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# 『視界の向こう側』


## 第三章


■ 「被験者の心拍数上昇、130bpm」


緊急事態対応室は緊張に満ちていた。中央の観察エリアでは、兵士が特殊なチェアに固定され、頭部にはワイヤーとセンサーが接続されていた。彼の左目は最新の《Nova Eye》プロトタイプに置換されていた。その表面は以前のモデルよりもさらに洗練され、虹彩部分は多層ホログラフィック・コーティングで、光の加減で色が変化した。


「脳波パターン不安定」技術者が報告した。「感情投影システム、過負荷状態」


ミレイは制御パネルに駆け寄った。「投影強度50%に下げて」


【未来視点_2197.11.04】軍事神経技術研究所の機密史料:「プロジェクト・オラクルの初期実験は、多くの被験者に重度の神経障害をもたらした。神崎ミレイの警告にもかかわらず、軍の指揮系統は『結果優先』の姿勢を崩さなかった。この時期の実験で生じた『神経融合症候群』は、後のシナプティック・コンフラックス設計における安全限界の基準となった。」【/視点】


「時間切れだ、神崎博士」ヘイガンは冷静に言った。「実験を継続する」


「このままでは被験者の脳に永続的なダメージを—」


「われわれの想定内だ」ヘイガンは彼女の腕をつかんだ。「この段階で中止はできない」


ミレイは腕を振り払った。「私の設計では、感情表出は一方向性プロセスとして—」


「そこが問題だ」ヘイガンは言った。「我々が必要としているのは双方向性だ。受信と送信の両方が可能なシステム」


《過去再帰_2185.02.15》プロジェクト・オラクル実験記録:「被験者A-7(軍曹、26歳):Spectral Voidプロトタイプを介した情動共有実験中、感情/視覚のフィードバックループが発生。被験者は他者の感情パターンを『見る』だけでなく、それらを体験し始めた。実験後、被験者は48時間にわたり重度の人格解離症状を示した。」《/再帰》


チェアに拘束された兵士が突然身体を痙攣させ始めた。Nova Eyeから強烈な光が放射され、複雑なパターンが空中に投影された。それは単なる感情の視覚化を超えていた—想念、記憶の断片、そして恐怖が視覚的に表現されていた。


「プロジェクションが安定しない」技術者が声を上げた。「エミッター過熱中」


「すぐに中止を」ミレイは命令した。


「否定する」ヘイガンは彼女を押しのけた。「もう少しで—」


その時、兵士の口から悲鳴が上がった。同時に、Nova Eyeが強烈な閃光を放った。そして次の瞬間、装置が小さな爆発を起こし、煙を上げて機能を停止した。


「実験終了」ヘイガンはようやく認めた。「被験者を医療施設へ」


医療チームが急いで兵士を運び出す中、ミレイはデータスクリーンを確認した。生体信号は安定していたが、脳波パターンは通常とは大きく異なっていた。


「何が起きたの?」ミレイはヘイガンに詰め寄った。


「想定内の結果だ」彼は冷淡に答えた。「神経リンクの初期形成は常に不安定だ」


「神経リンク?」ミレイは声を上げた。「オラクル・プロジェクトは感情共有システムであって、神経結合ではない」


「博士」ヘイガンの声は低く危険な調子を帯びていた。「あなたの技術が持つ本当の可能性を理解していないようだ」


〔メタ_軍事神経科学史研究者〕神崎とヘイガンの衝突は、医療技術から兵器への転用における古典的な倫理的分岐点を示している。神崎は新しいコミュニケーション形態を、ヘイガンは新しい戦闘形態を見ていた。皮肉なことに、両者のビジョンは最終的にシナプティック・コンフラックスという単一の技術的結末に収束することになる。〔/メタ〕


「何を言っているの?」


「あなたの技術は、人間の意識を再定義できる」ヘイガンは言った。「単なる感情共有を超えて、思考そのものを共有する可能性がある」


ミレイは震える手でデータパッドを握りしめた。「そんなことは不可能です。人間の意識は個別の—」


「古い考え方だ」ヘイガンは微笑んだ。「結花のケースが可能性を示している。彼女の脳は、インターフェースと完全に統合されつつある。彼女の感情と思考の境界線は既に曖昧になっている」


