プレステでファミコンのときにサードパーティが任天堂から離れた理由
さて、セガが流通や小売で任天堂やソニーに比べて不利だった理由については、以前書いた。
なので今回セガは蚊帳の外だ。
いやサターンは頑張ったほうだったけどね。
それはさておき、任天堂のスーパーファミコンからプレイステーションにサードパーティが流れた理由は、もう少し別のところにもある。
当時、PCエンジンやメガドライブもそれなりに頑張ってはいたが、ゲーム市場を支配していたのは、ファミリーコンピュータとスーパーファミコンだった。
そして、そのゲームソフトに使われていたのがROMカートリッジである。
もちろん、カートリッジにはカートリッジなりの利点があった。
読み込みは速いし、CDのように傷がつく心配も少ない。
まあ、接触が悪くなってソフトのピンをふーふー吹いたりするようなことはよくあったが。
しかし、メーカー側から見ると、かなり厄介なところもあった。
まず、コストが高い。
当時のスーパーファミコンの新作ソフトは、1万円前後するものも珍しくなかった。1990年代半ばになると12,800円前後のタイトルもあり、高いものでは14,800円という価格のソフトまで存在していた。
なぜ、そこまで高かったのか。
大きな理由の一つが、カートリッジに使われるROMだった。
メモリは高い、これはいまでもそうだが昔はもっとそうだった。
ちなみに当時の家庭用ネオジオ(NEOGEO / AES)のロムカセットは、1本あたり20,000円から35,000円前後という非常に高額な価格で販売されていた。
これでは子どもは簡単には買えない。
その反省でかニンテンドー64のソフトの発売当時の希望小売価格は、おおむね4,800円〜9,800円(税別)の範囲が多く、平均して約5,800円〜7,800円(税別)程度まで下げられていた。
そして問題は、ソフトが高いということだけではなかった。
カートリッジは、CDのように必要になったからといって簡単に追加で作れるものではない。
ROMカートリッジの製造には2~3ヶ月程度かかり、初回発注についても発売の3~6ヶ月前にはある程度の本数を決めておく必要があった。
そのためメーカーは、発売する前から「これくらい売れるだろう」と予測して、ある程度の本数を用意しておかなければならなかった。
そしてゲームメーカーは制作期間が伸びることも度々だった。
発売直前になって「思ったより売れそうだから、もっと作ってくれ」と言っても、すぐに店頭へ並べられるわけではない。
逆に作りすぎたら、売れ残りを利益の出ない価格、いわゆるワゴンセールで売りさばいたりしないといけなかった。
お前にはオプーナを買う権利をやろう。
因みにミリオン宣言=ワゴンセールという認識が定着したのは本当は2005年にバンナムが出した機動戦士ガンダム一年戦争のせいであるのだが。
まあそれはともかく、メーカーは発売前の段階で、ある程度の需要を予測しなければならなかったのである。
これは、すでに人気シリーズ、たとえば「ドラクエ」のようなものを持っているメーカーなら、まだ判断しやすい。
過去の売上を参考にして、ある程度の予測ができるからだ。
しかし、新規タイトルとなると話は変わってくる。
どれだけ売れるのか、誰にも分からない。
多めに作って売れなければ在庫を抱える。
逆に少なく作って予想以上に売れれば、今度は追加生産が間に合わず、せっかくの口コミによる販売機会を逃してしまう。
しかも、市場でどのソフトがどれだけ売れるかを左右していたのは、実際にゲームを遊ぶユーザーだけではなく、流通の問屋の判断でもあった。
問屋は不良在庫のリスクを避けるため、誰もが知っている有名キャラクターのゲームや、過去に実績のあるシリーズ作品にばかり大量の発注をし、一方で、いくら開発者が画期的で面白いゲームを開発したと自信を持っていても、過去の実績がない無名の新作ゲームは、問屋の判断で発注を抑えられ、店頭に並ぶことすら難しい場合があった。
さらにはおもちゃ屋の棚の狭さがそれに拍車をかけた。
発売後に口コミでそのゲームが面白いと話題になっても、追加生産にはさらに数ヶ月がかかるため、機会損失を防ぐことはできない。
これは出版が小売である書店ではなく流通である取次が販売冊数を決めてしまい、小さな書店がどんどん潰れていく現状と同じだった。
