私立晴雨高校文芸部の四人組
前書き
この小説は私立晴雨高校文芸部に所属する四人の女子高校生の物語です。
私立晴雨高校文芸部の四人組が創作したリレー小説と、その創作の舞台裏を少しだけ表ざたにする、そんなお話です。
私立晴雨高校文芸部 キャラクター紹介
紗江子
部長。メガネが似合う高校二年生。黒髪ロングヘアーで和服がよく似合う美人さん。
性格は真面目、あと情熱的な活動家。思い付きだけで行動して、そんで同期の部員全員を巻き込む人。
読書家で純文学小説、私小説を好む。創作活動もそっちばっかり。
奈央
副部長。やや身長高め、見た目カッコイイ。茶髪ショートヘアでタバコがよく似合う美人さん。
性格はクール、そんで自己中心な献身家。だからお節介な行動で他人を困らせることも。
グロ・オカルト・ホラー小説、映画が大好き。創作も妄想もそっちばっかり。
絵莉奈
会計係。少し小さめなお嬢様。金髪ゆるふわモテカール、金髪は自毛。ガラスの靴がよく似合うお姫様。
性格は寡黙で温厚、他人任せでプラス思考。NOを言わない、というか意見を言わない。決定事項を自分の都合の良いように解釈して他人を困らせることも。
純粋古典恋愛小説、少女漫画を好む。いつでも恋愛を第一に考えて創作してしまうお方。
藍
役職無し。スニーカー好きなボーイッシュ。黒髪ショートヘア、バスケットボールがよく似合う中二病患者。
性格は我儘、強引、だけど淋しがり屋。嫌われることに少し脅えながら、それでも我を突き通す中二病患者。好きなことは好きなようにやるため、後で他人の反感を買うことも。
戦闘物のライトノベル、アニメ、漫画を好む。だから、書くのもそういうのばっかり。
創作舞台裏→リレー小説の順になっております。
前書き、終わります。
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私立晴雨高校文芸部の部室。部員全員が集まってぐーたらしていた。
晴雨高校文化祭まで残り十日。文化祭で出展する同人誌に載せるための小説は四人とも完成しており、することがなくなった四人は部室でそれぞれぐーたらしていた。
そんな中、部長の紗江子が思いついたことをみんなに言った。
紗江子 「文化祭で出展する同人誌のことでみんなに提案」
他の三人「何?」
紗江子 「個人作品だけじゃつまらないと思うの。せっかくだから共作してみない?」
奈央 「いいんじゃない。リレー小説ってことでしょ」
紗江子 「そう。四人で一つの小説を作ってみましょうよ」
藍 「好きに書いていいってこと?」
紗江子 「いや、ちゃんと話の筋を通してくれれば、ね。その辺は分かってほしいな」
藍 「ふーん。良いと思うよ。賛成、絵莉奈は?」
絵莉奈 「うん。いいと思う」
紗江子 「はい、それじゃ決定。一人何枚にする?」
奈央 「多くて原稿用紙十五枚程度でいいんじゃない? あと十日しかないし」
紗江子 「それでいっか。それじゃあ、一番最初は私が書くから、二番手は誰にする?」
奈央 「はい、あたし。じゃなかったらやんない」
藍 「私は最後がいい!」
絵莉奈 「じゃ、私は三番手でいいや」
紗江子 「はい、決まり! 期限は一人二日間。出来たら次の人にワープロ原稿のデータを渡すということで」
奈央 「人の原稿には手を加えないということも条件にした方がいいよ」
紗江子 「え、そんなの当たり前じゃない?」
奈央 「そう? ならいいわ。校正、推敲、加筆修正、編集は誰がするの?」
紗江子 「ああ、じゃあ私がするよ。言い出しっぺだし」
藍 「やべえー! 楽しみだなあ!」
そんなこんなで始まった私立晴雨高校文芸部のリレー小説。
紗江子→奈央→絵莉奈→藍の順で書き継がれていく一つの小説、初めての試みに四人とも胸を躍らせていた。もちろんみんな真剣に取り組んだ。各々の思いを込めて。
紗江子はさっそく自分の書き上げた原稿を奈央に手渡した。
手渡されるとき、こんな会話があった。
紗江子 「はい、出来たから、あとはよろしくね」
奈央 「うん、任せて。好きに書いてもいいんでしょ」
紗江子 「あんまりぶっ飛んだのはやめてね。後の人のこともしっかり考えて」
奈央 「分かってるって。それじゃ、また」
こうして紗江子から奈央に原稿が手渡された。
その小説を読み、続きを書き上げた奈央はその原稿を絵莉奈に手渡した。
手渡されるとき、こんな会話があった。
絵莉奈 「ほんとに好きに書いてもいいのかなあ」
奈央 「いいんじゃない。私だって好きに書かせてもらったし」
絵莉奈 「その、……(聞き取り不可)…、変えても大丈夫かなあ」
奈央 「ん? まあ話の筋さえ変えなきゃ怒らないと思うよ、みんな」
絵莉奈 「そっか。ありがと、頑張ってみる」
こうして奈央から絵莉奈に原稿が手渡された。
その小説を読み、続きを書き上げた絵莉奈はその原稿を藍に手渡した。
手渡されるとき、こんな会話があった。
絵莉奈 「はい、これ。頑張ってね」
藍 「オッケー。でも、本当に好きに書いちゃっていいの?」
絵莉奈 「いいと思う、よ。私もやりたいようにやったから」
藍 「オッケー。それ聞いて安心した。出来たら紗江子に渡せば良いんだっけ」
絵莉奈 「うん、たぶん」
藍 「よっしゃ、じゃ、あとは任しといて。とびきりクールなのを書いてやるわ」
こうして絵莉奈から藍に原稿が手渡された。
その小説を読み、小説を書き上げた藍はその原稿を紗江子に手渡した。
手渡されるとき、こんな会話があった。
藍 「これ。あとはよろしく」
紗江子 「ありがと。あとは読み返して校正するだけね」
藍 「うん、頑張ってね」
紗江子 「どうしたの? 元気あんまないね」
藍 「まあ、徹夜で書き上げたから。その色々と頑張って、それと、ゴメン!」
紗江子 「あ! ちょっと! 何で逃げるのよー!!」
こうして紗江子の手元に四人で書き上げたリレー小説が届けられた。
その夜、自宅にてリレー小説を校正中の紗江子の独り言。
「どうすんのよ、これ。校正も何も……、てか、みんな好き勝手にやったなあ。
まあ、いいけどさあ。いいんだけどさあ……」
校正を終えた紗江子は、そのワープロ原稿のデータをメールに添付して三人に送信した。
翌日、放課後。文芸部の部室にて騒動勃発、プチ喧嘩。
奈央 「とりあえず、絵莉奈と藍は書きなおしてね」
藍 「はあ!? 何でよ!」
紗江子 「二人ともまあまあ、喧嘩しないで」
奈央 「だって、あの結末はないでしょう」
紗江子 「まあ、確かにそうだけど……」
藍 「何!? あたしだけ仲間外れ!? だったら絵莉奈なんかどうなのよ!」
絵莉奈 「え? 私は好きにやっていいって奈央に言われたから」
奈央 「好きにやってもいいって、限度があるでしょ、絵莉奈もさあ」
藍 「何よ、奈央だって話の流れをぶち壊しているじゃない」
紗江子 「しっかり繋がっているわよ、藍と違ってね」
藍 「あれがあたしの書きたい物なの! 何さっきから。喧嘩売ってんの? お化けみたいな顔にしてやろうか!?」
奈央 「は? 中二病も大概にしないとぶち殺すわよ、このガキ」
紗江子 「やめなさい! いい加減にしないと怒るよ!」
すこしばかりの沈黙。奈央と藍の間に冷戦が発生するも、長くは続かず。部員一同、溜息ついて肩を落とす。
奈央 「あーあ、せっかくみんなでホラー小説が書けると思ったのに」
藍 「私はそんなの書く気なかったけどね、ふん」
紗江子 「そんなこと言うなら、私だって純小説のまま進行すると思っていたよ」
絵莉奈 「でも、読んでて、書いてて、楽しかったけどなあ」
部員一同「そうなんだよねえ」
奈央 「で、どうするの、紗江子。これ、本当に載せるの?」
紗江子 「みんなの同意が得られれば。でも、中身はそんなに酷い物でもないし」
藍 「まあ、確かに結の部分は酷かったけどさあ。でもあれしか思いつかなかったんだよ。本当はもっと壮大な続きがあってね」
