第十五話 邂逅2
楓の姿をその目にとらえた黒衣の男が、意外そうに口を開いた。
「ほう……貴様、あの時の小娘か。生きていたのだな」
男の声を聞いて、楓の肌が粟立った。あの時左骨盤を砕かれ苦痛にもがいた記憶が、一気に蘇ってきていた。
「見張りに立てておいた夜魔の眷属が殺されたからには、ついに魔女共が嗅ぎつけてきたかと思ったが……小娘一人とは、杞憂だったか」
「やはり、お前が夜魔を呼び出そうとしているのか……」
「ガキとはいえ魔女には違いないか。良く気づいた、その通りだ」
「私の元からラピスを奪ったのも、夜魔とやらを復活させるためか?」
黒衣の男は小さく笑いをもらした。
「いや、直接的な関係はない。あれはそうだな……言うなればただの享楽だ」
「……た、ただ楽しむためだけにやったと言うのか……ふざけるな!」
楓の声が少しだけ荒ぶった。
「享楽だけではないがな。ラピスを才能ある者の手に渡せば、魔女共の目くらましにもなる」
才能有る者とは、おそらく殺人趣味のことだろう。楓が今まで斬ってきた者たちは皆、殺人を楽しんでいた。この男はそういう者たちを選んでラピスを与えたのだ。
――だが、ラピスを手にしなければ殺人趣味になど目覚めなかった者たちもいたはずだ……それを、この男は。
楓は心の中で唾を吐いた。
「さて、悪いが、貴様と遊んでいる暇は無い……すぐに決めさせてもらうぞ」
言うや否や、黒衣の男は野太刀を顕現させ、右肩に担ぐように構えた。そしてそのまま、素早く距離を詰めてくる。
楓は一瞬戸惑ったものの、すぐに刀を顕現させ八双に構えた。そして乱雑に距離を詰めてくる黒衣の男の動作を一つも見逃すまいと集中した。
距離は縮まっていくが、まだ遠い。まだ楓の斬り間はおろか、黒衣の男の野太刀の間合いでもない。しかしそれはもう間もなくであった。
――まずは一太刀を凌ぐ。
とにかく一太刀を凌ぎ、勝機を見出さなければいけなかった。楓が攻め入っても、おそらくは以前のようにあの黒炎めいたマナが楓の剣を阻む。今はとにかく、凌ぎきるしかない。
距離が更に縮まり、黒衣の男の野太刀の間合いになった。その瞬間、楓は呪いの声を聞いた。
「魔技」
黒衣の男の野太刀に、あの黒炎めいたマナが纏わりつくのを、楓はしかと目でとらえていた。
忌まわしいものが来る。楓はそう直感した。
「不知火」
黒衣の男の野太刀が放たれた。それは黒炎をゆらめかせながら大きな弧を描いて、地を叩き割った。
その威力は凄まじかった。野太刀の着弾地点を起点に衝撃による突風が吹きすさび、遠くに立ち並ぶ木々の木の葉を散らした。野太刀に斬られた大地は抉れ、その場にいたものが死を避けられないのは明白だった。
「……よくぞ、見切ったものだ」
朝比奈楓は、無事だった。彼女は初め、後ろに跳び下がって野太刀の軌道から避ける腹積もりだったが、野太刀に黒炎が纏わりつくのを見て、体勢が崩れるのも構わず咄嗟に横に跳んだのだ。
結果として、衝撃と突風で地にこけはしたが楓は無傷であった。すぐさま立ち上がろうとするが、先ほどの一刀に恐れおののいた彼女の足はすくんでしまっていた。
黒衣の男は楓のその様子を見て嘲るように鼻を鳴らし、再度野太刀を右肩に担いだ。立ち上がれない楓を前にしても慎重に進突の機会を伺っていた。
――この男、魔技を複数使えるのか!?
