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# 『視界の向こう側』


## 第二章


■ 「神崎博士、少し時間をいただけますか」


ミレイは実験室の入り口に立つ男性を見上げた。軍服ではなく、上質な灰色のスーツを着た四十代半ばの男性。彼の左眼は標準的なミリタリーグレードの《Nova Eye》モデルに置き換えられていて、わずかに青く輝いていた。


「マーカス・ヘイガン少佐」男は身分証を提示した。「国防高等研究計画局、ニューロテック部門です」


【未来視点_2211.01.22】軍事史の資料によれば、ヘイガン少佐は初期のエンハンスド・ソルジャー・プログラムの中心人物だった。《Spectral Void Eye》と《Aether Cortex》双方の軍事応用を推進し、後に「認知戦争」と呼ばれることになる新しい戦闘パラダイムの理論的基盤を築いた人物である。彼自身が初期技術の「被験者」であったことは、当時極秘情報だった。【/視点】


「実験の視察ですか?」ミレイは冷淡に尋ねた。「公式訪問は来週の予定では」


「非公式です」ヘイガンは実験室に入り、扉を閉めた。「あなたの『副次的』研究について話したい」


ミレイの血の気が引いた。自分がスペクトラル・プロジェクトを極秘に進めていることを、軍は知っているのだろうか?


「何のことでしょう?」


「感情表出機能です」ヘイガンは実験台の上に置かれた最新プロトタイプを手に取った。既に視覚入力機能を備えた初期版から大幅に小型化され、より洗練された外観になっていた。「公式報告には載っていない機能ですが、存在することは把握しています」


《過去再帰_2184.06.18》Aether Dynamics社内部メモ:「プロジェクト・ノヴァ(軍事用視覚増強装置)の開発と並行し、神崎博士は『感情視覚化インターフェース』の実験を進めている。非公式だが、コーエン博士の黙認の下で行われている模様。軍への報告は保留。」《/再帰》


「プロトタイプの副作用です」ミレイは慎重に言葉を選んだ。「使用者の情動状態が眼のディスプレイに反映されることがあります」


ヘイガンは唇の端をわずかに上げた。「副作用」彼は言葉を反芻した。「コーエン博士はそう報告している。だが、あなたの娘のケースを見る限り、計画的な機能のようにも思える」


「結花のことをどうやって?」


「我々は常に優秀な人材と有望な技術を追跡しています」彼は平然と言った。「実はその『副作用』こそ、我々が最も関心を持っている部分なのです」


〔メタ_軍事技術史研究者〕初期のニューラルインターフェース技術における軍事利用の皮肉は、彼らが当初求めていた「強化された知覚」よりも、むしろ「強化された伝達」の可能性に価値を見出したことにある。戦場での迅速な情動・意図伝達は、言語を介さない指揮系統を可能にし、情報戦の新たな次元を開いた。〔/メタ〕


「理解できません」ミレイは困惑した表情を装った。「単なる神経信号の漏出です」


ヘイガンは窓際に歩み寄り、外の風景を見渡した。研究施設の敷地内では、複数の軍用車両が停車していた。


「神崎博士、率直に話しましょう」彼は振り返った。「軍は単なる『見る道具』には興味がない。我々が求めているのは、兵士間のコミュニケーションを革命的に変える技術だ」


「つまり?」


「感情や意図を直接的に伝達できる技術です」彼の声は熱を帯びていた。「言葉を介さずに、視覚的、直感的に。想像してみてください—小隊の全員が互いの知覚や意図を直接共有できるとしたら」


【未来視点_2220.08.04】シナプティック・コンフラックス開発初期フェーズの機密文書から:「軍事利用から派生した感情共有プロトコルは、集合意識基盤技術の重要な起源の一つである。皮肉なことに、最も閉鎖的な組織が、最も開かれた意識形態への扉を開いたのだ。」【/視点】


ミレイの脳裏に、結花の夢の言葉が蘇った。「私の見てるものが、みんなにも見える」


「それが可能だと?」彼女は慎重に尋ねた。


「理論上は」ヘイガンは認めた。「実際、あなたの実験データは、その可能性を強く示唆している。オリジナルの医療目的を超えた応用範囲だ」


ミレイは黙って彼の話を聞いた。彼の提案は彼女自身のスペクトラル・プロジェクトとほとんど一致していた。しかし目的は全く異なる。彼女が考えていたのは治療と理解のための技術。彼らが求めるのは兵器だ。


「具体的に何を望んでいるのですか?」


「『プロジェクト・オラクル』を提案したい」ヘイガンは言った。「あなたのチームに軍の専門家を加え、感情表出機能を全面的に開発する。公式には視覚増強装置の副次的研究として」


