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# 『視界の向こう側』


## 第四章


■ 雨が研究所の窓を打ちつけていた。ミレイはオフィスの暗がりで、タブレットの青白い光に照らされながら最後のバックアップを完了させていた。「プロジェクト・イマジン」の全データ—視覚共有と感情表出の実験記録、結花の脳スキャン、プロトタイプの設計図—すべてを個人用の量子暗号化ストレージに転送している。


【未来視点_2218.10.04】神崎ミレイの行動は後に「情報自由化運動」の起源として位置づけられることになる。皮肉なことに、軍の支援で開発された技術を「解放」するという彼女の決断が、技術の民主化と、後の集合意識社会への道を開いた。しかし当時、それは単に娘を守るための必死の行動だった。【/視点】


「転送完了」システムが通知した。「続行しますか:全記録の削除」


彼女はためらった。削除すれば、Aether Dynamics社での彼女の研究記録は永久に失われる。しかしそれが最も安全な選択だった。ヘイガンは彼女の成果を手に入れるために何でもするだろう。


「実行」


《過去再帰_2185.03.01》軍事記録から:「22:17、神崎研究室にて異常な電子活動を検知。高レベルデータ転送が実行された後、広範なファイル削除が行われた。緊急対応チームが派遣済み。」《/再帰》


部屋の隅にある小さなバッグには必要最低限のものだけを詰めていた。結花の特別な薬と、数着の服。そしてミレイが何よりも大切にしていた写真—結花が赤ちゃんだった頃、夫との最後の家族写真。すべてがこの小さなバッグに収まっていた。


ミレイはドアの前で立ち止まり、暗いオフィスを最後に見渡した。10年間、彼女はここで働き、夢見て、創造してきた。そして今、すべてを捨てようとしている。


「ママ、大丈夫?」


〔メタ_神崎ミレイ伝記作家〕神崎の逃亡は、単なる科学者の「裏切り」として片付けられることが多いが、実際には彼女の行動を促した複雑な倫理的葛藤があった。娘を守るという個人的動機と、自分の技術が軍事利用されることへの科学者としての良心的抵抗が交錯していた。神崎家のこの夜の決断は、後の《Spectral Void Eye》技術の分岐点となった。〔/メタ〕


結花がドアの向こうで待っていた。彼女の《Spectral Void Eye》は緊張と不安で淡い紫色に輝いていた。ミレイは微笑んで娘の肩に手を置いた。


「大丈夫よ。ちょっとした旅行よ」


「本当は怖いんでしょ」結花の左目が微かに点滅した。「見えるよ」


「少しね」ミレイは正直に答えた。「でも大丈夫。二人一緒だもの」


【未来視点_2202.02.15】軍事技術歴史家の論文から:「神崎親子の逃亡は、『プロジェクト・オラクル』に深刻な遅延をもたらした。しかし皮肉なことに、彼女の残した断片的データから軍が開発を続けた《Nova-S》系統と、彼女が独自に発展させた民生版《Spectral》系統の二つの進化系統が生まれ、これが後の技術融合の基盤となった。」【/視点】


彼女たちは緊急階段を使って建物の裏手に出た。雨は依然として強く降り続けていた。駐車場には数台の車しかなく、その一つはミレイの古いハイブリッドカーだった。


「さあ、急いで」


彼女たちは車に乗り込み、ミレイはエンジンを始動させた。計画では、まずカリフォルニア州を出て、そこから日本の家族のもとへ向かう。軍やAether Dynamics社の追跡から逃れられるだけの距離が必要だった。


「どこに行くの?」結花が尋ねた。


「おばあちゃんのところ。日本よ」


「日本?」結花の目が大きく見開かれた。「でも学校は?友達は?」


「しばらくお休みよ」ミレイは言った。「新しい学校に行けるわ。おばあちゃんの家の近くの」


──流入データ:

<セキュリティアラート:研究所出口 A-7>

<監視カメラ:主要通路を回避する人物2名を検出>

<顔認識一致率:神崎ミレイ 96.8%、結花 88.2%>


ミレイはこのデータを「感じた」。体内のネットワークセンサーがエーテル・コルテックスを通じて警告を送っていた。彼女はまだ集合ネットワークから切断されていなかった—それは後で行う必要があるだろう。しかし今は、このネットワーク接続が彼女に貴重な情報を提供していた。


彼女は車を研究所の裏口から出し、メインゲートを避けて側道に入った。


《過去再帰_2185.03.02》Aether Dynamics社内部メモ:「午前2時17分、神崎ミレイと彼女の娘が許可なく施設を離れたことを確認。すべての地域保安機関に通知済み。重要な企業資産(知的財産および研究サンプル)の回収を優先。」《/再帰》


「ママ、あの人たちが来てる」結花が後部座席から言った。「見える」


ミレイはバックミラーを覗いた。研究所の建物から複数の黒いSUVが出てきているのが見えた。ヘッドライトが雨の中で不吉に輝いていた。


「大丈夫よ。見つからないから」


彼女は車を住宅街の狭い路地に入れ、ライトを消した。SUVが通り過ぎるのを待ちながら、彼女は次の行動を考えていた。


「結花、あなたのプロトタイプを少し調整する必要があるわ」


「どうして?」


「追跡されないようにするの」ミレイは言った。「今のまま集合ネットワークに接続していると、位置がわかってしまうから」


【未来視点_2219.05.30】神経技術史研究者の分析:「神崎が行った技術的隔離は、後に『非共鳴区画』の原理的基盤となった。当初は逃亡のための対策として生み出された集合意識からの遮断技術が、後にシナプティック・コンフラックスにおける最も重要な管理・隔離技術へと発展したという皮肉は見逃せない。」【/視点】


