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  先っちょの雲母を

 広場へ薪を置きにいったハンチョーが帰ってきて、また俺たちに背を向けて胡坐をかいた。先ほどのびちびちうんちの香りがする。イクジは歯を見せながら、とっても嬉しそうに産まれたての下痢便をこっちに蹴り飛ばしている。砂、小石、うんちがばらばらと俺の脚に当たる。「うへ、うへへ。」ニヤニヤしながら、自分のこいた下痢便を飛ばして遊んでいる。勿論。おペニスは出したまま。パンツはズれたまま。マァ痛いお人。

 しかし俺は全くの無反応で貫いている。イクジはつまらなそうに足の振りを止め、うつむいて何やら考え込み出した。

 暫らくして、またイクジのしんみりトークが始まった。

「法も倫理もなくなったら、こないなるんか。やっぱり人間って汚い生き物やのう。かなりショッキングやわ。ああ、イクジ、ショックう。」

「当たり前だ。人間ってのは自分さえ良ければそれで良いんだ。」

「はああ・・・・・生きる気力も失せるわ。」

「・・・・。」

だからもうすぐ終わるって。と声を出さないで言ってやった。だってそんなこと言ったら、こいつはまた「まだまだじゃあ!」とか言いそうだから黙っていた。

「何でこうなるんや。ほんましんどいわ。人間ってもっと綺麗なもんやって思ってたわ。ガキは天使とか言うけど、あれ嘘やな。ガキはプチデビルや。おっきなって悪いことばっかりしよるんや。渡る世間はデビルばっかし。あー怖い怖い。」

「・・・・。」

じゃあお前もデビルだよ。と声を出さないで言ってやった。だってそんなこと言ったら、可哀想じゃないの。それに気付かないまま逝かせてあげたいから黙っていた。

「ほんま世の中間違ってるわ。ぜーんぶ間違ってる。俺、こんな世の中でも生きてたいんかなあ。なんかほんまに生きる気力失せてきたわ。

 いや、あかん。やっぱり人間を喰うなんておかしいわ。間違ってる。俺はそんな奴らの食糧になんかならへんぞ!」

「俺はあいつらの言ってることは正論だと思う。命が命を踏み台にして生きるのは当然のことだ。イクジだって肉は喰うだろ。人間は食べちゃいけないって教えられてきたから間違ってるって思うだけなんだ。もっとよく考えてみろよ。生き物は何かの命を喰わないと生きていけないんだ。自然の摂理だよ。人間だけが食糧になり得ないって理論は間違ってる。自分が喰われたくないからそう言うだけだ。」

 命は皆平等だ。シャチョーがそう言ったとき、俺は心から共感していた。そして今まで食べてきた命たちに、心から「ご馳走様」を言っていた。俺のこの理屈がイクジには到底理解できるものではないだろうが、これから喰われる者として最低限の心構えはしておいてほしいと思った次第です。反論でも何でもしやがれい。

「うん。そやなあ。認めたくはないけど確かにそうや。理屈ではそやな。間違ってない。キー坊が言うように、シャチョーが言うとったことは正論や。俺が肉を喰うように、あいつらも肉を喰う。それは分かった。分かったんやけど・・・。けど、あのジチョーってやつは気に食わん。絶対あいつにだけは喰われたくない。飯を食う時は絶対に食材に感謝しなあかんもんやろ。あいつはそんな心持っとらへん。そんなヤツに俺の肉はやれんな。」

同感だ。俺もあいつは好きになれない。でも喰われようが喰われまいが俺には知ったこっちゃない。

「何にせよここから抜け出さんとな。」イクジは希望を捨てていない。しかし日はそろそろ傾きかけている。この絶望的な状況をどう切り抜けるんだい。もう不可能だよ。もうやめろよ。考えるのはやめろ。何も考えるな。ほら、俺はこんなに平安だよ。苦痛なんかひとつもないぜ。何も考えるな。この今をただ感じろ。そうしたら楽になるんだよ。なあ、もう考えるな。そんな顔をするな。早く楽になろう。


 イクジはずっと考え込んでいる。大塚食品の社員は、たまにやってきてはハンチョーに何かしら文句をつけて蹴ったり抓ったりしている。ハンチョーは攻撃を受けても死んだ眼のままでじっとしている。俺は再び腰を落とし、感覚を失った両手をグーパーしている。景色がだんだん赤みを帯びてきた。長かった昼が終わろうとしている。