先ほどの一剣を、黒衣の男は魔技不知火と呼んだ。だが楓は以前この男と戦った時、魔技と思わしき技で刀を阻まれたのだ。
楓には、楓の刀を阻んだ黒炎めいたマナと、先ほど野太刀に纏わりついた黒炎のようなものは同一のもののように見えた。
おそらく、黒炎めいたマナを用途に合わせて使い分けるのが黒衣の男の魔技なのだろう。
楓は冷や汗を流しながら徐々に膝立ちになるよう足を動かした。立ち上がろうとすればすぐさま斬られる。とはいえこのまま足を崩していればやがて呼吸をはかられて斬られるのも明白だった。
どうにか左右へ体を逃れられるよう片足を膝立ちにするのが、今の楓に唯一できることだった。しかし、あれ程の一刀をまた避けることが出きるだろうか。黒衣の男も次はそれを予想し剣筋に修正を加えるはずだ。
魔技を複数操れる黒衣の男を前にして、楓はすでにどう勝つかではなくどう生き残るべきかを考えていた。
攻守ともに隙がない相手である。どう思考を巡らせても、今の楓には勝つ方策が見えなかった。
こうなれば逃げの一手をうつしかない。勝つ術を持たないのに戦いを続けては、必敗は免れない。それよりも生き残って美景や紅音に楓の得た情報を伝えるのが重要だった。
――だが、どうやってやり過ごす? 実力が並みでないのなら、やすやすと私を逃がすはずがない。
一度黒衣の男は楓を仕留めそこなっている。そのせいで今回ばかりは念入りに止めを刺そうとすることだろう。逃げを打つにも形勢は楓への向い風だった。
「いやねぇ、小さい子相手に本気を出しちゃって。年上の男なら、もっとスマートにことを運べないのかしら」
突然、あらぬ方向から声が投げかけられた。楓は驚き、黒衣の男から視線を外さないよう気をつけて声の出どころを探った。
はたして、声の主は黒衣の男のやや後方にいた。魔女服を纏った美女が柔和に微笑みながら立っていた。
「……伏倉、何をしにきた」
黒衣の男が構えを解き、後方へ目をやった。
楓はゆっくりと立ち上がり、二人の様子を伺った。この隙に逃げようとは思わなかった。まだ変化した状況が掴めない。うかつな進退をすればそれが死地に繋がる可能性があったのだ。
「あら、私たちの企みに気づいた不幸な魔女の顔を見に来ただけよ。まさか、こんな可愛い子だなんて思いもしなかったけど」
伏倉と呼ばれた女性が、ちらりと楓を見た。何気ない所作で目を合わされ、楓は意表をつかれた。
――伏倉、だと? まさか、あの魔女殺しか?
美景から聞いた忌まわしい名を楓は思い出していた。伏倉響。魔女殺しと呼ばれる魔女だ。
伏倉が魔女殺しだということに気づいた楓の些細な表情の変化を読んだのか、伏倉は喜色を浮かべた。
「あら、あなたみたいな子でも私のことを知っているの? 照れるわね」
「ふん、それだけ貴様の悪名が聞こえているということだ」
「悪名だなんて、ひどいわね。女心を理解しないこんな男に絡まれて、可哀想ね、あなた」
くすくすと伏倉が笑った。どことなく弛緩した空気が伏倉から感じられるが、それが楓の不安を一層煽っていた。
生かすも殺すも、もはや手の上。伏倉の態度は、楓にそう告げているようだった。
楓は平正眼に構えて、一歩後ずさった。それが楓に出きるせめてもの抵抗だった。
「ねえ、この子私好みだわ。譲ってくれないかしら」
「……ふざけろ、貴様遊んでるつもりか?」
「あらいいじゃないたまには。あなたの不知火の危機を察知して紙一重で避けるなんて、食指が動くわ。そこらの魔女よりよっぽど楽しめそうよ」
赤い舌で唇を舐めた伏倉の仕草は艶めかしくも、危険を孕んでいた。
楓は、己の意思を無視して会話する二人の様子に、心を騒がされていた。自身の生殺与奪が他者に握られているというのは、ひどく気持ち悪いものだと、楓はまざまざと感じさせられていた。
「……もとより俺が仕留めそこなった相手だ。俺が斬る。貴様の出る幕ではない」
「あらそう、固い男ね……いいわよ別に。じゃあ早い者勝ちってことで」
「……この悪女め、好きにしろ」
話がまとまったようで、黒衣の男と伏倉が楓に視線を向けた。両者の視線を受けて、楓は小さくうめいた。