古文と漢文
生粋の日本人・やまと民族であるにも関わらず、古文と漢文を忌み嫌ったり苦手意識を持ったりする人は少なくないかもしれない。もしくは日本史がややこしくて理解しづらいと思う人もいるだろう。
しかし、日本人にとっては古文と漢文の方が英語よりも大事な教科なのである。母国語を鍛える事は語学力を鍛える事にもなるし、自分達の認識や思考を強化する事にもなる。小学生に英語を教えるよりも、和歌や短歌や俳句を勉強させた方が良い。作詞が出来なくても優れた作品に触れさせる機会を学生達に与えるべきだ。
外国人や他民族を見下している暇が有ったら、和歌や短歌を詠むべきだ。先人達の作品に触れて思いを馳せるべきだ。本当の右翼ならばそうすべきだ。
古文や漢文を死んだ文学と思い込み、学ぶ価値がないと切り捨てるのは、学びそのものの否定だ。温故知新の概念が無いのだ。古文や漢文を理解出来れば、原文を読めるようになるし、歴史の学びにもなる。語彙が増えるし思考力も深くなる。
確かに英語の様に分かりやすい利便性は無いだろう。けれども古文も漢文も軽んじる日本人・やまと民族は本当に日本人・やまと民族なのだろうか。自分達の起源や先祖や歴史を軽んじる者が他民族や外国人と対等になれるだろうか。自分を知らない、語れない民族に何の価値があるのか。
古文や漢文は確かに難しい。場合によっては英語よりも難しいだろう。しかし、日本人・やまと民族ならば挑戦し続ける義務が有る。先祖達の価値観や思想に触れる。話はそれからだ。何度も勉強しても分からないかもしれない。それでも良いのだ。言葉の変遷や価値観の変化が想像以上に違っていたと分かるだけでも良いのだ。
現代の私達と先人達の価値観や思想には、繋がっている所と相容れない所がある。それを自覚するだけでもだいぶ生き方が変わってくる。
古文と漢文は誤読の恐れが有るが、それは英語だって同じだ。恐れていてはならない。
日本女性に寿司女と罵倒する韓国男性を見下しても良いが、言葉を取り戻した韓国人や北朝鮮人を見習った方が良い。