 イクジが最後の無駄な足掻きを始めた。

「ハンチョー、ちょっとー。何でそんだけコケにされて黙っとんねんな。悔しないんか。いっぺんぐらいどつき返したれや。情けないおっさんやのう。」

 やっぱりハンチョーは反応してくれない。ぴくんとも動かない。

「ハンチョーって前はフクシャチョーやったんやろ?なんで降格したんさ。気が弱いからか?もうちょい根性見せたれよ。ほんまの自分でいけよ。ハンチョー、オイ。」

 やっぱりハンチョーは反応してくれない。ぴくんとも動かない。

「なあ、ハンチョー。俺らと一緒に逃げよう。あんたかていつまでもこんな生活いややろ。

いつも我慢してんのとちゃうんか。こっから出て解放されよう。あんなやつらと一緒におったって、あんたの人生はおもしろないままや。な、どうや?まずは俺の手を括ってる縄を・・・」

 ハンチョーが急に立ち上がったからイクジは吃驚して口を止めた。ハンチョーはそのまま歩いて来て、槍をイクジの喉に突き立てて構えた。表情は変わらず。

イクジの喉仏が上下した。恐怖のせいで震えている。陰茎がぷるぷると前後に揺れている。

「ごめんなさい。」イクジは青ざめて、苦しそうに、慎重に呼吸している。

「そいつ逃がしてやってくれ。」そうだ。そうしてくれたら全部解決するじゃないか。駄目なのは分かっているが、そうハンチョーに頼むしかなかった。「頼むよ。何なら一緒に逃げてやってくれ。俺がシャチョーとかに適当なこと言っといてやるからさ。」号令でもかけられたかのように、ハンチョーの槍のターゲットは一瞬にして俺に向けられた。生気の感じられない眼差しで俺を睨みつけながらハンチョーが近づいて来る。近づいて来る。ゆっくり近づいて来る。槍の先が俺の喉のすぐ前にやってきた。槍の先は雲母のような黒くててかてかとした石。武器としては十分殺傷能力は有りそうだ。カモン。イェカモン。


 初めてこんな間近でハンチョーを見た。やっぱりこのおっさんの眼は死んだ魚の、あれ、あれ?なんか眼がだんだん生き返っているよ。なんか切なそうな眼をしているよ。切ない眼で俺を見ているよ。なんか俺もハンチョーを見ていると切なくなってきたよ。なんか懐かしいような、なんかおかしな気持ちだよ。って思ったけれども、気のせいか。やっぱり死んだ魚の、あらら、あれ?やっぱりおかしい。死んだ眼ではない。もともと死んでなかっただけなのか。おっと、やっぱり死んでる。生きてない。うん。いずれにせよ、俺には無関係。興味が無い。わけでもないが、どうでもいいや。

「俺を殺せ。そのまま突いてくれよ。で、俺を食えばいいじゃないか。あのフリチンは家畜にしてさ。俺は死にに来たんだ。今すぐ殺してくれ。ちゃんと骨まで食ってくれよ。死体は見られたくないからな。」本当にそうして欲しいんだ。俺は死ねるし、あいつらは大好きな人肉が喰えるし、イクジは生き延びられるチャンスが出来る。これにて一件落着ってのは駄目ですかい。ハンチョーさんよ。ハンチョーさん、ハンチョーさんの顔がまたおかしくなってますよ。とても悲しそうな、怒っているような、泣き出しそうな、なんとも形容しがたい表情。俺をまっすぐ見つめている。俺もハンチョーを見つめている。俺もきっとおかしな表情になってる気がする。ハンチョーの顔を見ているうちに、この男をずっと昔から知っているかのような錯覚に陥ってきたからだ。変な顔のままふたりは見つめ合っている。そして、ハンチョーは唇を震わせて、初めて口を開いた。


「そんな、悲しいことを言うんじゃない。」


 ぎょっとした。その声がとても低くて深くて優しかったからか、その発言が意外なものだったからか、口臭がヤバかったからか、その全部か、はっきりとは判断できないが、隠せないほど俺は動揺している。しかし、それを悟られまいと無理やりにニヤついた。

「言うんじゃない。」また、静かにハンチョーは言った。そして雲母の槍を収めて定位置に戻り、再び胡坐をかいた。向こうを向いている彼の眼は、今も死んでいるのだろうか。


 居心地の悪い静寂が続き、遂に日没を迎えた。

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