奈央 「はいはい。でも時間がなかったって言いたいんでしょ」
藍 「そう。ついでに言うと、勢いで書いた部分も多い」
紗江子 「うだうだ言ってても仕方ないし、せっかく書いたんだからもう載せよう」
絵莉奈 「うん。大丈夫だよ、それでいこうよ、もう」
藍 「書きなおす? 最後の部分」
奈央 「いいよ、別に。みんな、それでいいでしょ」
絵莉奈 「……なんで誠一君、死んじゃうんだろう……」
藍 「いや、でも、流れからいって誠一君は死なないと面白くないっていうか」
絵莉奈 「何で? 愛する人に死なれてそれが面白いことなの?」
藍 「いや、あれを乗り越えてこそ主人公は強くなっていくっていうか」
絵莉奈 「あの部分だけ書きなおしてよ。たった一行じゃない」
藍 「読者の目を留まらせるためには、あの一文は必要だって」
絵莉奈 「だったら、最後まで書きなさいよ。せめて納得のいく死に方を誠一君に与えないと浮かばれないわ」
藍 「それはまた今度考えるから」
絵莉奈 「呆れた! 先行きも考えずに人のキャラを殺すだなんて!」
紗江子 「ねえ。キャラのことで喧嘩するなら、まず私の愚痴を聞いてくれないかなあ」
奈央 「あはははは、まだ続きそうだね、この論争は」
そうしてこうしてやっと出来上がったリレー小説が以下の小説。
こんな四人の思いが詰まった小説、どうぞご賞味あれ。
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『中野さゆり、激動な一日』
著者 私立晴雨高校文芸部
―紗江子(1を制作) 奈央(2を制作) 絵莉奈(3を制作) 藍(4を制作)―
~1~
ああ、うっとうしい。ああ、暑い。
どうして帰りの会なんてものを未だに行うのだろう。中学校じゃあるまいし。どうせたいしたことなんか言わないくせに。それがたいしたことであっても私にはどうせ関係の無いことだし。
中野さゆりは汗を流しながら口を軽く開けて着席していた。今すぐにでもこの暑苦しい教室から出て行きたいとさゆりは願っていた。生地の薄い白いハンカチで額の汗をこまめに拭いては、団扇で風を作り出して自分の顔に当てる、意識はそれだけに集中する。教壇で暑苦しい熱弁を奮い始めたばかりの青森先生の言葉など、耳に入れたくもない。
さゆりの席は窓側の列で後ろから数えて二番目の席だった。窓の外からは蝉の鳴き声がひっきりなしに鳴り続け、廃品収集車の宣伝が遠くに聞こえた。窓を開けているくせに夏風は教室に吹き入らず、誰かが勝手に吊るした風鈴も綺麗な音色を奏でずにしんと静まっている。
体育館の方がまだマシだ。思いっきり体を動かせるだけ風を受けられる。
団扇を扇いでいた方の腕が疲れ、さゆりは机に投げ捨てるように団扇を置いた。団扇の持ち手部分が汗で濡れていた。それをさゆりはハンカチでゆっくりと拭き取った。ハンカチはほとんど汗で滲んでいて、雑巾のように絞れば汗がボタボタと滴り落ちてきそうな気がした。ついでにこのYシャツも、それよりブラ、靴下、今だったら身につけている全ての物から汗を絞りだせそうな気もした。
ああ、早く終わんないかなあ。
多分、このクラスの誰もがそう思っているに違いないのだろう。だけどそれを口に出さないのが日本人の良いしきたり、だなんて一体誰が最初に決めたのだろう、広めたのだろう。話の長いあの教師は何をそんなに話したいのだろう。見ろ、黙って聞いている方だって汗をかいている、そんなに汗を拭きながら話すことなんてあるのだろうか。
どうせ私には関係のないことなんだから。
そう、私はこの教室にいなくてもいいのだから。だから私だけ先に帰らせて貰っても別にいいじゃないか。
さゆりは内心に蓄積されてゆくこの鬱憤を早く外に出したかった。鬱憤を愚痴として吐き出し、その愚痴を笑いながら聞き流してくれる友人のいるところへ早く行きたかった。
一学年の終わりごろ、二学年への進級と同時に文理でクラス替えが行われることはさゆりも知っていた。自分が理系を選択すれば、新クラスでは女子が少なくなるだろうということも承知の上だった。理系クラスに進級するさゆりの友人は一人もいなく、修了式が終わると同時に寂寞とした思いを抱いたのも確かだったが、所属する女子バスケ部に行けばいつでも友人には会えるので、高校で一人ぼっちになるという心配をすることはなかった。それに何より新クラスで出会った女子と仲良くする自信も、その時のさゆりには多少はあった。
だが、さゆりの自信は始業式の日にもろく崩れ去った。
新クラスにはさゆりを含めて女子は八人しかいなかった。そのうちの五人が既に一年の頃からグループを作って行動していた学校では有名な五人組で、しかも頭の悪いオタク、有名な理由はある教室に集まると堂々と知らないアニメの話で盛り上がって喧しいからだった。
別にさゆりはオタクが嫌いなわけではない。オタクっぽい趣味を持つ友人もバスケ部にいる。だからオタクが好みそうなアニメも観たことはないが、名前だけは知っていた。
さゆりがそのオタクグループを嫌った理由は他にあった。
それはこのクラス、つまり理系を選択してこのクラスに来た理由だった。
始業式が終わって生徒が教室に戻って来たとき、先生が来るまで若干の時間があった。その時だけ女子八人が一つの机の周りに集まった。軽い自己紹介を八人が済ませると、オタクたちはさっそくアニメの話で盛り上がり始め、さゆりを含む三人の女子を話から置き去りにした。
さゆりは彼女たちのことを知りたくて何か話をしようと思い、オタクたちにどうして理系を選択したのかを半ば強引に訊いた。
メガネを掛けた、お世辞でも可愛いと言えない太っちょの子が素気なく答えた。
「だって、女子で理系でしかも物理を選択する人なんて滅多にいないでしょ。ここだったら絶対にこいつらと一緒になれるって分かってたから」
ああ、駄目だ。こいつらとは絶対に仲良く出来ない。
「そうなんだ」と返事をして、さゆりはそのまま自分の席に戻って行った。
さゆりは気さくな性格で人を選り好みすることはないのだが、自分の将来を適当に考えて行動する女だけはどうも好きになれなかった。そういう女と共にいると、何故か腹が立って仕方がないのだ。
それはさゆりの性格に原因があった。さゆりは女子の前では気さくな態度でわけ隔てなく会話が出来るのだが、男子の前では無愛想な態度になってしまいがちで、どうしても素気ない話し方や態度を取ってしまう。小学生の時はそんなことなく男女平等な付き合い方をしていたのだが、中学生になってから男という生物が時分と違う世界の生物のようにだんだん感じられるようになってしまい、気がつけば男子とはあまり会話をすることが無くなっていた。
高校生になり中学生の時のさゆりを知っている人が周りにいなくなると、男子がさゆりのことを避けているような気がした。多くの男子がさゆりに話しかけないのに、それでも急にとある男子がさゆりに告白をしてくるのだ。この行動がさゆりにはどうしても理解できなかった。中学時代を女子バスケ部でほぼ過ごしてきたさゆりにとって、男子は必要な存在ではなかったためか、さゆりには未だ男子にわけも分からず恋をするという経験がなかったのだ。
そんな経験もないまま、十月頃にさゆりはこれからの将来を決める進路選択をすることになった。理系か文系のどちらかを決めるだけなのだが、さゆりは深く悩みこんだ。
深く悩みこんだ理由、それは男子が苦手という思いが絡んでいたからだった。
女の幸せとは何だろう、と一度考えてしまうと、あとはもう内心不安になるばかりだった。結婚するには相手が必要、でも相手は男子というのが条件、そして男子が苦手、そんなあたしに結婚はたぶん無理。じゃあ、一人で生きて行かなければいけない。けど、どう考えても体力的に男子に劣っている女子が社会で肩を並べて競争するにはどうすればいいだろう?
