第十七話 夜魔
目が覚めた楓の視界に、見覚えのある天井が写った。
――ここは?
「楓!」
聞きなれた声を耳にして、楓は声の方に目を向けた。そこには心配そうな顔をしている紅音が正座し、楓をじっと見ていた。
「紅音……? 私は、どうして……あれから何が?」
楓は布団から体を起こして、紅音に聞いてみた。楓は、確か天坂の魔技に肩口を切り裂かれ万事休すという時に、美景と紅音を含む魔女が割行ってきたとこまでしか覚えていなかった。
「ちょっと、もう少し寝てなさい。あなたの傷は師匠が直してくれたけど、もう少しで死ぬところだったのよ? あなた、三日も意識を失ってたんだから」
「三日も……それでか」
起き上がる時に感じた倦怠感は、三日も身動きをとってなかったから体がなまってしまった証なのだろう。長い眠りから覚めたばかりなせいか、頭はまだ薄ぼんやりとして、事態が飲み込めない。
ここはどうやら、紅音の寝室のようだった。楓は何度か美景の家に泊まったことがあるので、記憶の端に紅音の部屋を覚えていたようだ。窓からは薄闇が覗いている。大分夜も更けた時間帯なのだろう。
「……あら、楓ちゃん、目が覚めたのね。良かった……」
寝室の扉を開け入ってきた美景が目を覚ました楓の顔を見て、嬉しげに顔を綻ばせた。
「体の具合はどうかしら? 肩や腕は動く?」
紅音の横に座りながら心配そうに問いかける美景を安心させようと、楓は斬られた方の腕を持ち上げ、肩を回して見せた。正調の魔女が使う治癒の魔術の効果は凄まじいようで、斬られた骨と神経が完璧に繋がっているようだった。これならば刀を振るうのに何の支障もないと楓は思った。
「あれほどの大怪我を直す機会は今まで無かったから不安だったけど、その様子なら大丈夫そうね」
「ありがとうございます、美景さん。あのままなら、私はきっと死んでました。……あの、あれから何があったか教えてくれますか? 斬られた後から先は、ほとんどがおぼろげで……」
楓ははやる気持ちを抑えて、美景に聞いてみた。あれから三日も経っている。その間に状況がどう変わったのか、知りたかった。
美景は端的に楓が斬られる前後のことを教えてくれた。紅音から森の中に夜魔の眷属がいたとの報告を受けた美景は、合流した正調の魔女たちと急行し、楓と、あの三人を発見したのだった。
黒衣の男小鴉、魔女殺し伏倉、楓の師天坂。この三人と斬られた楓の間に割り入った美景らだが、黒衣の男が使った魔技によって撤退を余儀なくされたらしい。
「あのまま戦っていたら、私達全員殺されていたかもね。なにせ、あの伏倉までいるんだもの」
美景は憂鬱そうに呟いた。伏倉響に殺された魔女は何十人といる。その中にきっと、美景と親しかった魔女が何人かいるのだろう。
「師は……あの三人は、やはり夜魔を復活させようとしているのでしょうか」
「ええ、そうよ。このままだと数日のうちに夜魔が復活してしまうわ」
楓はまさか、と思った。しかし、物憂げな美景の表情を見ていたら、事態の深刻さがゆっくりと伝わってきた。
「あの三人は私たち……いえ、全ての魔女に気づかれないよう、数年前から静かに動いていたのよ。そんな奴らが私たちに見つかった時、私たちを始末せずにあれだけ目立つ結界を張ったのだから、夜魔の封印はもう解ける寸前なのでしょうね」
「結界……あの男のですか」
楓は意識を失う前、霞む目で小鴉が新たな魔技を発動したのを見ていた。小鴉が朧と呼んだ魔技は、彼の陽炎のような揺らめく黒炎めいたマナが広がっていくものだった。その結果どうなったかは、楓は見ていない。
「あの男……確か小鴉と言ったかしら。小鴉の魔技の正体は、魔女の結界術をはるかに超える強力な結界よ。奴の魔技朧は今、楓ちゃんが奴らと出会った場所を境にして森を覆っているわ」
美景は忌々しく言った。その口調の裏には若干の焦りが感じられる。
「あれは明らかな時間稼ぎね。あの結界を崩すには、結界術に優れた正調の魔女が数人は必要……実を言うと楓ちゃんが眠ってた三日間、戦力が足りずに私たちは奴らに全く手出しできずにいたの。ふふ、本当に情けない……目の前で夜魔が復活しそうだって時に、黙ってみてるしかないなんて」
「……これから、どうするつもりですか?」
「もちろん戦うわ。この三日間、多くの魔女に連絡を取って、協力を要請したの。最悪のことを考えて、今動ける多くの魔女がここに向かっている。この国だけでなく、海外からもね。明日の朝にはようやく頭数が揃いそうなの。だけど、それでは手遅れかもしれない……それでもやるしかないけれど」
美景は合流できた魔女を引き連れて、明日の朝に攻撃を仕掛ける腹積もりらしい。その時、おそらく夜魔が復活している可能性があるからきっと総力戦になると、美景は付け加えた。
美景は切迫した事態に疲れを感じているのか、少し溜息をついた。そして申し訳なさそうに楓を見て、彼女は口を開いた。
「二年前楓ちゃんの家族を襲った夜魔の眷属。あれはやっぱり、夜魔を復活させる儀式の中で生まれたものよ。ただ、上手く制御できずに楓ちゃんの家を襲ってしまったのでしょう。奴らにしたらそれは不都合、放っておけば夜魔を復活させようとしていることを魔女に悟られてしまう。だから、首謀者である天坂自ら、夜魔の眷属を斬ったのでしょうね」