当時のゲーム市場は、ユーザーの熱量や商品の本質的な面白さだけではなく、問屋の過去の経験や発注判断に大きく左右される構造になっていたのである。
しかも、任天堂のハードでソフトを出すには、任天堂との契約やロイヤリティ、製造に関する条件などもあった。
メーカー側からすれば、単純に「ゲームを作って売ればいい」という話ではない。
ゲームを開発し、任天堂の審査を受け、製造する。
そして、発売前にどれくらい売れるのかを予測して、必要な本数を発注する。
売れなければ在庫を抱え、売れすぎれば品切れになる。
この仕組みは、ファミコンの時代には、それなりに合理的だった。
任天堂としても、品質管理や在庫コントロールのために、厳しい条件を設ける必要もあったのだろう。
まあ、それでもサードパーティが増えるとクソゲーも増えたが。
しかし、ゲームソフトの開発費が上がり、タイトル数も増えていくにつれて、メーカー側が背負うリスクも大きくなっていった。
そして任天堂は、サードパーティとの間で、こうした契約や流通を巡って何度も揉めることになる。
有名なのがナムコとの対立だ。
ファミコン初期から「ゼビウス」などのヒット作を出していたナムコは、任天堂から特別な条件を認められていた。
しかし、契約更新の時期になると任天堂は、その優遇を見直そうとした。
これにナムコ側が反発し、両社の関係は悪化していく。
ナムコは自社ハードを作ろうとしていたがそれは断念し、PCエンジンやメガドライブにもソフトを提供してく事になった。
もちろん、これは任天堂が一方的に悪かったという話ではない。
任天堂には任天堂の事情があり、ゲーム市場を急速に拡大させたからこそ、メーカーや小売を管理する必要もあった。
ただ、サードパーティ側から見れば、ゲームを作る以外にも多くの条件を受け入れなければならない仕組みだった。
そして、任天堂との関係を考えるうえでもう一つ象徴的なのが、スクウェアである。
スクウェアはファミコン時代から「ファイナルファンタジー」シリーズを任天堂ハードで展開してきたメーカーだった。
しかし、スーパーファミコンから次世代機へ移る時期になると、スクウェアはプレイステーションを選択する。
当時、スクウェアがプレイステーションへ移った理由は、単純に「任天堂が嫌いだったから」という話ではない。
大容量のゲームを作りやすいCD-ROM、開発環境、そしてソフトを製造・販売する際の条件など、複数の要素が重なっていた。
特に「ファイナルファンタジー」のような大作になると、必要となるデータ量も開発費も大きくなる。
特にドラクエと違いグラフィックの美しさを売りにしていたファイナルファンタジーではプレステと64ではプレステのほうがよく見えたのだろう。
もうひとつスクエアはドラクエと違いファイナルファンタジーでも新しいシリーズでも毎回システムを試行錯誤していた。
それが問屋には不確定要素と見られていたのは想像に固くない。
そうしたゲームを作るメーカーにとって、カートリッジの容量や製造コスト、そして発売前に大量の本数を用意しなければならない仕組みは、無視できない問題になっていった。
その際、社長(当時)や開発者がメディア等で「ロムカセットのデメリット」を公然と批判したことや、他のサードパーティをPlayStation陣営に勧誘したとされる動きが任天堂の逆鱗に触れ、これにより両社は完全な絶縁状態となり、その後数年間、スクウェアのゲームは任天堂ハードに一切供給されなくなったほどだ。
スクウェアのプレイステーション参入は、単に一つの人気シリーズが別のハードへ移ったというだけではない。
それまで任天堂ハードを中心に展開していた大手サードパーティが、「これからは別のプラットフォームを選ぶ」という判断をした象徴的な出来事だった。
しかし、任天堂の仕組みに不満を持っていたメーカーが、ナムコやスクウェアだけだったわけではない。
特にスーパーファミコン後期になると、メーカー側から見た流通の問題も大きくなっていった。
任天堂のゲームソフト流通では、初心会と呼ばれる問屋組織が大きな役割を担っていた。
もちろん、これは任天堂だけが一方的に悪いという話ではない。
初心会を含めた当時の流通システムには、メーカーが作ったソフトを全国の小売店へ流すという役割があった。
しかし、ゲーム市場が大きくなり、ソフトの開発費も増えていくと、この仕組みがメーカー側の負担として意識されるようになっていった。
