死体から駒
とにかく前に、前に、ひたすら走る。とびきりの前傾姿勢で。もはや本能で動いている。ビバ、俺の本能。太い木、細い木、倒れた木、石やら岩やらえんやらや、飛んだり、避けたり、当たったり、俺の速度はマキシマム。そんな感じで、前方を阻む障害物を避けながらも最速で突っ切る。時につまずいたりはしたが、火事場のくそ力というのか、トップアスリートばりの身のこなしで体勢を立て直した。もはや今の俺に疲れとか、しんどさとか、呼吸困難とか、鼓動とかは無い。感覚が無い。精神運動すらない。前に、前に、今はそれだけ。それ以外は何も、全くもって存在しない。とにかく前に、前に、ひたすら走る。
呼吸が乱れてくるにつれ、だんだんと身体的な感覚と精神的な感覚が戻ってきた。体はもうもうと火照り、心臓が能力以上の力を出して全身に酸素を運搬しようとしている。足はもうだめだよ、はしっちゃあだめだよと言っている。しかし「怖い」という感情がはっきりと輪郭を持ちはじめている。その恐怖の感情を代替燃料にしてエンジンを噴かす。両足の声を無視するかのように、無理やりに。
感覚を取り戻していくにつれ、視界に入ってくるものも認識できるようになってきたが、それが逆に恐怖を駆り立てるもとになっていた。あちこちに骨やら、衣類やら、遺留品やらが、新旧様々に散在しているのがよく見えていたからだ。イクジと二人で歩いていた時もこんなものをちらほら目にしていたが、あの時は何とも思わなかった。あの時は何も感じなかったのに、こんなに恐ろしく感じている。それはどうしてか
あの時は死を覚悟していて何も恐れていなかったからか。
今は死を覚悟していないのか。
だから俺は逃げるように走っているのか。
しかし、一体何から逃げているんだ。
俺は何に恐れているんだ。
何が怖いんだ。
死ぬのが怖いか。
死ぬことがそんなに怖いか。
自分があんな腐乱死体に変わり果てることが。
。
否。
樹海のトップアスリートがやっと立ち止まった。大きく荒い呼吸をしている。体の先っちょから先っちょまでばくばくと波打っている。熱気でむしむしする。ケツも七つ八つに分裂するほど乳酸が産生されている。だが、いままで自分を支配していた恐れは、夏場の鼻くそよりもずっと小さくしぼんでいた。急激に酷使した身体をいたわるかのように、ゆっくりと歩き出し、クーリングダウン。
大股でずんっ、ずんっと土を踏みつけながら、思考を再起動させてみた。
あ。そういやイクジはどうしたろう。重たい荷物をかかえて、必死で追いかけてたんだろうな。何が起こったのかもわからずに追いかけてきていたに違いない。可哀そうに。この暗さではもう俺を探し出すことはできやしないだろう。そう、すでに日は沈み、茂った木々の隙間からかろうじて月光が覗くのみ。その月もまたスレンダーで、もう真っ暗闇に近い状態だ。今頃はこの暗闇の中、不特定の対象に怯えながら身を震わしているんだろう。引き返してやろう。
いや。彼とはさっき決別したのだ。俺は今夜にでも闇に溶けてしまうのだ。そして微かな月明かりに乗って、背中に羽を持ったすっぽんぽんの幼い少年たちが降りてくるのだ。俺はその少年たちと天に昇って逝くのだ。すっぽんぽんで逝くのだ。だからイクジよ。君に幸あれ。天にマシマス神様。彼をお救いくださいまし。ザーメン。
使命を果たしたこの体はもうぼろぼろで、いよいよいうことをきかなくなってきた。手のひらがじんじんと痺れてきたかと思うと、みぞおちも共鳴してじんじんとし始め、ついには身体の先っちょから先っちょまでじんじんと鳴った。じんじん、じんじん、じんじん。ばだん。倒れた。じんじん。じんじん。じん、じん、じ、ん。サ、ヨ、ナ、ラ
寒い。
寒い。あの世はこんなに寒いものなのか。誰か半纏か毛布を。出来れば暖かいおしるこを。もう少し贅沢を言ったらコタツとキムチ鍋もヨロシク。
ってあややあ。まだ、この世だ。死んじゃあ、いない。深い、森の中。横には、屍。前にも、屍。ちょっと前にも、屍。もうじき夏だというのに、とにかく寒い。生きてる証拠ですね。
樹海の朝にぴよぴよとか、ちょんちょんとか、小鳥の可愛らしいハミングなんて無い。濃い霧の向こうの方から、ギヨゥエーっと不気味にしか鳴いてくれないらしい。いや、ひょっとしたらここは地獄ってやつか。きっと地獄だ。ほら、まさに地獄絵図って感じじゃあないですか。こっちに白骨死体、あっちにも白骨死体。こっちにも白骨死体、あっちのほうには腐乱死体、あの向こうのも死体。うん。あれはまだちょっと新しそうだな。なんて遊んでると、ちょっと新しそうな死体がむくっと起き上がって「うーん」なんて言ってる。さすがは新そうな死体。すごいぞ新しそうな死体。頑張れ新しそうな死体。
