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別二

# マーカス・ヘイガンの最後の共鳴


## 第二章「調和への抵抗」

### 2207年9月


雨季のシンガポールは蒸し暑かった。ヘイガンのシャツの背中に汗のシミができ、額には汗の滴が浮かんでいた。メンタルコマンドで《Proto-Cortex》の体温調節機能を上げたが、効果は限定的だった。かつてのように彼の神経系が増強信号に素早く応答しなくなっていた。


シンガポール「認知拡張特区」にある実験施設の展望デッキで、ヘイガンは世界有数の先進的プロジェクトを見下ろしていた。下のフロアでは50人の兵士が「シームレス・コマンド・ネットワーク」の実験に参加していた。


「準将」若い女性科学者が彼に近寄った。「初期データをご覧になりますか?」


「もちろん」ヘイガンは答えた。彼の《Nova Eye》が彼女の顔をスキャンした。「リン博士」


《過去再帰_2207.09.12》シンガポール認知拡張特区・実験記録:「シームレス・コマンド・ネットワーク(SCN)テスト#34-B。被験者50名(全員が《Nova-S》《Proto-Cortex》装着者)。目的:階層的指揮構造なしでの集合的意思決定能力の評価。予備結果:通常の階層的構造と比較して意思決定速度37%向上、精度29%向上、創発的解決策生成率186%向上。」《/再帰》


リン博士はデータパッドを差し出した。ヘイガンはそれを手に取り、指が少し震えるのを感じた。彼はもう一方の手で支えて震えを隠した。データを読み込むのに少し時間がかかった—数ヶ月前なら瞬時に処理できたはずの情報だった。


「素晴らしい結果です」彼はようやく言った。「しかし...」


「しかし、何か?」リン博士は促した。


「自発的な階層の出現が見られる」ヘイガンは指摘した。「完全な平等性ではなく、新たな種類の...秩序が生まれている」


リン博士は驚いた様子で彼を見た。「おっしゃる通りです。私たちはそれを『創発的階層』と呼んでいます。フラットなネットワークが自己組織化して一時的なリーダーシップ構造を形成する現象です」


「予想通りだ」ヘイガンは小さく微笑んだ。「完全な平等は非効率的だ。システムは常に最適な構造を見つける」


──流入データ:

<認知拡張特区ライブフィード>

<被験者集団:脳波同期率87%>

<創発的リーダーシップノード:被験者#17, #24, #31>


「それが、コンセンサス・プリュードの核心ですね」リン博士は言った。「階級や任命ではなく、状況に応じた最適なリーダーシップの創発」


【未来視点_2233.07.09】シナプティック・コンフラックス発達史から:「ヘイガンの『創発的階層』概念は、後のコンセンサス・コアの基本構造に直接影響を与えた。彼は完全な平等ではなく、自然発生的な最適構造を信じていた。この考えは後に『共鳴度による組織化』として洗練され、シナプティック・コンフラックスの秩序原理となった。」【/視点】


下のフロアで、被験者たちは複雑な軍事シミュレーションを行っていた。言葉を交わさずに、ほとんど動きもなく、彼らは共同で仮想の危機に対応していた。その様子は不気味でもあり、魅惑的でもあった。


「彼らの個人性はどうだ?」ヘイガンが突然尋ねた。「自己認識は維持されているか?」


「もちろんです」リン博士は即答した。「SCNは意識の融合ではなく、情報と意思決定の共有ネットワークです。実験後、すべての被験者は正常な自己認識に戻ります」


「だが、その中にいる間は?」ヘイガンは追及した。


リン博士は少し言いよどんだ。「被験者は...拡張された意識状態を報告しています。自己と他者の境界が薄れるような体験だと」


〔メタ_神経倫理研究者〕ヘイガンの「個人性」への突然の関心は、彼自身の意識の脆弱化と関連していた可能性がある。PSDが進行するにつれ、彼の人格が徐々に変化し始め、それが彼の研究の焦点にも微妙な変化をもたらしていた。集合的効率から個人性の保全へという重点の移動は、彼の公開・非公開の文書両方に見られる。〔/メタ〕


「それは...」ヘイガンは言葉を探した。適切な単語が思いつかず、いくつかの無関係な言葉が頭に浮かんだ。この言語障害は新しい症状だった。「...注視すべき問題だ」


帰りのリニアトレインに乗りながら、ヘイガンはシンガポールの街の輝くスカイラインを眺めていた。地上から30メートルを静かに滑るカプセル内で、彼は小型の暗号化デバイスを取り出し、個人的な記録を残し始めた。