実際、コナミは後に初心会流通から離れ、自社流通を進めようとしている。コナミがプレイステーションへ参入する際にも、自社流通を求めていたことからも、メーカー側が流通そのものを自分たちでコントロールしたいと考えていたことが分かる。
つまり、ナムコのように任天堂との契約条件そのものを巡って対立するメーカーがあり、スクウェアのように次世代機で別のプラットフォームを選択するメーカーがあり、さらにコナミのように流通そのものを自分たちでコントロールしたいと考えるメーカーも出てきていたのである。
そして、そこへソニーが現れた。
### CD-ROMがもたらした「流通革命」
プレイステーションのCD-ROMがゲーム業界に与えた影響は、それだけではなかった。
むしろ重要だったのは、**「作りやすい」だけではなく、「追加で作りやすい」ことだった。**
CDはカートリッジに比べて製造コストが低く、しかもソニーの生産・物流体制によって、最短3日程度、公式資料では最長6日ほどで追加供給できた。
つまり、発売前に何万本売れるのかを完全に予測しておく必要性が小さくなる。
最初から大量に作るのではなく、まず少なめに出してみる。
そして売れ行きを見て、必要なら追加で生産する。
この考え方は、それまでのゲームソフトの売り方とは大きく違っていた。
ソニーには、音楽CDを扱ってきた経験もあった。
ソニー・ミュージックなどを通じて、CDを製造し、流通させるためのノウハウを持っていたことも大きい。
そのためプレイステーションでは、ソフトメーカーに対して、ゲームソフトをより柔軟に生産・供給できる仕組みを作っていった。
ここで重要なのは、単純に「CDだから安い」という話ではない。
それまでのゲーム業界では、
「発売前にどれだけ売れるかを予測する」
ということが非常に重要だった。
ところがプレイステーションでは、
「まず発売して、実際の売れ行きを見てから追加する」
という考え方を取り入れやすくなった。
つまり、売れるかどうかというリスクを、発売前にメーカーだけが背負う必要が小さくなったのである。
そしてソニーは、製造だけではなく、ゲームメーカーとの契約や開発環境についても、それまでとは違うやり方を進めていった。
開発機材やツールを整え、ゲームメーカーへの開発サポートを充実させる。
ゲームメーカーにとって、プレイステーションは「新しいゲーム機」というだけではなく、「ゲームを作って売るための仕組みそのものが違うハード」になっていった。
だからこそ、スーパーファミコンからプレイステーションへ移った理由を、単純に「CD-ROMだったから」と説明すると少し足りない。
3Dポリゴンができたから。
大容量だったから。
ソフトの製造コストを抑えやすかったから。
もちろん、それらも重要だった。
しかし、それ以上に大きかったのは、ゲームメーカーが抱えていたリスクそのものを変えたことだったのではないだろうか。
任天堂の方式では、メーカーは発売前に「このゲームはこれくらい売れる」と考えて、生産本数を決めなければならなかった。
プレイステーションでは、それをある程度、発売後の市場の反応に委ねることができた。
言い換えれば、
**「売れるかどうかを誰かが発売前に決めてしまう」のではなく、「発売してからユーザーに決めてもらう」。**
この違いは大きい。
もちろん、任天堂が悪かった、ソニーがすべて正しかった、という話ではない。
ファミコンやスーパーファミコンの時代には、任天堂の仕組みにも十分な合理性があった。
しかし、市場が拡大し、ゲームソフトの開発費やタイトル数が増えていく中で、メーカーが求めるものも変わっていった。
大手メーカーにとってはいつまでも任天堂に首根っこを掴まれているのは息苦しかったのであろう。
それまで合理的だった「発売前に需要を予測して生産する」という仕組みよりも、「まず市場に出し、売れ行きを見ながら追加する」という仕組みのほうが、メーカーにとって魅力的になっていったのである。
そして、それを可能にしたのが、CD-ROMという新しいメディアと、それを中心に作られたプレイステーションの販売・製造の仕組みだった。
だからこそ、プレイステーションの登場は、単なるハードの世代交代ではなかった。
ゲームを「作る」だけでなく、「どれだけ作るか」「どう売るか」「誰がリスクを負うか」まで含めて、ゲームビジネスそのものを変えていったのである。