「……」
楓の唇が歪むのを見て、美景は目を伏せた。
「勝てるんですか? あの三人に……夜魔に……」
楓は思い切って聞いてみた。美景は少しためらいを見せた後、分からないわ、と答えた。
「小鴉も天坂も、一見してかなりの実力者。更に伏倉までいるんじゃ、正調の魔女が束になってかかっても辛い所ね。加えて、夜魔の戦力は未知数……明日は正調と武辺、合わせて三十人以上が集まる計算だけど、確実に勝てるとは言いづらいわね」
その言葉に沈痛な面持ちを返したのは、紅音であった。
「師匠、私も戦います!」
「何を言ってるの? 半人前のあなたが出る幕ではなくってよ」
決死の顔で言う紅音に、美景は冷静に答えた。
「あなたも……それに、楓ちゃんも。二人ともまだ子供なんだから、首を突っ込む道理はないわ。ここは大人に任せておきなさい」
「師匠、でも……私は……っ」
紅音の言葉を遮って、美景が言う。
「それでも一緒に戦いたいと言うのなら……その気持ちは、分からないでもないわ。明日の朝まで時間があるから、よく考えなさい。でも、私たちと一緒に戦えば、生きて来日を迎えることができないかもしれない。私はあなたたちのような子が命を賭ける所なんて、見たくはないわ……」
「……師匠」
紅音はようやく、美景が死を覚悟していることを知った。そして共に戦うということは、その覚悟が紅音にも必要なのだ。
紅音は言葉を無くしていた。命を賭けるというのは、簡単にできることではない。かといって美景らを送り出しては、それが今生の別れになるかもしれない。その現実の重さが紅音にのしかかっていた。
楓は、紅音とは違った現実に押しつぶされそうであった。
命を助けてくれた天坂こそが、家族を失う切欠を作っていた。そして彼女は、楓の身に起きたことよりももっと凄惨な事態を引き起こそうとしている。
――今まで、私は何のために戦ってきたのだろう。
天坂が管理するラピスを奪われ、それを取り戻す日々。真実を知った今、それが伽藍のように空虚なものと化した。
人生を弄ばれている。楓はそんな印象を抱いた。天坂が……そしてその背後に潜む夜魔という存在が、楓という少女を嘲笑い、翻弄される彼女を楽しんでいる。楓はそんな被害妄想すら抱いた。
痛切に唇を噛みしめる楓の心情を察した美景は、退室する気配を見せた。
「紅音、もう夜も遅いわ。楓ちゃんを休ませてあげましょう」
「はい、わかりました。……楓、おやすみなさい」
二人が寝室から出ていくのを見届けて、楓は一度横になった。
――私は、どうすればいい?
明日の朝には魔女達が死力を尽くす戦いが始まってしまう。その事実が、楓の精神を高揚させ、眠気を吹き飛ばしていた。
その戦いに、自分も参加するべきなのだろうか。三日ほど意識を失っていた空白の時間の間に大事となっていた事態が、まだ楓にはしっかりと飲み込めなかった。
三魔女が封印した夜魔が復活するかもしれない。そんなことを言われても、楓にはどうにも現実感がなかった。きっと、正しく魔女になった者達は事態の深刻さをすぐに受け入れるのだろう。しかし、楓はその夜魔を復活させようと企てる一人に鍛えられた魔女だった。
楓は布団を押しのけ立ち上がり、窓から外を眺めた。
薄闇の中に月光が差し込む、静かな夜だった。窓を開けると、冷えた風が楓の肌を撫でた。
清らかな月光を見ていたら、だんだんと心が洗われていくようだった。
夜魔が復活する。魔女としての避けられない戦い。氾濫する情報が流されていき、楓の心に残ったのはごく単純な思いだった。
――私は、あの人の……天坂夕月の弟子だ。
天坂に救われ、彼女に鍛えられた朝比奈楓という少女。楓は何のために剣を学んだのか、何のために魔女となったのか。
あの夜、怯えるだけの無力な少女だった朝比奈楓という自分。今もまた、怯えるだけなのか。楓はそう己の心に問いかけた。
――私が、止めなければ。あの人の、弟子として。
きっとこの時のために、己は剣を学び、武辺の魔女となったのだろう。楓はそんな思いを抱いた。
楓は枕元に置かれてあった形見の髪留めで後ろ髪を留め、静かに窓から体を躍らせた。音を立てぬよう注意を払って美景の家を抜け出し、彼女は歩き出した。
もしかしたら、美景や紅音は今楓が抜けだしたことに気づいたかもしれない。しかし、彼女たちが楓を止めに来ることはないだろう。楓は彼女らとは違う道を選んだのだ。ただ一人、孤独な道を。楓のことを愚かと思っても、彼女たちに止める権利はない。他ならぬ、朝比奈楓が決めた道なのだから。
楓は魔女服を纏って、遠目に見える黒炎めいたマナの結界を目指した。そこにはかつて楓を一蹴した黒衣の男小鴉に、魔女殺し伏倉響、そして楓の師、天坂夕月が待ち構えている。聡しい者なら、そこが死地だと分かっているはずだ。楓も当然そのことを知っていたが、彼女の歩みは止まらない。
――これは、私の戦いだ。
そう楓は思っていた。自身の短い人生に見え隠れする運命という影。それを斬らねば、この身は一生影から抜け出せない。楓はそう予感していた。
吹きすさぶ夜風はひどく涼しく、楓の肌を優しく撫でた。死地におもむく楓を慰めているかのようだった。