夜通しで悩んだ結果、さゆりの出した結論が小学校の頃に思い描いた獣医になろうということだった。さゆりは恋愛・結婚よりも夢を選んだのだった。
そのためには努力しなければならない。男子の多い理系のクラスで、私は男子に負けないぐらいの学力を身につけなければならない。
さゆりにとってそれは辛い選択でもあった。友達の多い文系のクラスで楽しく過ごした方が良いに決まっていると彼女自身そう思っていた。実際、さゆりが理系にいくことを止める友達もいた。さゆりには友達と離ればなれにはなりたくないという思いがどうしても捨てられずにいた。
だから、友達と離ればなれになりたくないという理由だけで、進路選択という将来を適当に決めた女を好きになることが出来なかったのである。
だから、さゆりはあの始業式の時以来、オタクの五人組とは事務的な会話を除いて会話をしたことはない。
では、残りの二人はどうかというと、一人はその後すぐに不登校になり、もう一人は話かけてもパッとしない地味で無口な女子だった。名前は近藤あかり、印象に残らないような身長の低い女子だった。さゆりは何度かその女子とコンタクトを取ってみたが、話が合わず、というより会話が続かず、友人にはなれなそうだったので、五月に入る前にさゆりはこのクラスを一人で生きて行くことにしたのだった。
帰りの会は未だに終わらない。
担任の青森先生が話を始めてからもう七分以上過ぎていた。それでも教室にいる生徒が文句もヤジも飛ばさずに聞いているのは、この青森先生が校内で一番乱暴でお喋りで頑固な先生だからだった。とにかく自分の意見を覆されるのを嫌い、そして自分のペースを乱されるのを嫌がる先生だった。昔、授業中に黒板の字が汚くて読めないとある生徒が主張したところ先生は激昂してその生徒に怒鳴り散らし黒板消しを投げつけて生徒に近付いて胸ぐらを掴んでそのまま廊下に引っ張り出してあわや生徒がボコボコにされそうになったことがあった。
こんな先生が担任になってしまったのだから、もうさゆりにはこの教室に取りつくしまもなかった。先生に好かれなくても良いが、嫌われたら生きにくいことこの上ない。このクラスにいる男子のほとんどが、まるで今まで運動をしたことがないのではと思うぐらい貧相な体をしている奴かデブのどちらかだったので、先生に何か物申すような男子はいなく、先生のすることに誰も反抗する奴などはいなかった。
そして、この先生は苛立っているときほどよく喋ることでとても有名だったのだから、喋ることでストレス解消をしているあの先生に「早く帰りたい」などと言って先生の話を止める生徒など出てくるはずがなく、こういう時はひたすら黙って耐えるということがクラスの暗黙のルールとなっていた。
ああ、暑い。話している方はそこまで暑さを感じないのだろうか。
様々な音がいっぺんに聞こえる。蝉、先生、蝉、オートバイが走る音、もううるさいとも感じない。
すると、隣の机でガタンと音がした。あの地味で無口な女子、近藤明かりがおずおずとしながら立ち上がった。
「先生、もうそろそろ止めて頂ければ……、その、暑いし、早く帰りたいです」
その女子生徒の提言に教室が凍りついた。しんと静まった教室、先生はその言葉を聞いて口を一瞬だけ止めると、あかりのことを思いっきり睨みつけて怒号を上げた。
「なんだと貴様あぁぁ!」
その怒号に誰もが身を竦め、さゆりも身を竦めて先生と目を合わさないように下を向いた。下を向きながら横目で勇敢で無謀な行動を取ったあかりを見ると、その怒号に怖じ気ついたのか体を惹いて顔を恐怖に引きつらせながらも、それでも口を開いた。
「だって、だって、さゆりちゃんが」
「は!?」
その言葉に驚いたさゆりは立ち上がって「違います!」と言おうとした。
「貴様が言わしたのか!」
「違うって!」
「ふざけるなあ! お前らあとで職員室に来い!」
「違うって言ってるじゃん!」
「うるさい、後で来い! 他はさっさと帰れ!」
先生がそう言ってさっさと廊下に出て行くと、入口に一番近い席に着いていた生徒がさっさと教室を出て行った。まるで自分は関わりたくないと言わんばかりの退出だった。一人帰ると、すぐにその近くの生徒も出て行って、その間に先生が教室から出て行くと、いっせいに愚痴を吐きながら生徒全員が帰って行った。
教室に残ったのはさゆりとあかりの二人だけになった。
「ねえ、どういうつもりなの?」
さゆりがドスを利かせたような声でその女子生徒に言った。
「ごめん。その、だって、もう帰りたかったから」
「いや帰りたかったのはあたしも同じだから。どうしてあたしを巻き込んだのかってこと」
「ごめん」
ついやってしまった、というのが彼女の本音なのだろうとさゆりは思った。こういう後輩はバスケ部に何人もいる。別に責任とかを押し付けるつもりはなかったのだけど、でも一人じゃ嫌だから、または先輩のためにやってみたら、そんな気持ちまであったのかどうかはさゆりには分からないが、可愛い後輩たちなら笑って許せることもあった。
もう彼女は泣きそうになっていた。泣けば許されるとかそういう問題ではない。単に隣の席に座っているだけで巻き込まれるなんて冗談じゃない。今すぐこの女を張り倒してやりたいと思った。
ただ誰も彼女を援護しないで赤の他人のように立ち去って行ったことも考えると、さゆりはむやみに責めることも出来ず少し彼女に同情した。彼女が声をあげたとき、誰か一人でも「そう思います」と言えば、それが私であったとしても状況は変わっていたかもしれない。
「その、さゆりさんしか頼れそうになかったし」
それを本心から言っているのなら少しはうれしいとさゆりは思った。
そんな彼女は汗か涙かどちらか分からない物で頬を濡らしている。
「あーもう、分かったから」と言ってさゆりは彼女をなだめると、落ち着いたらさっさと職員室に行こうと言った。
彼女はこくんと頷いてから言った。
「二人とも行かないってのは駄目かな」
「それは、マズイよ、うん。そんなことしたら明日から居場所を失くすよ、あたしたち」
「そうだね」とあかりは言った。さゆりは、居場所なんて始めからあったようでない物だけど、と心の中で自嘲した。
そして二人は職員室に向かった。
~2~
二階の職員室で青森先生に容赦なく叱られたさゆりとあかりは、先生に一応許された形になって職員室を後にした。教室にカバンを置いたままの二人は終始無言のまま職員室のすぐ脇にある中央階段を昇って三階の教室に戻って行った。
教室には誰もいなかった。あかりは席に戻ると自分の一つ前の席の椅子を思いっきり蹴飛ばして怒りをぶちまけた。
「あのクソ野郎!」
さゆりの右隣の席でカバンの中身をチェックしていたあかりはそれを聞いて「きゃぁ」という小さな悲鳴をあげた。躊躇しながらもあかりはさゆりを宥めようと声を掛けたが、さゆりの怒りは収まらなさそうだった。
「てか、あかりはムカつかないの!? 馬鹿にしやがって!」
「けど、八つ当たりはよくないって」
「八つ当たりなんかじゃないわよ。気晴らしよ、憂さ晴らしよ」
怒りが収まらないさゆりは、今度は後ろの席の机を蹴り飛ばそうとした。「駄目だよ」と小さくあかりが言ったのがさゆりには聞こえたが、そんなの気にもならなかった。
右足で思いっきり蹴り飛ばそうとしたとき、教室のドアが開いた音が聞こえた。他人に見られたらマズイという本能が働いたさゆりはそのまま足を引っ込めた。
入口にいたのはさゆりの所属する女子バスケ部の友人、常盤佑香だった。さゆりより背が高くジャージ姿だった佑香は、さゆりと目が合うと挨拶をして教室に入って来た。
「まだ部室には行ってないの?」
「行ってないよ。いろいろとあってね」
「ふーん。なんかご機嫌斜めだね」
「青森のやつがマジでムカつく」
「だからあいつと関わるなって言ったじゃん。あんなの社会の敵なんだからさあ」
さゆりはそれから佑香と共に青森先生に対する悪口を言い合った。一通り青森先生に対する罵倒が終わり話に区切りがついたところで、佑香がさゆりに言った。
「ねえ、祐樹先輩知らない? あの人体育倉庫の鍵を持ったままどっかに消えちゃったんだって。おかげで倉庫から何も取り出せなくてバスケの練習も出来ないの」
「え、そうなの? てっきりもう始まっていたのかと思った」
「まあ、そういうことだから、祐樹先輩を見つけたら取り押さえてといて。まあ、鍵だけ返して貰えればそれでいいんだけどね」
「おっけー。すぐ着替えてそっちに行くから」
「じゃあ」
お互いにそう言って佑香は教室から去って行った。
「佑香さんですよね、今の人」 あかりが言った。
「そうだよ、知ってるの?」
「はい、まあ。その、一応、去年同じクラスだったので」
「そうなんだ」と言いながらさゆりはカバンを肩にかけた。
「それじゃ、あたしもそろそろ部活に行くから。じゃあね」
「はい」とだけあかりは言った。教室にあかりだけを残し、さゆりはさっさと女子更衣室に向かって行った。
女子更衣室は体育館のある建物の中にあった。建物の入口を抜けると下駄箱のある玄関に出る。一つ段差を上り玄関から上がるとエントランスホールが広がり、直進すると体育館に繋がる。また玄関右手に階段があり、二階へあがると教室より少し天井が低いホールに出て、右手前側に男子更衣室の入口があり、右奥に女子更衣室の入口があった。
さゆりは女子更衣室のドアを開けた。換気扇のカラカラという音が聞こえた。室内はほぼ真っ暗で、更衣室の左側にあるシャワー室へ続く曇りガラスで出来たドアから抜ける光だけが更衣室を照らしていた。人の声が一切聞こえない静まりかえった更衣室、さゆりは蛍光灯のスイッチを点けた。
更衣室には無駄な物が一切置かれていない。シャワーを浴びる時に貴重品を一時的に入れるための鍵付きロッカー、誰かがいつの間にか持って来た家庭用扇風機、それと衣服や荷物を入れるための緑色の四角いカゴがいくつか更衣室の隅に重ねて置かれているだけで、それ以外の物は置かれていなかった。
いつもだと誰かとここで会うのだが、授業が終わってだいぶ時間が過ぎてしまったためなのか更衣室には誰もいない。室内の入口でさゆりはこの更衣室を見て、がらんとした何か物淋しい印象を受けた。四方がコンクリートで固められた部屋で、窓はドアを抜けたシャワー室にしか無くこの部屋には陽射しが入らないため、更衣室の外よりは少し肌寒く感じられた。
部屋の隅に重ねて置かれているカゴのところまで行くと、カゴを一つだけ持ち上げ、自分の足元に置いた。上履きを脱いで紺の靴下を穿いたまま薄汚れた白いタイルの床に足を着けた。足の裏にひんやりと冷たい感触が伝わってきた。さゆりには天然のクーラーのように感じ、その心地良さに少しそのままでいた。
しかしすぐに足の裏も慣れてくる。さゆりは靴下を脱いで素足になり、もう一度タイルの床に足をつけた。さきほどとは違った神経に直に伝わるような冷たさを感じ、それもさゆりにとっては心地よかった。
さゆりはカバンを開けて中からバスケ部で使っているハーフパンツと半袖の赤の体育着、それに踝までの白い靴下を取り出した。スカートを穿いたままハーフパンツを穿き、スカートを脱いだ。次にまだ襟元についた汗が乾ききっていないYシャツを脱ぎ、白いシャツも脱いだ。ブラの上から体育着を着て、着替え終えるとさっさとカバンの中に脱いだ衣服を全て丸めてしまい込んだ。そして床に体育座りをして靴下を穿いた。
上履きを履き、さゆりは忘れ物がないかを確認した。財布、携帯電話、服、忘れ物がないことを確認したさゆりは携帯電話にメールが届いていることに気がついた。佑香からのメールで、放課後の教室で聞いた内容と同じだった。― 祐樹先輩と体育倉庫の鍵が未だに見付からない、祐樹先輩と鍵を見つけたら至急連絡を下さい ― さゆりは ― 分かった。いま着替え終わったから、この辺も探してみる ― とだけ返信した。
カバンを肩に掛け、さゆりは更衣室から出るためにドアに向かおうとした。
その時、シャワー室の方から何かが落ちた音がした。重たい物が床に落ちたような音だった。
さゆりは足を止めた。シャワー室に誰かいるのだろうか。いや、たぶん鼠が何かにぶつかったのかもしれない。
でも、シャワー室に重たい物なんか置いてあったかしら。シャンプーボトルなどは一つも置かれていない、そもそもシャワー室に棚などはない。
少し気味の悪い気がしたさゆりは、この音に深追いすることを止めてさっさと更衣室から出て行こうとした。
すると、今度は棒が地面に叩きつけられたような乾いた音が響いて聞こえてきた。
誰かいるの?