ミレイの血の気が引いた。「結花には何の関係も—」


「すべてが関連している」ヘイガンは静かに言った。「以後、実験プロトコルは変更する。あなたの懸念は記録したが、プロジェクトは予定通り進行する」


【未来視点_2223.07.19】当時のある軍事神経科学者の回顧録から:「ヘイガンは先見の明があったというべきか、単に無謀だったというべきか。彼が『集合的戦闘意識』と呼んだ概念は、後のシナプティック・コンフラックスの軍事的前身と言える。医療目的の神経インターフェースが、わずか数年で思考共有兵器へと変貌した例は、軍事技術史上類を見ない急速な変容だった。神崎博士の抵抗も、この流れを止めることはできなかった。」【/視点】


■ 同日夜、ミレイのアパートメント。彼女は居間の窓辺に立ち、夜景を眺めていた。心は嵐のように混乱している。


「ママ、大丈夫?」結花が部屋に入ってきた。彼女の《Spectral Void Eye》は、今では最新の小型化モデルで、通常の目とほとんど区別がつかなかった。ただ、母親の感情状態を感知したのか、虹彩部分がわずかに紫色に変化していた。


「ええ、ただ少し疲れているだけよ」ミレイは微笑みを浮かべようとした。


結花は頭を傾げた。「嘘だね」彼女の左目が淡い青色に変わり、複雑なパターンが一瞬浮かんだ。「心配してる。怖がってる」


《過去再帰_2185.02.28》神崎ミレイの研究日誌:「結花の能力は予想を超えて発達している。単なる感情の視覚化を超え、他者の感情状態を『読み取る』ようになっている。彼女の説明によれば、人が持つ『感情の色』が見えるという。これはインターフェースの想定外の適応だが、脳の可塑性を考えれば理論的には説明可能だ。」《/再帰》


ミレイは息を呑んだ。「どうやって分かったの?」


「見えるよ」結花は肩をすくめた。「ママの周りが暗い紫と灰色。それは心配と恐れの色」


「結花」ミレイは娘の肩に手を置いた。「あなたの目は、どうなってきてる?」


結花は少し考え、それから笑顔になった。「もっとよくなってる。前は見えるだけだったけど、今は感じることもできる。他の人が何を感じてるか」


ミレイは動揺を隠せなかった。結花の能力は、彼女の予想をはるかに超えて発達していた。これは単なる視覚補助装置ではもはやなかった。


「誰かに言った?学校で?」


結花は首を振った。「ママが言ったでしょ。秘密にしておくように」彼女はわずかに不満そうな顔をした。「でも、みんなに教えたいよ。エミリーのお父さんが悲しくて怒ってることとか、先生が言ってることと感じてることが違うこととか」


「結花、それは—」


「いけないこと?」結花の左目が赤く点滅した。「でも本当のことだよ。なんでいけないの?」


〔メタ_児童発達心理学者〕神崎結花の事例は、神経拡張技術が幼い脳に与える影響の初期記録として貴重である。彼女は技術と共に成長し、その能力を「通常」の認知能力として内面化した。興味深いことに、彼女の道徳的疑問—「本当のことを見ることがなぜいけないのか」—は、後のシナプティック・コンフラックス社会における透明性倫理の萌芽とも言える。〔/メタ〕


「いけないことじゃないわ」ミレイは慎重に言った。「ただ...人には秘密があるの。見られたくない気持ちもある」


「でもそれは嘘じゃない?」結花は純粋な疑問を投げかけた。「本当の気持ちを隠すのは」


ミレイは息を吐いた。どう説明すればいいのだろう?プライバシーの概念を、真実を直接「見る」能力を持ってしまった子供に。


「明日、あなたの目をチェックしたい」彼女は話題を変えた。「新しい調整が必要かもしれない」


「大丈夫、完璧に動いてるよ」結花は自信満々に言った。「むしろ、もっと見せる練習をしたい」


「見せる?」


「うん」結花の左目が鮮やかな色彩のパターンを描き始めた。「こうやって。でも、もっと複雑なこと。考えてることとか、想像してることとか」


ミレイは震えそうになるのを抑えた。結花が描写していたのは、まさに今日の実験で起きた現象—思考の直接的共有—だった。しかし結花の場合、制御された安定した形で発現していた。