ちょっと待て。
後頭部に、あの腐乱死体の感触が蘇ってくる。トップアスリート復活。
「うあああああ!」
俺は何故逃げている。
今は死を覚悟していないのか。
だから俺は逃げるように走っているのか。
しかし、一体何から逃げているんだ。
俺は何に恐れているんだ。
何が怖いんだ。
死ぬのが怖いか。
死ぬことがそんなに怖いか。
自分があんな腐乱死体に変わり果てることが。
。
否。
死体が起き上がるという未知の恐怖に遭遇したから怖い。
「待てえ。」と新しそうな死体の声。待ってたまるものか。なんでこんな目に遭わないといけないのか。天にマシマス神様。早くあの世へ連れてって。てか野たれ死ぬ必要なんて無かった。さっさとどっかの樹で吊っとけば良かった。まったくうっかり屋さんだこと。
「待ていキー坊。」
待てるかって。
キー坊って変な呼び方するなって。
あれ。イクジだ。
本当に心から嬉しそうな笑顔を見せつけながらイクジが言いやがる。
「俺を死体扱いしやがって。びびりやのう。せやけどほんまに良かった。ま、こうやってまた再会できたことやし、仲良くやりましょ。あーやっぱり神さんっておるねんなあ。ありがたやありがたや。」
天にマシマス神様。こんな形で彼を救わないでくださいまし。甚だ迷惑だ。早くあの世に連れてって。
「仲良くなんかしない。イクジはイクジでやってくれって言っただろ。俺は死ぬんだ。」
「けどお前、死ぬから何も怖いことないってゆうときながらびびりまくりやんけ。ちびりまくりやんけ。うへへへ。」
彼を早くあの世に連れてって。この上もなく腹の立つ男だ。何故この変人と出会ったのだろう。不運だ。まことに遺憾だ。だが、イクジの言うとおり俺はびびりまくりのちびりまくりだ。きっと心から死を覚悟なんかしてなかった。そうとは言っても、別に死にたくないって訳ではない。俺は死を望んでここにきた。そこは変わらない。覚悟が出来てようが出来てまいが、この世に未練があろうがなかろうがここで生を終えるのだ。そこは変わらない。
「でも、やっぱり俺は死ぬんだ。イクジはここから出られることを目指して頑張れよ。」
「だからあ、目指すとかそんなんじゃないねんて。」
目の前を横切るように小さな渓流が流れている。ちろちろと美しい音を奏でている。陰気な樹海の中にもなかなかいいものがあるのだな。素直にそう感じた。
「ほら、そこに小川があるじゃないか。それに沿って下って行けば出られるんじゃないか。」
「そうかもしれんな。そうじゃないかもしれんな。とにかく行ってみる価値は大いにあるな。はい、キー坊もこっちな。」無理やり肩をぐっと捻られ、川を下るコースに誘導された。抵抗しようと思ったが「まあちょっとぐらい付き合えや。お前が死ぬまでな。」と言われたら従うしかなかった。
「いやあ、綺麗な川やなあ。心が和むなあキー坊よ。身体が軽くなるなあ。あー軽い軽いって軽すぎるぞ。」イクジが一瞬止まった。
「俺のかばんあれへんやんけー!」
全くもって気付かなかったが、あの大きな大きなリュックが無い。髪の毛をぐしゃぐしゃと前後に掻きながらイクジは「はっ」「へっ」などと口走り、随分焦っている様子である。
「ええと。いつから無いんや。ええと。」きょろきょろと辺りを見渡したかと思うと、またイクジが一瞬止まった。そして遠くを見つめながら静かに口を開いた。
「おい、キー坊。もう、鞄は、ええわ。意外と早かったなあ。ほんまのほんまに神さんはおるわ。俺はここで死ぬべき人間やなかったみたいや。」
イクジが顎で前方を指した。その先を見て俺は我が目を疑った。
ほんの六、七十メートルほど先、もうすぐそこ。もうすぐ近くに、二つの小屋と、その傍で煙が上がっているのが見えた。
「キー坊。お前どうするよ。俺は出るぞ。俺は生きるからな。」イクジは足を踏み出した。
本当に樹海から抜けてしまったのか。いくら疑っても、いくら見てもあそこには間違いなく人の気配がある。俺は、俺は・・・・。
いや、何かがおかしい。なんだこの違和感は。この小屋に、煙に、違和感を感じずにはいられない。そう思ったその時、がさがさがさっと大きな音を立てて何かが近づいてきた。
「何やねんな。お、お前ら。」
俺とイクジは三人の男に囲まれていた。手には長い槍を持ち、ぼろぼろの服を着たおかしな格好の男たちに、鋭い眼差しで睨まれ、槍を突きつけられていた。