さゆりはそう思い、おそるおそるシャワー室の入口まで近づいて行った。
曇りガラスの先には特に人のような姿は何も見えず、目を凝らして見ると逆光のため少し眩しかった。
取手部分に右手の指を掛け、曇りガラスのドアをなるべく音を立てないようにゆっくりと開けた。それでもガラガラガラという音がシャワー室に響いていった。
「誰かいますか?」 シャワー室には足を踏み入れずに顔だけ覗かせて言った。
誰かがいても失礼のないように声を出したつもりだった。
シャワー室からの返事はない。さゆりの声だけが小さく余韻を残して響いた。
水の音が聞こえてきた。どこからか水が漏れるような音が聞こえた。その音はすぐに雨のような音に変わった。すぐにシャワーの音だとさゆりは分かった。
「ねえ、誰かいるんでしょ?」
少し強い口調で、しかし不安を隠せていないことも相手に伝わるような声になった。
さゆりはシャワー室に足を踏み入れた。部活終了後にいつも使用しているはずなのだが、そのときとだいぶ雰囲気が違う気がした。
ドアを抜けると、まず洗面所があり、その奥がシャワー室となっている。入口から左手に鏡のついた洗面台が二つ設置されていて、コンセントもありドライヤーも使える。右手には一応、服を脱ぐための場所として、カーテンで仕切られる場所があるが、さゆりは一度も使ったことがない。入口から洗面所を突き進むとシャワーの使える個室が通路を真ん中に挟んで左右に四つずつあり、通路の行き当たりには四角い窓がある。陽射しはそこから入ってくる。
緑色のざらついた地面に足を着けると異様に冷たい感触を感じて少し身震いを起こし、少し前を見ると地面がところどころ濡れていて光を反射していた。さゆりは足を止めて、立ったまま靴下を脱いでポケットに入れた。
シャワーを使っている音が急に止まった。さゆりは洗面所を通り抜け、個室が並ぶ通路の入口で足を止めた。
シャワー室は陽射しが入り明るいのに、そこには何か黒い不気味な感じがして、さゆりはこの先行くかどうか迷っていた。水は最奥の右の個室から流れて出ているのが見え、緑色のカーテンが閉まっていた。
「ねえ、誰かいるなら返事をしてって」
そう言ってみたがやはり返事はない。ふと一歩下がりあたりを見回すと鏡が見え、自分と目が合った。さゆりは何となくそれから目をそらした。
携帯電話を取り出し、応援を呼ぼうとした。ポケットから携帯電話を取り出す。
佑香に ― 更衣室に来て、なんかヤバイ ―とメールを送信した。送信完了の画面を確認したさゆりは、さっさとこの気味の悪いシャワー室から出ようと振り返った。
すると、奥の方から男の呻き声が聞こえてきた。
一瞬、さゆりの息が止まり、心臓が縮んだ。
助けてくれえ、という声が呻き声とともに遠くの方で小さく聞こえてきた。
だが、それはさゆりにとって聞き覚えのある声だった。その声は何度も助けを呼んでいた。さゆりは誰の声だろうと思うと、すぐに思い浮かんだ人がいた。
「祐樹先輩?」
それは祐樹先輩の声にそっくりだった。通路の奥の方から確かに行方不明の祐樹先輩の声が聞こえてきて、さゆりは唖然として立ち竦んだ。
どうして祐樹先輩の声が聞こえるの?
さゆりは得体の知れない恐怖を心の奥に抑え込み、その声がする個室の前まで行くことにした。誰かのイタズラにしてはひどすぎる。もしかしたら先輩がそこに閉じ込められているのかもしれないと思った。そんなはずはないと分かっていながらも、原因を確かめたいという気持ちがあった。
個室のある通路に踏み入り、ゆっくりと通路を歩いて行った。一つ一つの個室に何かがいそうで、なるべく前だけをみるようにして歩いて行った。陽射しの入る明るい場所なのに、どうしてこんなに自分が震えているのかがさゆりには分からなかった。
音のする個室はカーテンで閉められていて、中の様子はさっぱり分からなかった。
その個室の前にさゆりは着いた。
シャワーの音が急に止まった。静かになった。
急にカーテンの裾が揺れて下から人の手がぬっと出てきた。その手は素早くさゆりの足元まで伸び、さゆりの足首をがっしりと掴んだ。
さゆりは悲鳴をあげた。血管が浮き出ている青白い腕が見えた。同時に掴まれていない左足でその手をふんづけようとした。
だが、その手は右足を強く引っ張り、さゆりを個室の中に引きずり込もうとした。さゆりはそれに逆らおうとして左足で強く踏ん張った。
右足は強く握り締められ、指がアキレス腱にぎりぎりとくい込んでいく。爪を立てられその痛みに悲鳴をあげながら、さゆりは左足の指に力を込めて踏ん張ろうとした。
左手を伸ばし、窓枠のアルミ製のサッシの部分を掴んだ。角になっている部分が左手にくいこんだ。それでも離さないように力を入れた。
足首を掴んだ手の引っ張る力はさらに強くなっていき、さゆりの右足が床を滑りながらカーテンの向こう側に引きずり込まれて行く。抵抗しようと右足に力を入れるのだが、右足は水に濡れた床のせいで思うように踏ん張れず、やがて右足のつま先部分がカーテンの向こう側に連れ込まれた。
「誰か、だれかあ」 さゆりはそう呟きながら必死に左足と左手に力を込めて、体が引きずり込まれないようにしようとした。
シャワー室の入口でドアが開いた音が鳴った。振り向くとそこには誰かがいた。
すると足首を掴んでいた手が急に離して、反動を受けたさゆりはそのまま後ろに倒れて尻をついた。
「さゆり、どうしたの!?」
佑香の声が聞こえた。
佑香はさゆりのただならぬ様子を感じ取ったのか、すぐに洗面所を通ってさゆりの元に駆け寄ってきた。さゆりはその間、じっとカーテンを見つめていた。
「どうしたの、さゆり?」
まだ息が上がっているさゆりは、何とかいま起きたことを伝えようと口を開いた。
「いま、その、カーテンの後ろに、誰かいる」
「は? どうしたの急に」
「いるんだって! あたし、いま足首掴まれたの!」
さゆりはそう言って佑香を見ると、佑香の顔が引きつっていた。自分が知らないうちに叫んで佑香を驚かせたことに気が付き、「ごめん」と謝った。
「でも、本当なの。信じてよ」
「分かった。信じるよ」
佑香はそう言ってさゆりのことを少し眺めて言った。
「どっちの足首を掴まれたの?」
「右。こっちの足首」
そう言ってさゆりは自分の右足首を指差した。
え? 痕が何も残っていない。
あんなに強く掴まれたのに足首にはその痕が全く見えなかった。健康的なさゆりの足首がそこにはあった。
「待って。あたし、あんなに強く掴まれたのに」
「さゆり、落ち着いてよ」
冷静な態度をとる佑香はカーテンに手を掛けた。
「カーテンを開けよう。そうすれば全てが分かるはずよ」
「待って。その後ろには」
「大丈夫よ。だって、そんなお化けみたいなのが」
そう言いながら佑香はカーテンを勢いよく開いた。
さゆりの目の前には、誰もいないがらんとした個室が広がっていた。
「ほら、いない」
「そんな」
さゆりには信じられなかった。じゃあ、あたしがさっき体験したあれは何だったというの? 幻にしてはおかしすぎる。
嫌みな笑顔を浮かべた佑香がさゆりに声を掛けた。
「ドッキリにしちゃあ、ちょっとねえ? さゆりさーん」
「違うって! 本当に……」
弁解しようと何かを口にしようとしたとき、うす暗い排水溝の下でキラッと光る物が見えた。
それは真ん中にぽっかりと黒い穴が開いたように見える白い物だった。