ミレイは小さなツールキットを取り出し、結花の《Spectral Void Eye》の調整を始めた。単なる感情表出デバイスとなるよう、ネットワーク接続部分を無効化する必要があった。


「少し痛いかもしれないけど、我慢してね」


結花は静かに頷いた。彼女の左目が一瞬青く点滅した後、通常の状態に戻った。


「変な感じ」彼女が言った。「静かになった」


ミレイには理解できた。集合ネットワークからの絶え間ない情報の流れが突然止まると、奇妙な「静寂」が生じる。彼女も自分のエーテル・コルテックスの接続を一部遮断していたが、完全に切断するには別の機材が必要だった。


〔メタ_技術倫理学者〕初期のネットワーク技術からの「切断」という行為は、現代の集合意識社会では想像さえできない逸脱行為だ。しかし神崎時代には、まだ「接続されていない状態」が標準だった。彼女の行動は、後に「切断」という概念そのものが異常とされる社会への転換点を示している。〔/メタ〕


「さあ、行きましょう」


ミレイが車を発進させようとした瞬間、強力なサーチライトが車内を照らした。


「神崎ミレイ博士」スピーカーから声が響いた。「車を停止し、ドアをロックしないでください」


ミレイの心臓が早鐘を打った。ヘイガンの部隊がすでにここに到着していた。彼女はバックギアに入れ、急発進した。


SUVが彼女の車を追いかけ始めた。雨で視界が悪い中、ミレイは住宅街の曲がりくねった道を猛スピードで走った。


「ママ、怖い!」結花が叫んだ。


「大丈夫よ、あなたを守るから」


彼女はハンドルを鋭く切り、別の道に入った。後ろの追跡車両を少なくとも一台は振り切ったようだったが、まだ二台が後を追っていた。


──流入データ:

<地域交通制御:オーバーライド>

<軍用車両:優先通行モード設定>

<民間車両:強制停止プロトコル待機中>


この情報が流れ込んだ瞬間、ミレイは決断した。彼女は急ブレーキをかけ、車を路肩に寄せた。


「結花、聞いて」彼女は振り返り、娘の手をしっかりと握った。「この車を降りて、あそこの木の向こうに行って隠れなさい。わかる?」


《過去再帰_2185.03.02》マーカス・ヘイガン少佐の作戦報告書:「容疑者の車両が停止し、容疑者が降車。子供の姿は確認できず。神崎ミレイは抵抗せず、平然と我々を待っていた。」《/再帰》


「ママは?」


「ママはすぐ行くから」ミレイは微笑んだ。「これはゲームよ。かくれんぼ。あなたはチャンピオンだったでしょ?」


結花はためらったが、母親の真剣な表情を見て頷いた。彼女の左目が恐怖で赤く点滅していた。


「行きなさい。愛してるわ」


結花は車から降り、ミレイが指した方向へと走って行った。雨と暗闇が彼女を隠してくれるはずだ。ミレイは深呼吸し、車から降りた。追跡車両が彼女の周りに停まり、武装した男たちが降りてきた。


「神崎博士」マーカス・ヘイガンが雨の中を歩いてきた。「無駄な抵抗ですね」


「娘は関係ない」ミレイは言った。「私が協力するから、彼女には手を出さないで」


「それはできませんね」ヘイガンは冷静に答えた。「彼女こそが最も価値ある研究対象なのです」


【未来視点_2238.07.11】歴史家の分析:「神崎親子の分離は、集合意識技術の二大系統の分岐点となった。軍の管理下に置かれたミレイの研究は『Nova』系統へ、一方で行方をくらました結花のインプラントは後に『Spectral』系統の発展に決定的影響を与えることになる。」【/視点】


「彼女はただの子供よ!」ミレイの声が震えた。


「誰が言いました?」ヘイガンの左目が青く輝いた。「彼女はホモ・センティエンティスの最初の成功例です。この新たな人類の進化の証拠なのです」


ミレイの周りで男たちが娘を探し始めていた。彼女は静かに祈った—結花が安全に逃げられることを、そして彼女が残したバックアップデータが正しい人々の手に渡ることを。


「行きましょう、博士」ヘイガンは彼女の腕をつかんだ。「あなたには続けていただく研究があります」


〔メタ_文化歴史学者〕神崎親子の物語は、単なる技術的発展の記録を超えて、近代技術史における真のギリシャ悲劇となった。母の自己犠牲と、それによって救われた娘が後に母の技術的遺産を受け継ぎ、発展させていくという物語の構造は、多くの文化的反響を生み出した。特に2220年代の「センティエントの眼」三部作映画は、この物語を基にした古典となっている。〔/メタ〕


雨の中、ミレイは軍用車に連れて行かれた。彼女は最後に肩越しに振り返り、暗闇の中を見つめた。結花がどこかで無事であることを願いながら。


彼女は知らなかった—この夜の出来事が、人類の未来を永遠に変えることになるとは。


離れ離れになった母と娘が、それぞれの道を歩みながらも、最終的には人類の集合意識という同じ目的地に向かっていることも。


【システム通知:回想終了/実時間に戻ります】


*<了>*

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