第十一話 正調、武辺3
「黒衣で、野太刀を得物とする男ねぇ……」
楓の話を聞き終えた美景は、少し考え込むようにあごに手を当てた。
「ここ最近正調の魔女の中でも、魔女が殺されて管理していたラピスを奪われる事件が多いと噂されていてたのよ。あの悪名高い伏倉のせいだろうと思っていたけど、そいつの可能性もあるのね」
「伏倉?」
「……魔女殺し、伏倉響。正調武辺を問わず魔女を殺害して回る最悪の魔女よ。彼女自身も武辺の魔女で、何をどうしてか、武辺はおろか正調の魔女すら相手にならないと言われているわ」
苦々しげに唇を歪めて、美景は答えた。
「伏倉に殺された魔女は、正調武辺合わせて二十人あまり……その中には高名な正調の魔女も複数いるわ。もし一人で伏倉にあったら、まずは逃げろ、というのが魔女の中での共通認識。情けないけどね」
「伏倉響……」
楓はその名を決して忘れまいとした。武辺の魔女でありながら、正調武辺問わず魔女を殺す魔女殺し。彼女の容姿も手口も影に包まれたようで、楓の脳内に浮かぶ彼女の姿は闇のままだった。
「……おそらくだけど、楓ちゃんの師は、あなたが懸念する通りすでに殺害されている可能性が高いわね」
「師匠! こんな小さな子にはっきり言いすぎです!」
「こんな小さな子に斬りかかったあなたが言うの?」
「……ご、ごもっともです……」
美景に食って掛かった紅音は、ぐうの音もでないと落ち込んだ顔を見せた。
「紅音、ありがとう。でも大丈夫だから」
彼女の心遣いは楓には嬉しいもので、素直に紅音に礼を告げた。
師が死んでいるのではないかという思いは楓にもあり、そこについては出来るだけ折り合いをつけているつもりだった。
「美景さんの言う通り、師はもう亡くなっていると私も思っています。だから、師の弟子である私がラピスを管理するのは当然のことで、それを奪われたことには言い訳の仕様がありません」
「こらこら、そう重く捉えないの」
「でも……あぅっ」
美景の爪先が、楓の額をはじいた。頑なな楓をたしなめたのだ。
「現代に生きる魔女なんて、皆適当なものよ。ラピスが奪われたくらいいいじゃない別に」
「……そのせいでラピスに狂わされた者達がいます。彼らももとは殺人狂ではなかった。私がラピスを奪われなければ、彼らは平凡に生きていけたはずです」
「それはラピスを奪ってその人達にラピスをばら撒いた者が悪いんじゃなくって?」
「それは……でも元をたどれば……」
言いあぐねる楓を見て、美景は悲しげに微笑んだ。
「楓ちゃんは、真面目すぎるわね」
「真面目……ですか」
「ええ、魔女になるにはもったいないくらい、真面目で素直な子……あなたにはもっと、素敵な生き方が似合っているのに」
ふっと美景の目が細まった。楓のたどった運命の残酷さを見出そうとしているようだった。
その視線がどうにもくすぐったく、楓は身をよじった。
「紅音も、楓ちゃんを見習ってもっと真面目になったらどう?」
「わ、私はずっと真面目ですよ……」
突然からかわれた紅音は、拗ねるようにふいと顔を背けた。
「私はね、楓ちゃんが責任を感じることはないって思ってる。きっと紅音もそう思ってるわ。そのことは、知っていてね」
美景の優しい声音を聞いて、楓はふと今は亡き母のことを思い出した。楓の母は、楓を叱る時声を荒げたりはせず、困ったような顔をして優しく言い聞かせる人だった。ちょうど、今の美景のように。
「そうだ、楓ちゃん今日は泊まっていきなさい。あなたの話をもっと聞きたいし……そこのバカ弟子の不躾に対するお詫びがしたいわ」
「ば、バカはひどいです、師匠……」
バカ弟子と言われた紅音が、悔しげにうめいた。納得はいかないが、勘違いで楓を襲った手前があるため甘んじて受け入れるしかないという紅音の表情を見て、美景は得意げに微笑んだ。
その二人のやりとりがどこか面白くて、楓は少しだけ笑みを零した。
紅音や美景との間に流れる時間に、不思議な心地よさを楓は感じていた。考えてみれば、ここ半年近くこのように心身を休める機会がなかった。