それは眼球だった。さゆりは排水溝の下にある眼球を見て、言葉を失った。
その眼球が黒眼をぐるぐると動かしながら、その度に白いところがキラッ、と光ったりして、そして急に黒目の動きが止まると、さゆりの方をじっと見てきた。
さゆりはそれから目を離すことが出来ずにただ見ていた。
その眼球の下の部分が少し歪んだ。肌色が見えたような気がした。眼球が笑ったような気がした。それは人間の目にそっくりだった。
「どうしたの、さゆり」
佑香の声が聞こえた瞬間、その眼球は排水溝の下に落ちるように消えた。
「大丈夫」 佑香の方に振り向いて言った。
「いや、おかしいって。どうしてそんなに青ざめているのよ」
「いや、ちょっと疲れているのかな、あたし」
「何言ってんの。あんたいま」
排水溝が気になり、ちょっとだけさゆりは目を向けた。
また白い物が見えた。それとその上に赤く細長い物。
口だった。白いのは歯だ。その口は笑っていた。そしてパクパクと動かして、また笑った。
「助けてくれ」 そこから祐樹先輩の声が聞こえた気がした。
さゆりは息が止まりそうになり、そして眩暈がしたかと思うと、そのまま意識がすうっと遠のいていった。
~3~
お気を取り戻しましたさゆり嬢がその二重で大きく可愛らしい黒眼で見えたもの、それは汚れなき白い壁と二本一組の蛍光灯が二組ほど、明哲博識なさゆり嬢はそれが天井だとすぐに気が付きますと、すぐに此処は何処だろうということを感じられました。
さゆり嬢はご自身の頭が白く柔らかい枕の上に乗っかっていることに気が付き、その頭をゆっくりと右、左と横に動かし、周りの状況を判断しようとしたのでございます。ですが、左右に頭を振りましても、見えた物は薄桃色のカーテンだけで、そのカーテンは生地が分厚いようで、その先に何があるのか、さゆり嬢には皆目見当をつけることが出来ませんでした。
さゆり嬢はご自身が何処かのベッドの上で眠られていたことに気が付きますと、勢いよくご自身の身体を前に起こしました。白く薄い綿毛布がまださゆり嬢の腰から下にかかっております。前を見られますと、先がぼんやりと透けて見える薄いカーテンがありまして、その先に誰かが椅子に座っておりました。
見覚えのある姿でした。そのカーテン越しに見えたお方は、さゆり嬢がベッドから起きあがったことに気が付かれたのでしょうか、さゆり嬢が眠られていたベッドの方へ近づいてきます。
「気がついた?」という女性の声が聞こえました。若やかで上品であり、聞いた者を惚れ惚れさせるようなその美しい声を耳にしたさゆり嬢は、その声の持ち主が保健室の美坂先生だとすぐに気付き、「はい」とだけお返事を致しました。
「ベッドから出れる?」 美坂先生はその薄いカーテンを少しだけ捲って顔を覗かせました。さゆり嬢はその端麗で優艶な先生のお顔を見て「大丈夫です」とだけ返事をして、そしてベッドから出ました。ベッドの下に置かれていたご自身の上履きを履いてカーテンを抜けると、そこには背が高くすらっとした身体で白衣姿がよく似合う美坂先生とその隣で机に向かって何やら書いている一人の女学生の後ろ姿が見えました。
さゆり嬢は美坂先生に小さく頭を下げてお辞儀をしますと、どうして私が此処で寝ていたのかということを尋ねました。それを聞いた美坂先生は少し口を曲げて困ったような顔をしました。
返事に困る美坂先生の代わりに女学生が手を止めてさゆり嬢の方を向きました。
「更衣室でぶっ倒れたんだよ、あんた。何があったのか知らないけど」
女学生は鼻を鳴らすように言いましたが、さゆり嬢はその言い方を特に気になさいませんでした。その女学生の顔は面長で目は狐のように細く少し団子鼻で、体型もやせ型で胸も無く肌は青白く見るからに不健康そうで、お世辞にも可愛いとは言えない容姿を持つ女学生でしたが、淡泊な性格を持つさゆり嬢は『あら、可哀想。見事に美坂先生の引き立て役になられちゃって』などとは思わずに、すぐに別の事を思い出したのです。
それはさゆり嬢自身が気を失った原因に関する事でした。
さゆり嬢は気を失う瞬間に見てしまった物をありありと思い出してしまったのです。
それは、シャワー室の個室の排水溝から見えたもの、最初に人間の目らしき物が排水溝から眼球を動かしながら現れ、さゆり嬢と目が合いますとそれはニタァと目尻を歪ませ、排水溝から姿を消したかと思えば、その後すぐに今度は引きつらせた人間の口が現れるという、世にも奇妙でおぞましい光景でした。それを見てしまったさゆり嬢はあまりの恐怖に顔を蒼白させて、そのまま気を失ってしまったのです。
気を失う瞬間、あの奇妙な物体はさゆり嬢に何かを言いたそうに口をパクパクさせていたことも思い出しました。口パクであるにも関わらずさゆり嬢はその言葉を受け取ったようにも感じていましたが、今となっては思いだすことができません。
ただ、見てはいけない物を見てしまったということだけは身体が分かっているようでした。さゆり嬢はその時のことを思い出していると、自然と背筋が寒くなり足が震えていました。願わくば、あれが幻であってほしいと心のどこかで思っていました。
「本当に大丈夫? もう少し寝ててもいいのよ」
美坂先生が心配そうな顔でさゆり嬢に言いました。
「大丈夫です。その、変な夢を見ちゃって」
さゆり嬢がクーラーの効いた涼しい部屋で背中に汗をじんわり掻きながら言うと、女学生が一笑して言いました。
「夢? また夢だってさ、先生。熱中症でみんな頭がおかしくなったんじゃないの?」
小馬鹿にした言い方をする女学生に対して美坂先生は優しくお叱りになられると、今度は怪訝そうな面持ちでさゆり嬢に訊いてきました。
「どんな夢だったの?」
さゆり嬢は更衣室の奥にあるシャワー室の排水溝で見た物体について包み隠さずに全て言いました。ただ、その時にその物体がさゆり嬢に何かを言った内容までは思いだせずにいたので、それだけは口に出さずにおきました。
それを聞いた美坂先生は口元に軽く右手の親指と人差し指の付け根らへんを当てて、何か深く考え込んでいられるような仕草を取られました。一方、女学生の方はというと、初めは呆気に取られたかのような顔でいましたが、すぐにさゆり嬢のことを指差して大笑いをしました。さすがのこの仕草にさゆり嬢は腹を立てたのではございますが、さゆり嬢が口を開こうとした時、ちょうど美坂先生がその女学生に対して言葉を尖らせてお叱りになられたので、さゆり嬢は口を閉じたまま我慢をすることにしました。
「そうだったの。でも不思議ね、三人も同じ夢を見るだなんて」
美坂先生のその言葉にさゆり嬢は言葉を失いました。先ほどの女学生への怒りもすぐに心から消え、その代わり気味の悪い恐怖が心を満たし始めました。
さゆり嬢は先ほどまで掻いていた汗が一気に引いていくのが分かりました。さゆり嬢は一体、私はどうなってしまったのだろうと考え、表情を失っていきました。
そのさゆり嬢のご様子に気が付かれた美坂先生は「大丈夫よ」と言って微笑み、さらに「こんな暑い日には、そういうことも起きちゃうのよ」と怖気付いているさゆり嬢の心を落ち着かせようとしました。
しかし、先生の言葉にさゆり嬢は半信半疑でございました。なぜなら、あれは夢ではなく、本当に見てしまった物だからです。シャワー室の排水溝で見たあの目と口が見間違いだったら、あれは何だったのでしょう?