《過去再帰_2207.09.12》ヘイガンの個人日記(音声記録):「シンガポールでの実験は期待を上回る結果だった。SCNはコンセンサス・プリュードの重要な基盤となる。だが、私はある疑問に取り憑かれ始めている—集合的意識は個人性を犠牲にするのか?それとも拡張するのか?かつての私なら、効率のためには個人性など喜んで犠牲にしただろう。だが今、私自身の意識が脅かされている今、この問いは...より切実になっている」《/再帰》


彼は録音を中断した。言葉がうまく出てこなくなってきていた。そして左手の震えも強くなっていた。これは《Proto-Cortex》でも抑えられない程度まで進行していた。


ホテルに戻ると、ヘイガンは標準の医療回診を受けた。軍の医師による月例の健康診断だ。表向きは引退した高官に対する通常のケアだが、実際には彼の病状監視が主目的だった。


「《Proto-Cortex》の出力を上げましょう」医師は診断結果を見ながら言った。「前頭葉への電気刺激を15%増加します」


「副作用は?」ヘイガンは尋ねた。


「認知機能は改善しますが、感情の変動が大きくなる可能性があります」医師は正直に答えた。「また、睡眠障害も悪化するかもしれません」


「構わない」ヘイガンは即決した。「認知機能の維持が最優先だ」


医師は黙って調整を行った。部屋には重い沈黙が流れていた。


「率直に言って、あとどれくらいだ?」ヘイガンは突然尋ねた。


医師は彼を見つめ、しばらく黙っていた。「現在の進行速度では...来年末まで公務を続けるのは難しいでしょう」彼はようやく言った。「そして...」


「総合的な予後は?」


「3年、最大でも4年です」医師は静かに言った。「あなたの《Proto-Cortex》適応性は驚異的ですが、神経細胞の喪失は止められません」


ヘイガンは窓の外を見た。生死のニュースに対して彼は不思議なほど冷静だった。彼の中の何かが、この情報を単なるミッションパラメータの更新として処理していた。


「《Nova-Synaptic》の進捗状況は?」彼は唐突に尋ねた。


医師は眉をひそめた。「それはまだ実験段階の技術です。人間への適用は—」


「私は実験被験者になる」ヘイガンは断固として言った。「すべての書類を準備させる」


「しかし、準将」医師は抗議した。「そのシステムは完全に未知の—」


「それは命令だ」ヘイガンの声は鋼のように硬かった。「私の裁量で、国家安全保障上の理由から」


医師はそれ以上何も言わなかった。彼にはヘイガンの決意が揺るぎないものであることがわかった。


翌朝、ヘイガンは北米防衛連合の地域司令部で会議に出席した。コンセンサス・プリュードの地域実装について議論するためだ。彼は最高幹部たちに囲まれ、静かにコーヒーを啜っていた。


「新しい指揮システムは従来の階級制度をどう補完するのか?」あるベテラン将軍が疑問を投げかけた。「それとも、それを置き換えるのか?」


「補完から始まります」ヘイガンは慎重に言葉を選びながら答えた。「しかし最終的には...」彼は言葉を探した。「...進化します」


「進化?」将軍は眉をひそめた。「それはどういう意味だ?」


「必要性に基づく最適化です」ヘイガンは説明した。「現在の階級制度は...」再び言葉が見つからない。「...静的です。コンセンサス・プリュードはダイナミックな...組織構造を可能にします」


他の幹部たちが互いに視線を交わした。ヘイガンの発言は普段よりも曖昧で、整理されていないように聞こえた。


「具体的にどのような—」


「私のビジョンを示しましょう」ヘイガンは言葉の説明に苦労することを避け、ホログラフィック・プロジェクションを起動した。視覚的表現なら、彼の言語障害を隠すことができる。


青白い光の中に、新しい指揮構造のモデルが浮かび上がった。従来の階級ピラミッドが徐々に流動的なネットワークに変形していく様子が示された。階級の代わりに、役割と状況に応じた「共鳴度」による一時的な階層が形成された。


ヘイガンはほとんど言葉を使わずに、純粋にビジュアルで説明を続けた。彼のプレゼンテーションスタイルの変化を不思議に思う者もいたが、誰も直接質問はしなかった。


──流入データ:

