第6話・魔法式<塩>
開店まで三十分、この長蛇の列はなんだ。後ろを振り返ると、大きなバッグを持った客が並んでいる。米不足である。母からダラダラしているなら、米でも買ってきてよと。木曜日、政府の備蓄米が店頭に並ぶということで、俺と母は近所のスーパーに徒歩で出かけた。開店一時間前に並んだが、既に列はできていて、そこから三十分で交差点を折れて、列の後方が店側にUターンしていた。
しかし、暑い。梅雨、いったいどうしたというんだ。悩みでもあるんか?といわんばかりの梅雨すっ飛ばしモード。
梅雨明けを宣言した気象予報士がいつになく自信ありげだった。間違いない、今日も暑い。俺は母に水筒を持てと言ったが、そんな邪魔になるし、米持って帰るんだからちょっとでも軽装が基本。しかも家から近いんだから大丈夫、なんて余裕をかまされてしまった。朝の九時から並んでいるが、午前中は涼しいとはいえそれでも体感で三十度弱はある。ムシムシしている。湿度が高いと水を飲まなくなる。ダンジョンの中階層、なぜか湖畔がダンジョンにあるのだが(おそらく地下水)、その近くにマグマの通り道があるらしく、蒸す。
さしづめ、熱帯雨林のようなダンジョン。そのせいか、ツルで生い茂った壁面には食虫植物ならぬ、食人植物がうじゃうじゃ。あぁ思い出しただけで寒気がする。ちょうどいい。汗が止まらない。
列のどこかでドスンと音がした。肉が硬いモノにぶつかる音。そのあとすぐに、キャーと叫び声がした。俺の五人ほど後ろにいた老人たち、十人ほどが倒れ込んでいる。何人かは嘔吐している。折り返した列のなかに、近所の医者がいた。藪内科医院の医院長、薮さんだ。通称ヤブ医者、だが腕はいいらしい。
これは、熱中症の初期症状と中期症状だと言い、一緒に来ていた看護師の奥さん、藪婦人と一緒に処置を始めた。藪院長は開店前のスーパーに行って、氷・塩・水を取ってくるようにと言った。先頭に並んでいた男性が店に入り、水だけを取って来た。
「どうした?氷と塩は?」
「塩はどういうわけか、欠品しているらしく。午後便で入荷で、氷は冷凍庫が故障しているらしくないと」
「魚屋にも聞いたか?」
「ええ、魚屋も同じのようで」
どうやら電気系統の故障、塩が足りないのは前日にありったけ買い占めた馬鹿がいるらしい。米不足の次は塩不足とでも思ったのだろうか。
母は俺に家に帰つて、塩と氷を持ってくるようにと言ったが、往復でニ十分は命取りだ。
またしても、まもる、のスキルが発動しているのか、俺はこの状況を見逃せない気がしている。性分なのか、スキルのせいなのか。
俺は家に帰るフリをして、路地に入り人気がないのを確認した。
リュックに入れたエコバッグを取り出し、精霊を呼び寄せた。これはなかなか骨が折れる。大気中の精霊を集めて、一度水を噴出させて、それを別の精霊にお願いして凍らせる。
凍結魔法は対象を凍らせるが、今回は水を呼び出すところから始める。こんなことなら店から水をもらって来ればよかった。
水の精霊と氷の精霊は仲が悪い。水と油の関係だ。この場合氷が油だが。
ウンディーネとシベリウスの精霊を順番に召喚し、お互いが出会わないようにしてなんとか手提げエコバッグいっぱいの氷を作った。デカい塊の氷だ。
あとは塩。これは、冒険者なら塩は作れないといけない。塩を作る魔法、化学よりの魔法だが塩酸と水酸化ナトリウムを魔法式で生成し、合成。その反応により、塩化ナトリウムと水ができる。くそ、この水を凍らせればウンディーネを呼ばなくても良かったんだ。手順を間違えた。
冒険者は地層深くまで潜り、最悪の場合遭難して死亡することもある。深部まで潜ると蘇生の可能性は低い。魔物に捕食されたり、怨念に取り込まれてアンデッド化したりと蘇生の可能性が低い理由はさまざまだ。
塩は活きるために必要だ。脳神経の伝達機能、体内の適正水分の維持、栄養素の吸収、さまざまな効果がある。逆を言うと塩がないとまともな判断ができず、まともな生命維持活動ができない。迷ったダンジョンからの脱出など到底できない。だから、ダンジョンに潜る冒険者は、まず最初に塩を作り出す魔法式を学ぶ。久々の塩づくりだ。もう一つの手提げ袋一杯に塩ができた。五キロぐらいあるだろうか。ものの五分ほどで戻って来たが、藪医者に「遅い!」と。重症化している老人はおらず、救急車が到着するもピストンで運び込むようで、俺が持ってきた塩も氷も何と役に立ったようだった。
母にどんだけ塩持ってきたのよ、と言われたが、まぁまぁ人助けだろ、となだめた。
結局、幸いなことに搬送された老人たちは全員無事だったとのことで、俺は藪医院長に「よくやった」とほめられた。いつもこの医者は上から目線だが、人の役に立つのも悪くはないなと思った。
その後米を五キロずつ、母と買って帰った。ご家族様一袋までとあったが、俺と母は家族じゃないフリをしてレジにならんだ。藪婦人が「さっきはありがとうございました」と俺と母に言うもんだから、レジのおばちゃんに怪しまれた。店を出ると、藪医院長と藪婦人は米を五キロずつ抱えていた。近所じゃ有名な夫婦だからレジのおばちゃんも知っていたろうに。藪医院長と交差点まで一緒に帰った。別れ際に医院長が言った。
「ルールはルール、でもな、それはそれ、コレはコレ。あの塩は普通の塩じゃないと思うが、ワシは問わん」と。
母が何を言ってるのだろうと呆気にとられた顔をした。すすっと、俺に藪婦人が耳打ちした。
「あの人、塩作れない方の人だったのよ。この意味わかるなら、わかるでいいのよ。わからないなら、忘れてね」
「あ、あの」
「ありがとう、冒険者さん」
藪夫婦は何か知っているのだろうか。まぁ、もう少し気楽に生きればいいかと、改めて思った。
その夜、炊いた備蓄米は思いのほかうまかった。母は家から塩が減っていないことに気づいてもいなかった。