「熱中症の初期症状で、幻覚が見える、ということはありますか?」
さゆり嬢は美坂先生の顔を見て言いました。
その質問に美坂先生が言葉を選ぶようにゆっくりと返事を始めました。
「初期症状だと、人に寄るのよねえ。その、例えば思いこみが激しい人とかだったら幻覚を見ちゃうかもしれないし、ぶっ倒れるまで見ない人だっているから。
ただ、集団心理による思いこみとかが誘発要因になるっていうケースもあるから、一概には何とも言えないのよねえ。最近、この学校で怖い話とかが流行っているとか、そう言う話も聞いたことないしねえ。
もしあなたが聞けるのなら、失神するまで近くにいた友達とかに訊くのもいいかと思うわ。友達が見ていたなら、それはやっぱりいたのだろうし、誰も見ていないっていうのなら、単なる見間違いや幻覚だと思っていいんじゃないかしら?」
「友達、そっか、友達に聞けばいいんだ」
先ほどまで青ざめていたさゆり嬢の顔色は少しずつ赤みを取り戻していき、さゆり嬢自身も不安や恐怖が打ち払えたような気がしました。次に何をすれば良いのか、それが分かったさゆり嬢は美坂先生にお礼を言って保健室から出て行こうと出口に向かいました。
しかし、さゆり嬢はまだ少し怖いという思いもありました。保健室から外に出れば、陽射しがあまり入らない廊下を歩くことになり、その廊下の途中に手洗い場があるのです。手洗い場には、当然ながら排水溝がございます。もちろんさゆり嬢はその手洗い場から出来るだけ離れて通るつもりでしたが、もしそこでまた見てしまったら、と思うと何か嫌な予感がしてしまい、出口のドアの手前で足を止めてしまいました。
「大丈夫よ、何なら私が体育館までついて行く?」
美坂先生の優しい声が背後から聞こえ、さゆり嬢は振り返って首を振りました。
「大丈夫ですって」 さゆり嬢は少し意地を張りました。小学生じゃあるまいし、という思いが心のどこかにありました。
その言葉を聞いて美坂先生は小さく笑みをこぼすと、
「運んできてくれた彼にもちゃんとお礼を言っておくのよ。彼、顔色変えてここまであなたを運んできてくれたのだから」
と言って、さゆり嬢に手の平を見せて小さく振りました。
「ありがとうございました」と言ってさゆり嬢は保健室から出て行きました。
保健室から出て、さゆり嬢はふと思いました。あたしをここまで運んできてくれたのはどこのだれだろう、と。てっきり佑香が連れて来てくれたのだと思いこんでいたさゆり嬢は、そのことも気になっていましたが、それよりも早く体育館に行って佑香に変な物を見たかを聞くのが先だと思いました。また恐怖の芽が心から伸び生えてくる前に、その芽をさっさと踏み消しておきたいとさゆり嬢は感じておりました。
廊下には誰もおらず、陽射しも窓からあまり入らず少し暗い雰囲気で、いつものさゆり嬢にはなんということのない廊下なのですが、今日に限っては少し不気味な感じに思えるとこもあり、さゆり嬢はいつもより早く廊下を歩いていました。
するとすぐに排水溝のある手洗い場が見えてきました。見えた瞬間、さゆり嬢は誰かに押されたかのように一気に走り始めました。
手洗い場を通り過ぎるとすぐ左手に中央階段のある踊り場があり、その先にさゆり嬢の下駄箱がある中央玄関があります。そこを通り過ぎればあとは陽射しのあたる中庭に出て、体育館もすぐそこに見えます。
さゆり嬢は一気に手洗い場を通り過ぎました。排水溝を見ないようにと、ほぼ目を瞑って駆け抜けました。駆け抜けて、何故かやったと思い、通り過ぎた手洗い場を何となく見ようとして振り返りそうになった自身をぐっと抑えて、そしてその勢いで下駄箱まで行こうとしました。
すると、中央玄関から急に人が現れ、その人がたまたま下駄箱の影になってさゆり嬢の見えないところから現れたものですから、さゆり嬢は驚いて急に足を止めようとしたのですが間に合わず、さゆり嬢とその現れた人は出会いがしらにぶつかる形となってしまい、さゆり嬢の方が身長も小さかったために、後ろに弾き返されるように転んで尻をついてしまいました。
「いったあ…」という小さな声をあげながらさゆり嬢は中央玄関と廊下のちょうど境目となる段差近くで倒れていました。
「いってえ、何だよ、全く」
さゆり嬢の耳にそんな声が聞こえました。ああ、そうだ、私がぶつかったんだ、謝らなきゃ。そう思うとさゆり嬢は早く立ち上がって謝らなきゃと思い、右手を付きました、
「いたっ」 さゆり嬢の手首より少し上らへんに鈍い痛みが走り、手を引っ込めました。
立ち上がるのをひとまず諦め、さゆり嬢はぶつかった相手に謝ろうと相手の方を見ました。ぶつかった相手はどうやら男で、腰を少し曲げて手でおさえていました。どうやらさゆり嬢の突然のタックルに後ろに付き飛ばされ、下駄箱に背中を強く打ったらしいです。
「ごめんなさい」 さゆり嬢は素直に謝りました。
「あれ。中野じゃん」 さゆり嬢のことを驚きながら見てきました。
「あ、三田くん」
さゆり嬢がぶつかった相手、それは一年生の時のクラスメイトでした三田誠一でした。
「てかもう元気になったのかよ、いてててて」
そう言いながら誠一君は背中を少しずつ伸ばしていきます。
野球部に所属する誠也君は上下黒いジャージ姿で、髪は短髪で肌は少し日に焼けており、きちんと眉毛を揃えていて目元が明るく、鼻もすっと高く通っていて、誰からも好かれるようなオーラを持つ方でした。
さゆり嬢が始めてこの方と話されたのは入学してから間もなくのことでした。誠一君の方から話しかけたのですが、男の前だとどうしても緊張して肩を張ってしまうさゆり嬢の悪い癖が出てしまい、ほとんど会話が続いたことはありませんでした。さゆり嬢の回りに親しい友人が出来、同時に誠一君の周りにも親しい友人が出来てくると、お互いは同じクラスにいるにも関わらず、また同じ班にもなったことがなかったので、一切会話をすることが無くなってしまい、そのままお互い進級することになってしまったのです。
ですから、さゆり嬢が誠也君と話すのはほぼ一年ぶりだったということになります。一年ぶりの再会とでも言うのでしょうか、さゆり嬢はそんなさゆり嬢にはほぼ似合わぬロマンチックなことをもちろん露にも思わず、ただこの場からさっさと逃げ出したい気持ちでありました。どうしても男が苦手なのです。男を目の前にすると、何故か心臓が不必要に動くのです。特に、この方と始めて話したとき、その動きが顕著に表れたことをさゆり嬢は覚えていました。そして、それを隠そうと必死に会話したことも覚えています。
どうしよう、と思い焦っていたとき、誠一君が黙っているさゆり嬢を見て言いました。
「なんか変なとこぶつけたか?」
「いや、大丈夫」 咄嗟に答え、立ち上がろうとしましたが、右手に力が入りません。その様子に気がついた誠一君が心配そうに言います。
「どっか痛めたのか?」
「いや、大丈夫だよ」 痛めていない左手で体を支えなんとか立ち上がったものの、左足のアキレス腱らしきところにまた痛みが走り、さゆり嬢は言葉にならない小さな悲鳴をあげました。
「いや、怪我してるだろ。保健室行くぞ」
「いや、大丈夫だって」
「大丈夫に見えないから言ってんだよ。さっきみたいに倒れられたら困るんだよ」
「さっき?」
さゆり嬢の声を無視するかのように誠一君はさゆりの近くにより「どっちの足が痛いの?」と聞きました。さゆり嬢が「左」とだけ言うと、誠一君はさゆり嬢の左側に回り込みました。
「肩かしてやるよ。さっさと保健室行くぞ」
「うん」とだけさゆり嬢は言い、素直に左腕を誠一君の肩にかけました。
「ほら、もっと寄り掛かっていいから」
「うん、その、ありがとう」
「おう」とだけ誠一君は返事をして、それから二人は黙ったまま廊下を歩いていきました。さゆり嬢は自分の顔がものすごく熱くなるのを感じ、額や頬に汗が噴き出ているのではないかと心配しては、恥ずかしく感じながらその顔を誠一君に見られないように必死に地面に視線を落として顔を誰とも顔を合わせないように歩いていきました。
一方、誠一君も同じように顔を真っ赤にして歩いて、ただ彼は少し上の方を眺めて歩いていました。
「なあ、お前さあ」
誠一君がさゆり嬢のことをちらりと見ながら言いました。
「彼氏とか、いんの?」
「は?いないよ、そんなの」
「その、好きな奴とかは?」
「なんで、別にいいでしょ」
さゆり嬢は急に胸を締め付けられるような想いになり、心臓の鼓動が大きく聞こえてきました。どうしてこんな思いになるのか、今日は変な日だ、そう思いました。
