第2話・回復魔法
二十三にもなると、朝、目覚まし代わりに母が起こしてくれるなんてことはない。だからいつまでも寝ていられる。父はダンマリだ。自分の定年後の再雇用の件で頭がいっぱいらしい。
母は俺が小学生の頃からせんべい工場で袋詰めのパートに出ている。父の給料だけでは足りないからということよりも、外に出て自分を必要としてくれる“何か”に抱かれていいたいのだろう。
そういう俺もそろそろ働き始めねばとは思う。というか、前の株式会社組織ではまともに働いてはいない。席を置いているだけのようなもので、午前中はこれまでの戦闘結果のレポートや敵情報のまとめ、午後からは浅めのダンジョンに潜り、魔王の居場所の情報収集だった。これを、同級生たちのような、いや父や母のような仕事と同じ、だと言っていいのか。
のそのそとベッドから出ると、冷蔵庫にきちんとラップされている朝食を取り出し、冷凍ご飯をチンして朝飯にありつく。味噌汁もチンだ。母はこのあたりは、きちんとしている。俺と真反対の生物だ。結婚するなんてことがあれば、女性と言えば母しか知らないわけだから母基準となるのだろうか。なんだか恐ろしい。
朝食をすませて、歯磨き・髭剃り・ドライヤーでパリッとしたシャツを探し、ジーンズじゃなんだからチノパンで、リュックを背負い、スニーカーで自転車。近くのハローワークに向かう。離職票やらなんやら一式持って、あとマイナンバーカードも。何が必要と言われるかわからない。
すっかり外は春から夏に向かう間、梅雨があるはずだが、この国には梅雨はもうない。というのも、俺が魔王討伐したついでに、水生系の魔物を倒し尽くし生態系が狂った。そのおかげで梅雨がなくなったらしい。魔物たちが雨ごいしていたのだが、そのあたりの事情を鑑みず、俺が倒してしまったということだ。組織にはこっぴどく叱られたが、もしこれがソロ探索ではなく、パーティー探索なら、誰かが「これは、水質資源を破壊することにもなるから倒さずにおこう」なんて知見を発揮して止めてくれたかもしれない。仲間の大切さを切々と組織の担当に語ったが、「いや、所詮なにごとも、一人ですよ」と冷たくあしらわれた。
同じように、ハローワークもいきなり面談というわけではなく、なんだか慣れないパソコンにパチパチと個人情報を打ち込む。そのあと、面談を希望し、希望の仕事の話をするらしい。
パソコン作業は得意だ。これでも、大学に通っていたのだから。だが、希望の仕事? 何の仕事をしたいか? なんてことを考えたこともなかった。大卒なんて腐るほどいるわけだし、旧帝大でもない。文学部卒で課外活動がダンジョン潜り。これぞ自分と胸を張って言える何か、魔王討伐と封印。
そんなこと書けるわけも、言えるわけでもない。小さな受付プリンターから自分の面接番号が出力された。二百二。どんだけ待つんだ。もしかして、二百からスタート? 手汗で小さな受付の紙がしけってきた。
悲鳴が聞こえた。女性の声だ。
左となりの広いスペースの面談ブースだ。衝立がされているものの、隙間から様子を伺える程度の緩いプライバシー保護。
「このなかに、お医者様はいらっしゃいませんか?」
と。いるわけないだろ。ここはハローワークだ。そんな立派な国家資格があるなら、ここにいるわけなかろうに。
若い女性、といっても俺と同じくらい。彼女がパソコンの入力をやめ、小走りに近づき、AEDを職員に持ってくるよう指示した。看護師?そう言った訓練を受けている?
彼女は、倒れた老人男性の意識を確認。うっすらと弱い呼吸をしているようだった。心停止を確認、と掛け声をあげ、上半身をはだけさせ、AEDを使った。が、動かない。動かないのはAEDの方だった。機械トラブルに彼女は焦っていたようだ。AEDのガイダンスが流れるはずだったが、どうにも動かない。俺もダンジョンに潜る際、AEDを持たされていたが、ソロなのにどうやって使うんだと組織担当者とひと悶着あった。だから使い方は知っている。
心電図を測り、その結果電気ショックが必要か指示してくれるものだ。
119で救急車を呼んでいるものの、まだ到着しない。
突然AEDが動き出し、心電図を計測。電気ショックが必要だと音声が流れたが、再び装置が停止した。どういうことだ。
目が合った。ただその目はお前には何もできないだろうという憐みのような目だった。
回復系魔法はほぼすべて習得している。ただ、ここで詠唱するのは危険だ。組織との誓約書を反故にすることになる。そもそも電気ショックが必要なら雷撃系魔法でもいいとは思うが、心臓を作動させる程度となると加減が難しすぎる。
俺はみんなに衝立の外に出るように指示した。自分でも何をやってんだろと思ったが、背に腹は代えられないというか、俺がやらなきゃ誰がやるってことだ。
軽い回復魔法なら詠唱なしで、手かざしレベルで発動できる。心臓周辺の組織体を回復させれば、鼓動が復活するかもしれない。
俺はほんの一瞬、右手に回復魔法を忍ばせ、手かざしでその老人男性の胸中心に触れた。手が発光しないようにできるだけ魔力を抑えて。こんな回復魔法、戦闘で使うこともない。擦り傷を治す回復魔法なんて必要ないからだ、魔力の無駄遣い。だが今は違う。
老人男性の手がピクピクっと動き、意識を取り戻し始めた。まわりから歓声が聞こえる。さっきまで、難しい顔をしてパソコンとにらめっこしていた無職の人たち、どうにも言い表せない一体感、高揚感。彼女がすっと間に割って入って、脈を取る。ボソッとひとこと。
「ありがとう。あたし、元看護士なんだけど、こんな状況であまり機転が働かなくて」
「いや、誰よりも素早い対応だったと思いますよ」
「でも、さっき何をしたの?手がふわっと光ったみたいに見えたけど」
「あぁ、あああ、気功みたいな、あ、ちがうけどまぁ、そんなたいしたことじゃなくて」
俺はそう言うと、その場から立ち去り、ハローワークをあとにした。
帰りの自転車、「あぁ、仕事、探せなかったかぁ」と呟き、家へとまっすぐ帰って行った。