<認知機能フラクチュエーション:-12%>

<言語処理遅延:+0.8秒>

<《Proto-Cortex》補正:最大出力>


会議終了後、コリン・ジョンソンが彼に近づいてきた。彼女は以前よりも彼を注意深く観察していた。


「準将」彼女は静かに言った。「新しいプロジェクトの責任者として、いくつか質問があります。個人的にお話できますか?」


彼らは司令部の一角にある小さなオフィスに移動した。


「あなたは変わりました」彼女は扉が閉まるとすぐに言った。「明らかに健康状態が」


「状況を把握しているようだな」ヘイガンは疲れた声で言った。「誰から聞いた?」


「誰からも」彼女は自分の《Nova Eye》をタップした。「これは単なる視覚拡張ではありません。あなたの行動パターンの微妙な変化、言語処理の遅延、運動制御の不安定性...すべて検出できます」


【未来視点_2217.02.25】軍事技術歴史公文書から:「ジョンソン少佐(後の総監)とヘイガン準将の関係は、単なる上官と部下を超えていた。彼女は彼の最も信頼された弟子であり、後継者だった。彼の疾患が進行する中、彼女は彼のビジョンを守り、実現するという重要な役割を担った。」【/視点】


「私の...状態は任務には影響しない」ヘイガンは言った。


「今はまだ」彼女は正直に言った。「しかし時間の問題です。コンセンサス・プリュードは...」


「私のレガシーだ」彼は言葉を継いだ。「私の不在でも続く必要がある」


「それが私のここにいる理由です」彼女はソファに座るよう彼を促した。「あなたは《Nova-Synaptic》を試そうとしていると聞きました」


ヘイガンは驚いた。「機密情報だ」


「私はあなたの後継者です」彼女は静かに言った。「すべてを知る必要があります」


ヘイガンは長い間黙っていた。彼女は待った。彼らの間には、言葉を超えた理解があった。


「《Nova-Synaptic》は単なる医療機器ではない」彼はようやく口を開いた。「それは...架け橋だ」


「何への架け橋ですか?」


「未来への」彼は言った。「個人としての私は消えるだろう。しかし私のビジョン、私の思考は...」また言葉が出てこない。「...存続する必要がある」


〔メタ_神経哲学者〕ヘイガンの「存続」への執着は単なる自我の表現ではなく、彼の革命的ビジョンが未完成のまま失われることへの本物の恐れから来ていた。《Nova-Synaptic》システムは、彼にとって単なる生命延長の手段ではなく、彼の思想と認知パターンを保存し、将来の集合意識に統合するための手段だった。〔/メタ〕


「理解します」ジョンソンは深刻な表情で言った。「どうすれば手伝えますか?」


「《Nova-Synaptic》の開発を加速してほしい」ヘイガンは言った。「そして、私の思考を...記録してほしい。私の言語能力は低下しているが、思考はまだ...明瞭だ」


「準将」彼女は彼の手を取った。彼女の手は温かく、彼のは冷たかった。「あなたの構想を守ります。そして完成させます」


彼は彼女を見つめた。かつての指揮官としての冷徹な視線ではなく、感謝と信頼に満ちた眼差しだった。


「コンセンサス・プリュードは単なる軍事プロジェクトではない」彼は静かに言った。「それは、より大きな何かの始まりだ」


「何の始まりですか?」


「新しい人類の」ヘイガンは言った。彼の《Nova Eye》が希望に満ちた青い光で輝いた。「私は常に勝利を求めていた。しかし今、私は...調和を求めている」


彼らは別れる前に、具体的な計画を立てた。ジョンソンは《Nova-Synaptic》の開発チームのリーダーになり、ヘイガンの認知パターンを記録するための特別プロトコルを確立することになった。


シンガポールのホテルに戻ったヘイガンは、再び個人的な日記を録音した。


《過去再帰_2207.09.13》ヘイガンの個人日記(音声記録):「私の言語能力は...悪化している。思考は明晰だが、言葉にするのが...難しい。皮肉だ。一生を通じて私は言葉の力を信じてきた。命令、説得、鼓舞...そして今、その能力が最初に失われようとしている。だが、新しい伝達手段がある。より直接的な...思考の共有だ。ジョンソンは理解している。彼女は私の思考を...保存するだろう。私は...恐れていない。変化を...恐れてはいない。」《/再帰》


彼は録音を終え、窓の外に広がるシンガポールの夜景を見つめた。かつて彼は純粋に軍事的目的のために力を追求していた。だが今、彼の視点は変わり始めていた。個人としての彼の時間は限られていた。しかし、彼のビジョンなら、より壮大な何かへと進化し、永続することができるかもしれない。


彼の《Nova Eye》の光が窓ガラスに反射し、暗闇の中で星のように輝いていた。

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