そして二人はそれから間もなくして保健室の前に着きました。
さゆり嬢の心の中には、もう排水溝の奇妙な物のことなどすっかり忘れていました。考えていることは、隣にいる誠一君のことだけで、どうして誠一君のことしか考えられないのかが不思議でたまりませんでした。
保健室に入ると、美坂先生が驚いたような様子を一瞬だけ見せ、そして笑顔を浮かべながら二人を歓迎し、さゆり嬢と誠一君を別々の丸椅子に座らせました。
その隣で机に向かっていた女学生は恨めしそうにぶつぶつと言いながら何かを書いていました。
~4~
中野さゆりの怪我は軽かった。美坂先生の診断の結果、右手の手首より上部に軽い打撲、それに左足首に軽い打撲と捻挫、どちらも全治一週間もかからないぐらいの怪我だった。
さゆりは胸を撫で下ろした。だって、そうだろう。さゆりは女子バスケ部のエース的存在だ。公式試合は再来週だ。彼女が出られないだけでチームは大損害だ、それはそれは東京タワーが崩落するぐらいの大損害だ。
さゆりの隣に座ってその話を聞いていた三田誠一も安堵の顔を浮かべている。どうやら彼は好きな女をよほど怪我させたくなかったらしい。イケメン、高身長、さらに優しい。スーパーマンとはこういう奴のことを言うのではないだろうか。けれど学校には必ずこう言う奴は一人いるのだ。
三十路をとっくに過ぎたというのに外見二十歳のように見える保健室の先生、美坂先生はうふふと密やかに笑いながらさゆりの怪我を治療した。美坂先生がさゆりの足首に包帯を巻く時、その無駄のない動作にさゆりは感心した。さゆりの包帯の巻き方は言葉通りのぐるぐる巻きだ。いつかこんなふうに巻けるようになりたいと、さゆりは美坂先生の動作を逐一観察した。
「はい、終わり」
美坂先生がそう言って治療を終えた。診察から治療を終えるまで十分もかかっていない。
「ありがとうございました」
さゆりは頭を深深と下げた。尊敬の意味も込めてだった。
「で、今度は二人の間に何があったのかな?」
美坂先生がにやにやしながらさゆりと誠一に聞いた。
「特に何もないですよ、そこでぶつかっちゃって」
さゆりがさらっと言った。隣に座っている誠一がショックを受けたことをさゆりは知る由も無い。
二人の反応を見て、美坂先生が声をあげて大笑いした。
「いいわねえ、楽しそうで。さゆりさんはもう終わったから行っていいわよ。ただ、バスケは駄目よ。今日は見学ね」
「はあい」とさゆりが不満そうに返事をした。
「次は三田君ね。何処かぶつけたんじゃないの?」
「え、俺は大丈夫ですよ」
「隠さなくてもいいじゃない。ぶつかったんでしょ。あなたもどこか怪我しているんじゃないの?」
「いや、たいしたことないですって」
「さゆりさん、本当?」
「え、いや、確か背中をぶつけたみたいですけど」
さゆりの言葉を聞いて美坂先生は誠一の方を向いた。
「青くなっているかもしれないから、見てあげる。ほら、後ろ向いて」
誠一は椅子を回転させて美坂先生に背中を向けた。
「さゆりさんも見たいの? 彼の背中?」
イジワルっぽく言った美坂先生に対し、さゆりは少し顔を赤らめて「そんなことないですよ」と語尾を強めて言い返した。
「あたし、もう行きます。ありがとうございました」
そう言ってさゆりは保健室からさっさと出て行った。
女学生がドアから出て行くさゆりに向かって「お大事に」と軽く言った。
ドアが閉まり、保健室には美坂先生と三田誠一、それに女学生しかいなくなった。
「さてと、どうなってるか。あーあ、やっぱり青くなってるじゃない」
上半身裸になった誠一の背中を見て美坂先生は言った。
「全治三カ月、ってとこかしらねえ」
「ちょっと、冗談言わないでくださいよ、先生」
誠一が少し笑いながら言った。
「あら、冗談じゃないわよ」
美坂先生が笑みをこぼしながら言った。
保健室から出たさゆりはさっさと体育館に向かおうとした。
歩き始めて、何か周囲の様子が変なことに気がついた。
周りが死んだように静かだった。この世の全ての物が消えてしまったような、そんな気にさせる静けさだった。
自然と歩調が速まって行く。いつもは校庭から野球部の掛け声が聞こえてくるはずなのに、今日は休みなのだろうか。
いや、そんなはずはない。現に誠一君はユニフォーム姿だったじゃないか。
手洗い場が前に見え、さゆりの足が止まった。
早く通りすぎたいと思ったのだが、思うように体が動かない。行くな、と誰かが言っているような気がした。
ごぼごぼごぼごぼ、という音が聞こえてきた。手洗い場の排水溝に何かが詰まりながら水が流れていくような音だった。
さゆりはすぐに引き返そうとした。体育館に行く道は他にもある。
ごぼっ! という音が聞こえ、さゆりは体を硬直させながら少し身を引いた。
排水溝から何かが這いずりでてきたように見えた。スライムのような白濁色の物が排水溝から出てくると、急に蛇口がひねられて、水が勢いよく出てきた。
その水を浴びたスライムのような物が、少しずつ大きくなっていくのが見えた。
さゆりは急いで逃げようとした。後ずさりしながらそれに注視しながら、そしてなるべくそれに気付かれないようにしようと心がけながら。
ずううう、という音がまた聞こえたかと思うと、また排水溝から何かが出てきた。
水を浴びたそれは勢いよく膨らんでいって、ちょうど人間の手の平サイズにまで膨らんだ。そして、宙に浮くと、さゆりの方を見てきた。
それは人間の目だった。眼球、まぶた、まつげ、人間の顔の片目の部分だけを切り取ったような物だった。
さゆりは悲鳴をあげてそれから逃げようと走りだした。
けれど足が動かない。足元を見ると、肘から先がない人間の手がさゆりの右足をがっしりと掴んでいた。
左足でそれを蹴りとばそうとしたが、転んだ時に怪我をしたせいか、力を入れると鋭い痛みを感じてしまい、思うように力が入らない。
そうしているうちに、背後から何かが這って近付いてくる音が聞こえた。
上半身だけで振り返ると、手洗い場から水を吸って膨らんだあのスライムが徐々にこっちに近付いてきていた。
絶叫しながらさゆりは誰かに助けを求めた。同時に、なんとかそれから逃げようとして前に進もうとした。
頭上を何かが通りすぎて、前を向くと、目元を歪ませて笑っている目と、口元を引きつらせて笑っている口が宙に浮いてこっちを見ていた。
やがて口だけがこっちに近付いてきた。大きく開けて。
もう駄目だ、とさゆりは思った。恐怖で知らないうちに涙が溢れていた。
その時、目の前で小さな爆発が起きた!
「今度は何よ!」
さゆりは爆発の起きた方に向かって思わず叫んだ。
白い煙が目の前の廊下に充満し始めた。
「この化け物め、かくご―!!」
どこかで聞いたような女性の声が聞こえた。煙に紛れて目の前で何が起こっているのか、さゆりには良く分からなかったが、とりあえず誰かが目の前にいるらしい。先ほどまでの静けさがウソのように、今は耳を塞ぎたくなるほど騒がしい。
「ぎー! ぎー!」
エイリアンのような声が聞こえたかと思うと、さゆりを掴んでいた手が突然離した。それが宙に浮いたと思うと、その手は強く拳を握って煙の中へマシンガーZさながらのロケットパンチを放って行った。
鈍い衝撃音が聞こえ、「うぐっ」という声が聞こえた
(今のうちに逃げれる?)
そう思いさゆりは振り返ると、後ろからスライムが迫って来ていたことを思い出し、思わず顔が引きつった。もう少しでさゆりの足元にまで到達しそうだった。
「いや、こっちに来ないで」
そう呟くと、戦闘が行われている背後の方で声がした。
「さゆりさーん! そっちにも何かいるの!?」
(この声、まさか、あのあかり!?)
「あかりなの!?」
「そうだけど、話は後で! とりあえず何かいるの!?」
「いる! 白いスライムみたいな物!」
「スライム!? それに触っちゃだめだよ! あ! 服噛まないでよ! こんにゃろ!」
「ぎー!!」
「どうすればいいの!?」
「待って! いまそっちに行、がっ! か、顔殴った、許せない!」
煙の中で何か長々と呪文のような声が聞こえ始めた。
やがてその呪文を終わると、黄色い光が白い煙の中から放たれていく。
(……、ものすごく嫌な予感しかしないんだけど……)
「さゆりちゃーん! 今すぐ逃げてー!」
「えっ!? 何処に!」
「とりあえず、どっかへ避難して!」
前方は戦闘中に怪しげな黄色い光、後方は触れてはいけないスライム。
(えっ!? 何処に逃げろと!?)