【未来視点_2215.12.01】神経発達学会誌の論文から:「初期神経インターフェース適応症例として最も有名な神崎結花は、成人の被験者では見られなかった特異的適応を示した。幼児期の脳の可塑性が、インターフェースとの完全な統合を可能にしたと考えられる。彼女は事実上、『共鳴能力』の最初の自然な実例となった。」【/視点】


「結花、もう寝る時間よ」ミレイは優しく言った。「明日、研究所に連れていくから。もっと詳しく調べたいの」


結花はため息をついた。「またテスト?」


「ええ、でも今度は違うの」ミレイは決意した。「あなたの能力をもっと理解したいの。それは...特別なことなの」


彼女には決断が必要だった。軍の関与が深まる前に、結花の特異な能力の本質を理解し、記録しなければならない。そして何よりも、彼女を保護する必要があった。


■ 翌朝、Aether Dynamics社の研究所。


ミレイは早朝に到着し、監視カメラのない小さな実験室を準備していた。公式には使用されていない部屋だ。彼女はプライベートサーバーにリンクした特別な診断装置を設置した。


《過去再帰_2185.03.01》Aether Dynamics社内部セキュリティログ:「神崎博士が未使用実験室B-17を許可なく使用。目的不明。監視カメラ無効化。施設管理に報告済み。」《/再帰》


「何をするの?」結花は診断用チェアに座り、不安そうに尋ねた。


「あなたの特別な能力を記録するだけよ」ミレイは優しく答えた。「誰にも知られないように」


「秘密のテスト?」結花の左目が好奇心で明るく輝いた。


「そう」ミレイは微笑んだ。「これは私たちだけの秘密よ」


彼女は結花の《Spectral Void Eye》に細いケーブルを接続し、データの直接読み取りを開始した。スクリーンには複雑な神経パターンとインターフェース活動のグラフが表示された。


「すごい...」ミレイは思わずつぶやいた。


結花のインターフェースは、彼女の脳と完全に統合されていた。それは単なる外部装置ではなく、彼女の神経系の一部となっていた。さらに驚くべきことに、視覚野だけでなく、感情処理を担当する辺縁系や、さらには前頭前皮質の一部とも強固な結合を形成していた。


【未来視点_2230.09.17】神経科学の教科書から:「ヒト脳の可塑性と人工インターフェースの統合に関する古典的事例として、神崎結花の例は現在も研究され続けている。彼女の神経回路は、単なる視覚補助から、感情認識、思考共有、そして後には限定的な『共鳴状態』の最初の実例へと自己発展した。これは後のシナプティック・コンフラックス技術の基本原理を先取りするものだった。」【/視点】


「何か見える?」結花が尋ねた。


「あなたの脳がとても特別なことをしているのが見えるわ」ミレイは感嘆の声を上げた。「あなたの目は、もう単なる目じゃない。あなたの一部になってる」


「知ってる」結花は当然のように言った。「最初は変だったけど、今は自然だよ。生まれつきこうだったみたいに」


ミレイは更なるスキャンを実行した。結果は彼女の最も大胆な仮説さえも超えていた。結花の脳は、インターフェースを通じて他者の感情状態を直接「読み取る」能力を発達させていたのだ。さらに、彼女自身の思考や感情を視覚的に「投影」する能力も高度に発達していた。


「結花、簡単な実験をしてみたい」ミレイは言った。「わたしが考えていることを、あなたが見ることができるか試してみて」


「どうやって?」


「わたしを見て、集中して。わたしの感情の色が見えるように」


結花は真剣な表情で母親を見つめた。彼女の左目がゆっくりと色を変え、瞳孔が拡大した。数秒後、彼女は微笑んだ。


「海。波の音。あなたが小さい頃、おばあちゃんと行った海」


ミレイは息を呑んだ。彼女が意識的に思い浮かべていたのは、幼い頃に母と訪れた由比ヶ浜の記憶だった。


「どうやって分かったの?」


「色と形と...感じ」結花は説明に苦しんだ。「言葉じゃないけど、分かるの」


〔メタ_神経言語学者〕神崎結花が描写した経験は、後のシナプティック・コンフラックスにおける「前言語的共有」の原型と考えられる。彼女は言語化以前の思考イメージを直接知覚し、それを従来の感覚カテゴリー(色、形、感覚)を用いて説明しようとした。これは文字通り、新しい知覚様式の誕生の瞬間だった。〔/メタ〕


