るはずの少女の一刀が、力で勝るはずの武田の一刀をどう弾くというのか。巧妙な手妻があったとしても、力の差が絶対であれば意味はない。せいぜいが刃先を少し逸らす程度、あるいは互いの刃と刃が弾かれ合うのがやっとである。武田の一刀を切り落とすことなど、不可能であるはずだ。
ならば、そもそもの前提が間違っていたのである。体格で劣る少女は単純な力で劣るという武田の仮定は誤りで、体格の劣勢を覆す何かがあったのだ。
だとすれば、それはもはや魔術と評せざるを得ない。ありえないことがありえてしまったのだから。
「ま、魔女……!」
武田は恐怖に顔を歪めて、凍てつく声色で呟いた。この小娘の風体は伊達ではなく、まさしく魔女であると、武田は恐れた。
今や地に膝を落とし失血と恐怖で青ざめる武田に対して、少女は無表情であった。
「……一つ聞きたい、あなたはどうやってラピスを……その刀を手に入れた?」
「し、知らない、いつの間にか家の中にあったんだ……! ほ、本当だ、信じてくれ……!」
恐慌におちいりガチガチと歯を噛みあわせながら、武田はやっとの思いで答えた。
「そうか」
対して少女は……魔女は、冷たい声で言った。
その声を聞いて、武田の臓腑から恐怖が湧き上がり吐き気を催した。
武田は魔女の冷たい声色で、彼女が今から自分に止めを刺すのだと本能的に悟ったのだ。
「た、助けてくれ、た、頼むっ! 本当なんだ、さっき言ったのは……! だ、だから、助けて……」
恥も外聞もなく命乞いをする武田に、少女は憐れみと冷ややかさを伴った視線を投げた。
「それはできない。あなたはもう、ラピスに魅入られてしまっている」
「あ、ああ……」
少女が一刀を右肩かつぎに構えた。
殺される。今から殺されてしまう。武田の脳裏はそんな考えで満たされ、尻もちをついたまま後ずさった。
「い、嫌だ……嫌だ、死にたくない……ッ」
死期を悟った武田は、虚しく言の葉を散らした。それは無意味な行為だと、武田は知っていたが、止められなかった。
この魔女は、武田の命乞いなど聞き届けたりはしない。だが、それは何もこの魔女に限った事ではなかった。武田は今まで自分が犯した殺人を思い返す。彼の手にかかった犠牲者もまた、今の彼のように命乞いをしていた。
しかし、彼はかつて一度も殺した者らの命乞いを聞いてやりはしなかった。ただ笑って、その手にある刃を振り落とした。
「死にたくないっ! 嫌だっ、たすっ、助けてくれぇぇっ!」
それでもなお、武田は請い願う。今武田の胸には後悔があふれていた。彼の中に希望などどこにもなかった。
今まで一度も命乞いに耳を貸さなかった彼は、今この瞬間、かすかな希望を抱くことすらできなかったのだ。
それは悲劇であった。少なくとも、武田善之という人間にとっては。
刃がはしった。それは一切の迷いなく、武田の首を斬り落とした。
もはや武田は言葉を発することができない骸と化した。かつて彼が幾多の人間をそうしてきたように。
一陣の風が吹き、梢が歌う。魔女は武田が落とした刀を手に取った。それは瞬く間に手の平に収まるサイズの宝石へと姿を変えた。
彼女は宝石を懐にしまうと、この場を後にした。後に残ったのは物言わぬ骸のみ。ざわめく森林もやがて収まり、静寂が訪れた。