きゅいいいいん、というアニメで爆発する前に聞くような音が聞こえ始めた。
(いやいやいやいや、何かマズイって!)
さゆりは壁際に急いで逃げて、しゃがんで身を丸めた。
「くらえー! 超強力波動疾風爆発衝撃波動爆裂豪衝波―!」
きいいいいん、ドカーン!!
「ぎぃぃぃぃぃ!」
そんな断末魔に似たような音が廊下に響いたかと思うと、すさまじい熱風がさゆりの背中を通りぬけていき、じゅわあああという何かが燃焼する音も聞こえた。
焼け焦げた後のくすぶっている音が聞こえる。
「あ、やりすぎちゃった」
さゆりは今の声がした方をおそるおそる見た。先ほどの煙はほとんど散っており、そこには真っ黒なセーラー服を着たあかりの姿があった。
さゆりは立ち上がり、あかりの顔を見た。頬やおでこに煤がついていた。スライムがいた方を見ると、そこも真っ黒な燃えカスが広がっていた。どうやら燃焼したらしい。
「えっと、どうなってんの? これは特撮とか?」
さゆりはとりあえず聞いた。もうわけが分からないというのが正直な感想だった。
「いや、その、えっとですね、その、なんというか」
説明するのが難しいのか、それとも面倒臭いのか、多分両方なのだろう。あかりはしどろもどろになりながらも答えようと口を開いた。
「その、魔法少女、とか信じる?」
「は?」
さゆりが素直な感想を口に出したとき、廊下の窓側の下から何かが浮かび上がった。
「ぎー!」
少し黒く焦げたさっきの目と口、それに手だった。
「ぎぃー!」
その目からは水滴のような物がポタポタと落ちていた。
「ぎー!」
その叫び声と共に、その宙に浮いた三体は、いっきに廊下の向こう側に飛んで行った。
「あ、逃がすか!」
あかりがそう言ってそれを全力で追いかけて行った。
さゆりは追いかけるかどうしようか一瞬迷った。関わらない方が賢明だ。
もぞもぞと動くような音がした。振り向くと真っ黒な消しカスがうごめいていた。
「ちょっと!」
さゆりはそれから逃げるためにもあかりの後を追った。
あかりにはすぐに追いついた。というより追いぬけそうだ。鈍足で運動音痴なのは魔法少女になっても変わらないらしい。
息を切らしながらあかりが言う。
「足、早いね、はあはあ」
「いや、飛べば? 魔法少女なら」 ジョギングしながらさゆりは言った。
「いや、その、さっきの魔法で、使いすぎて、その、エコ活動」
「大変だね、てか、やっぱ飛べるんだ」
「さゆりさんこそ、その、ごめんね。勝手に、巻き込んじゃって」
下を向くと水滴が廊下にポタポタと落ちていた。化け物が流していた物だろう。
その水滴は保健室の方に続いていた。保健室の入口前に水滴がいくつか落ちているのがさゆりには見えた。
あかりは保健室を彼女なりの全速力で過ぎて行き、そのまま階段のある方に走って行こうとした。
「ちょっと!」 追いかけたさゆりがあかりの腕を掴んだ。
「何!? 早く追わないと!」 驚いた顔であかりが言った。
「たぶん、保健室にいると思うよ。たぶんだけど」
「なんで?」
「水滴。ヘンゼルとグレーテルって言って分かる?」
あかりが保健室の入口を見た。頭に豆電球が点灯したような顔をした。
「頭いいね。さゆりさん」
そう言うとあかりは保健室の前に急いで駆け寄り、ドアの取手を引いた。
「開かない! 鍵を掛けたのね!」
「いや、それね」
焦るあかりのところへさゆりはゆっくりと近付いて行った。
取手を乱暴にガチャガチャと上下させるあかりを退かし、さゆりは取手を掴んだ。
「上手く噛みあわなくてね。こうやって、一回押して、それで少し取手ごとドアを持ち上げて、そんで、取手を上げたまま一気に引く」
保健室のドアが少しだけ開いた。
「はい。あとはこのまま引けばいいんだけど」
「すごーい」
あかりは感心しきっている表情だった。
(なんのコントだろうか)
さゆりは呆れるようにそう思った。
もう、わけがわからない。たぶん、夢だよね、きっと。
保健室のドアが開かれ、あかりは勢いよく飛びこんで行った。
あかりはその後ろについて「失礼します」と頭を軽く下げて入室した。本当は逃げるべきなのだろうが、もうどうなってもいいやという思いがあった。ついでにここまで巻き込まれたなら最後まで見てみたいという好奇心も少しあった。
ドアが閉まると同時にあかりが保健室の中で叫んだ。
「出てこい! 化け物!」
目の前には誰もいない。いつもの保健室が広がっていた。返事はない。
何の武器も持たないあかりが、そんで運動音痴なこの子がどうやって戦うのだろうとさゆりは思った。
(たぶん、負けちゃうんだろうなあ、あかり)
さゆりは思ったことを口には出していけないと思い、入口付近からあかりのことを見ていた。あかりは保健室の真ん中らへんで顔をあっちこっちに向けながら敵を探しているように見えた。
「どなたかいるの?」
保健室の右奥、仕切りと金属製の棚で区切られ、入口をカーテンで閉められた薬品置き場の方から声が聞こえた。
美坂先生の声だとさゆりはすぐに分かった。
あかりは身構えていた。ブルースリー、もしくは北斗の拳のケンシロウの真似だろうか。右足の踵がこれでもかと浮いている。あれじゃあ逆に戦い辛いのでは?
カーテンが揺れたかと思うと、中から美坂先生が出てきた。
「あら、いらっしゃい。さゆりさんとは今日はよく会うわねえ」
微笑んで美坂先生が言う。さゆりは何も言わずに軽く頭を下げた。
「で、そちらにいるのが」
「化け物を何処に隠したの!?」
足を少し震わせながらあかりが言った。そんなに辛いのならさっさと踵を付ければいいのに。そんなツッコミもさゆりは入れないで黙っていた。
「化け物? あー、めでくち君のことね」
「めでくち君?」 さゆりが言った。
「そう、めでくち君。こっちいらっしゃい」
カーテンの方を向いて美坂先生が手招きをすると、カーテンの上を飛び越えてさっきの化け物が出てきた。
さゆりは一瞬、「うわっ」と言って身を引いた。
美坂先生のもとに飛んで来ためでくち君という物体は、真っ赤に目を充血させながら美坂先生の頭上をくるくると回った。
「これが、めでくち君。目と、口と、手が一本だからめでくち君。ちなみに生誕六か月。私の助手をして貰っているの」
「助手?」 さゆりが首を捻って言った。
「そう、助手。とは言っても、保健室での仕事ではないけどね。主に人攫いを頼んでいるの」
「人攫い……」
「そう言えば納得してくれるかしら、あかりさんも」
美坂先生があかりの方を向いて微笑んだ。
「それで……、納得しました」
(あ、納得しちゃうんだ)
「え、それで納得しちゃうの?」
美坂先生もさゆりと同じことを思ったらしい。
あかりが真面目な顔をして言う。
「そうやって、この世界も滅ぼすつもりなんですね」
「うーん、あなたの世界と違って、ここは滅ぶことはないと思うけど」
「そんなこと言って! また私たちの世界と同じ世界を作るつもりなんでしょ!」
困ったような顔をして美坂先生は口を閉じた。
沈黙が流れた。あまりいい雰囲気ではない。
さゆりが口を開いた。
「あのー、すみません。私、ここから出て行った方がいいですかね……。その、話についていけないっていうか、そのぶっ飛んでいる、ていうか」
美坂先生がさゆりに言った。
「あら、いた方がいいわよ。だって、私、あなたのこと攫おうとしていたのだし」
笑顔で悪びれた感じも見せずに言った美坂先生に対し、あかりは言葉を失った。
「あかりさん、こいつは悪い奴なの!」
「だから、悪いって決め付けられる話でもないかと思うのだけど」
「人の魂を奪っておいて何を言うの!」
「そんな言い方したら勘違いされるじゃない。貰っているのは寿命よ、それもほんのね」
言い合う二人は睨みあっている。展開について行けないさゆりは、ただ茫然としてそこに立っていた。
―BGMが流れて、画面フェードアウト。CM挟んだのち、エンディングへ~♪―
次回予告!
更衣室でさゆりを襲った化け物、それは美坂先生が創り出したものだった!
魔法少女に変身したあかり、人攫いをする美坂先生。その二人はこの世界からではなく、別の世界から来た人たちだった。
来週、二人の真の目的が明らかになる!
そして、気になるさゆりと誠一君の恋の行方は!
次回、誠一君、死す! なんとか、スタンバイ!
とぅー、びぃー こんてぃにゅうー……
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