師である天坂以外の魔女を知らない楓は、その小柄な矮躯に全てを背負い込んでいた。しかしその荷物は彼女の体には余りにも大きすぎたのだ。
それはどうしようもないことだった。天坂の生死が不明な今、その責任は楓が背負う他ないことだ。その重さに小柄な矮躯が軋もうとも、逃げることはできない。
楓自身もそれで構わないと思っていた。しかし美景は、どうも楓にそう思ってほしくないような態度である。楓のような年端もいかない少女に、重い責任を感じて欲しくないと思っているのかもしれない。
その思いを楓は薄々感じていて、少しだけ救われた気持ちになっていた。
だがそれでも、楓の気持ちは根本的には変わらない。あの時黒衣の男に後れをとっていなければ……どうしても楓はそう思ってしまうのだ。
ラピスによって狂った者達。そして彼らに殺された罪もない人々。楓もまた家族を失った経験を持つため、死んだ者達と残された人達のことを思うと、易々と自分に責任はないとは思えなかった。
楓は死に縛られていた。気が付けば自分の人生は血生臭く、目を背けたいものだった。
目を背けずそれらを受け入れるには、楓はまだまだ弱い小娘だった。その弱さが、自分自身で許せない。その思いが楓を頑ななにしていた。
美景や紅音のおかげで、少しだけ重荷は軽くなった。楓は、口には出さないが二人に深く感謝した。
――まだ、私は戦える。
荒んだ真剣勝負を繰り返し摩耗しつつあった楓の心が、息を吹き返す。楓自身気づかぬうちに、彼女の心は重い泥の中に沈んでいたようだ。
話している内に外はすっかり暗くなり、楓は美景に勧められたように泊まっていくことにした。
夕食は紅音が作るようだ。美景は料理がからっきしなようで、紅音にいつも任せているらしい。
楓も夕食の準備を手伝おうとしたが、お客様だからと紅音に拒否され、料理が出きるまで美景の相手をすることになった。
「ねえ、辛いことを聞くけど、楓ちゃんのご両親を殺した化け物がどういうものだったか、覚えている?」
「ええ」
少し遠慮がちに聞く美景に余計な心配を与えないよう、楓は平静を保って頷いた。
忘れられないあのおぞましい姿を、楓は語って聞かせた。
楓にはあれが、犬のような姿かたちをした四足歩行の漆黒の化け物に見えた。しかし、記憶するその姿はどこか黒い靄に包まれたようではっきりとその形を確認できない。
それが数年前の記憶だからおぼろげになっているからなのか、それとも元々そのような異風なのかは楓には分からなかった。
楓の説明を聞いた美景は、真剣な顔をしていた。
「夜魔の眷属がなぜ……」
「夜魔、ですか?」
夜魔とは、かつて始祖の魔女が呼び出し三魔女が封じたとされる化け物のことだった。
「楓ちゃんは夜魔についてどれくらい知っているのかしら?」
「……基本的なことなら、ある程度は。ほぼ何も知らないようなものです」
楓は素直に答えた。夜魔どころか魔女としての知識自体が楓には少なかった。
「夜魔はね、三魔女の母、始祖の魔女が生み出した訳じゃないの。あれは……夜魔は元々存在していた。そしてメリルをたぶらかして彼女の体を作り変え、マナを操れるようにしたの。夜魔はメリルに力を与えた見返りに、自分の体を作らせようとしたのよ」
「……? あの、言っている意味が良くわかりません。夜魔にはもともと、肉体がなかったのですか?」
「ええ……夜魔はマナが集まって意思を持ったもので、肉体が無い思念体だったと言われているわ。ただそのままだと身動きができないから、夜魔は自分の自由になる体を欲したの。その為にメリルを利用した。……私たち魔女の発祥は、もとをたどると夜魔にいきつくのよ」
自嘲するように美景は言った。
「それで、夜魔の眷属とは?」
「メリルが作った夜魔の体はマナを増幅し新たに生み出す機能があるらしいのだけど、夜魔の体から生まれたマナもまた夜魔のように意思を持つことがあるの。それを私たち魔女は夜魔の眷属と呼んでいるわ」
「意思……ですか」