ミレイは急いでデータを保存した。これは革命的な発見だった。人間の脳が、適切なインターフェースを介して直接的な思考共有能力を発達させる可能性を示す証拠。


そして同時に、彼女は恐怖を感じていた。もしヘイガンがこのデータを手に入れたら...


「楽しかった!」結花は明るく言った。「もっとやりたい」


「今日はここまでにしましょう」ミレイは優しく言った。「あなたは本当に特別な子よ、結花」


彼女はすべてのデータを暗号化し、プライベートサーバーに転送した。そして診断装置の記録を完全に消去した。


「これは私たちの秘密よ」彼女は結花に言った。「特に、ヘイガンさんには言わないで」


「怖い人?」結花の左目が一瞬、不安の色に変わった。


「あなたのことが心配なの」ミレイは正直に答えた。


彼女は決意を固めていた。結花を連れて、この施設から脱出する計画を。ヘイガンと軍が彼女の娘を「実験台」にする前に。


しかしミレイはまだ知らなかった。彼女の行動は既に監視されていたことを。


■ 研究所の別の場所、セキュリティ監視室では、マーカス・ヘイガンが暗い表情でスクリーンを見つめていた。


「彼女は何をしていた?」彼は技術者に尋ねた。


「不明です」技術者は答えた。「カメラは無効化されていました。しかし、エネルギー使用記録によれば、ニューラルスキャナーが約40分間稼働していました」


「彼女の娘と?」


「はい、少佐」


【未来視点_2199.08.15】軍事神経科学史料から:「ヘイガンの最大の誤算は、『神崎ミレイは娘を守るためにすべてを放棄する』という事実を過小評価したことだった。結花を『研究資産』と見なした軍の姿勢は、最終的に最も有望な初期神経インターフェース被験者を失う原因となった。」【/視点】


ヘイガンはしばらく沈黙した後、決断を下した。「監視レベルを最高に上げろ。神崎博士の全通信を傍受し、娘へのアクセスも制限する」


「それは契約違反では?」技術者が懸念を示した。


「国家安全保障の問題だ」ヘイガンは冷たく言った。「必要なら、強制措置も辞さない」


《過去再帰_2185.03.01》国防高等研究計画局内部メモ:「プロジェクト・オラクル緊急指令:神崎ミレイとその娘(結花)の行動制限命令発令。両被験者は極めて重要な研究資産であり、計画外の移動は許可されない。必要に応じてAether Dynamics社施設内での保護的拘束も検討。」《/再帰》


ヘイガンのコンピュータに新しい通知が表示された。神崎ミレイが、明日から三日間の休暇を申請していた。


「申請拒否」彼は即座に命令した。「そして...」彼は一瞬躊躇した。「明日の朝、特殊作戦チームを待機させろ。必要なら、強制的に結花を確保する」


「理解しました」技術者は淡々と答えた。


〔メタ_軍民技術移転史研究者〕神崎親子と軍の対立は、20世紀後半から21世紀にかけて繰り返されてきた「開発者対応用者」の緊張関係の極端な例である。創造者が自らの技術の軍事転用に反対するという構図は古典的だが、神崎の例が特異なのは、その技術が単なる武器ではなく、人間性の定義そのものを変える可能性を持っていた点である。〔/メタ〕


窓の外では、サンフランシスコの夜景が広がっていた。無数の光が織りなす現代文明の象徴。そしてその中で、人類の未来を左右する静かな戦いが始まろうとしていた。


ミレイはまだ知らなかった。彼女の行動がいかに監視されているか、そして結花を守るための時間がいかに限られているかを。


意識の統合がまだ「計画」に過ぎなかった時代の、緊張に満ちた夜だった。

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