楓にはそれが荒唐無稽な話しに思えた。大気に漂う目に見えないマナが意思を持つなど、どうにも信じられない。
しかし美景は楓と違って正統な魔女である。ほんの二年前に魔女を目指し、それも一人の魔女しか知らない楓よりは魔女というものを正しく認識しているのであろう。
信じられないながらも、楓は続きを促した。
「さっき言った通り、いくらマナが意思を持っても肉体を持たなければ身動きは取れないわ。意思を持ったマナに出きることは精々近くの人間に語りかけるくらいのものよ。でもそれが厄介でね、そうやって人間をたぶらかして……時には魔女すらもたぶらかし、奴らは自分の肉体を作らせるの。その時夜魔の眷属が作らせるという肉体が、楓ちゃんが語った化け物の特徴と瓜二つなのよ」
「……」
段々と、楓は自分の過去に現れたあの化け物の正体を理解し始めていた。
あの化け物はおそらく、夜魔から生まれたマナが意思を持ち、それに何者かが肉体を与えた夜魔の眷属なのだと、美景は言っているのだ。
「ここからが楓ちゃんにとって一番重要な話よ。夜魔の眷属は、夜魔を封じた三魔女たちが一つ残らず消し去ったわ。肉体を持ったものはその肉体ごと、意思しかないものはその意思を、完璧に、消し去ったの」
「……では、なぜ私の家は……夜魔の眷属に……」
「私の予想だけど、おそらく夜魔を復活させようとしている者がいるわ」
楓は無言のまま、美景の目を見つめた。
「三魔女が夜魔を封じて以来、何度かマナの狂気に陥った魔女が夜魔を復活させようと画策したわ。でも三魔女の封印は強力で、夜魔を復活させるための儀式魔術は最低でも数年はかかる。長い年月をかけて徐々に夜魔の封印を解いていくことになるんだけど、そうして封印を解いていく度に、夜魔のマナが溢れだしてしまうの」
「つまり、二年前に夜魔の封印を解く儀式魔術を行っていた者が、儀式により解放された意思を持つ夜魔のマナに肉体を与え、私の家を襲った……と?」
「あくまで私の予想よ。それに夜魔の眷属を制御するのは難しいから、楓ちゃんの家を襲ったのは何か考えがあったからなのかは分からないわ。肉体を得た夜魔の眷属が暴走しただけなのかもしれない」
「美景さん、二年前に夜魔の封印を解こうとしていた者は誰なんですか?」
はじかれたように問いかけた楓に、美景は残念そうに首をふった。
「……分からないわ。最後に夜魔を復活させようとした事例は、もう二十年ほど前のことなの」
「それでは……」
「ええ、夜魔を復活させようとしている者が、数年前から暗躍していたということよ。楓ちゃんの話を聞いて私も驚いたわ……」
「師匠は、私を助ける時に夜魔の眷属を斬っています。師匠は誰にも話さなかったのでしょうか……」
「話さなかったというより、話せなかったのかもしれないわね。話せば魔女の中で話が明るみになるわ。そうなると夜魔を復活させようとする者の耳にも届くかもしれないし、そうなったらまず狙われるのは楓ちゃんのお師匠さんと、楓ちゃん自身ね」
「……私、が」
「楓ちゃんのお師匠さん……天坂夕月さんは、きっと一人で解決しようとして……夜魔を復活させようとする者たちの手にかかったのかも知れないわね。楓ちゃんに何も言わず姿を消したのは、あなたに危害が加えられない様に配慮したからかしら……」
楓の脳裏に師の姿が浮かんだ。口数少なく、厳しい人だったが、彼女は楓の恩人であり、尊敬する人だった。
そして次に楓の脳裏に浮かんだのはあの男だった。野太刀を得物とする黒衣の男。奴はこの一連の事柄に関わっているのだろうか。
やり場のない思いに暮れて、楓は歯を噛みしめた。自分の身に起こる様々なことが一つの糸になり、自分を縛っている様に思えた。
「師匠、楓、ご飯できましたよー」
料理を終えた紅音が、暗くなった空気を変える様に明るい声を響かせた。
「さ、ご飯を食べに行きましょう。楓ちゃんの家を襲った夜魔の眷属に関しては、後で私が調べておくわ」
「はい、ありがとうございます」
美景に連れられて、楓は二人と共に食事をとることにした。