「そして結花は?」


「あなたの娘は特別なケースです」彼は微笑んだ。「最初の『成功例』として、継続的な観察とサポートを提供します」


■ ミレイのアパートメント。結花は宿題をしながら、時折左目のプロトタイプを調整していた。最新バージョンは透明な薄膜で覆われ、遠目には通常の義眼と区別がつかない。近づいて見ると、虹彩部分が微妙に発光し、感情状態に応じて色が変化した。


「ママ、見て!」結花が興奮した声で呼んだ。「今日学校で習ったの」


彼女の左目が突然明るく輝き、抽象的な色彩のパターンが投影された。それは単なる光の模様ではなく、結花の感情そのものが視覚化されているようだった——好奇心と興奮の鮮やかな渦。


「すごいわね」ミレイは娘の創造性に感心しながらも、内心では懸念が膨らんだ。プロトタイプは想像以上に結花の脳と統合されつつあった。「誰に見せたの?」


「友達のアヤとエミリー」結花は明るく答えた。「二人とも『すごい』って言ってた。アヤは『私も欲しい』って」


《過去再帰_2184.07.29》東京都立第六小学校教諭・佐藤からの連絡メール:「神崎様、結花ちゃんの『特別な目』について相談があります。他の生徒たちが強い関心を示しており、中には『自分も欲しい』と言う子もいます。医療目的であることを説明していますが...」《/再帰》


「結花」ミレイは慎重に言葉を選んだ。「私たちが話したこと、覚えてる?あなたの目は特別な実験なの。まだ完全に安全とは言えないから—」


「でも治ってるよ」結花が反論した。「前より全然よく見えるし、感情も見せられる」


「感情を見せるって、どういう意味?」


結花は少し考え込んだ。「うーん、難しいな...」彼女は額にしわを寄せた。「言葉にするより、見せたほうが早いの」


彼女の左目が再び輝き、今度はより複雑なパターンを描き出した。青と緑の穏やかな波が、突然赤い閃光に切り替わり、そして紫の渦へと変化する。


ミレイには、それが「説明の難しさ」「伝えたいという欲求」「言葉の限界への苛立ち」の視覚的表現であることが直感的に理解できた。彼女は身震いした。これは彼女の研究の核心—言葉を超えた直接的なコミュニケーション—そのものだった。


【未来視点_2226.05.20】神経言語学会誌の論文から:「前言語的感情共有としての初期《Spectral Void Eye》表出機能は、後のシナプティック・コンフラックス言語構造の原型と考えられる。特に神崎の『情動色彩パターン』は、現代の集合意識内で使われる基本的な共感言語単位の起源として認識されている。」【/視点】


「素晴らしいわ」ミレイは静かに言った。「だけど、約束して。学校では使わないで」


「どうして?」


「この技術はまだ実験段階だからよ。完全に安全だと確認できるまでは—」


「でも他の子も欲しがってる」結花は不満そうに言った。「みんなに見せたいの、私の中がどうなってるか」


ミレイは娘の肩に手を置いた。「あなたの気持ちはわかる。でも、もう少し時間が必要なの」


「どのくらい?」


「もう少しだけ」


〔メタ_社会心理学者〕神崎結花をめぐるエピソードは、後の「視覚放棄運動」の心理的原型を示している。技術に対する若年層の直感的受容と、それを「危険」と見なす大人世代の懸念という図式は、あらゆる変革的技術の社会浸透過程で繰り返されてきた。しかし《Spectral Void Eye》の場合、その変革は単なる利便性ではなく、人間のコミュニケーションの本質そのものに関わっていた点が決定的に異なる。〔/メタ〕


結花が寝た後、ミレイは研究データを再検討した。彼女が当初医療目的で設計した技術は、急速に別の何かに進化しつつあった。もはや視覚の「代替」ではなく、全く新しいコミュニケーション形態の萌芽だ。


そして今、軍がその可能性に気づき始めていた。


彼女は決断を迫られていた—ヘイガンの「プロジェクト・オラクル」に協力するか、あるいは...


彼女のタブレットが通知音を鳴らした。Aether Dynamics社のセキュアメッセージだ。


「プロジェクト・オラクル、承認されました。明日から軍の技術者チームが合流します。期待しています。—コーエン」


■ 一方、サンフランシスコ郊外の軍事施設では、マーカス・ヘイガンが暗い会議室に座っていた。壁面スクリーンには、神崎ミレイの全研究記録が投影されている。


【未来視点_2240.12.03】軍事機密文書の解禁により、「プロジェクト・オラクル」の真の目的が明らかになった。それは単なる戦術的コミュニケーションツールではなく、「集合的戦闘意識(Collective Combat Intelligence)」の開発だった。複数の兵士の認知機能を一時的に統合し、事実上の「集団精神」として機能させるというコンセプトである。これが後のシナプティック・コンフラックスの技術的・概念的基盤の一部となった皮肉は、歴史の逆説として記録に値する。【/視点】


「彼女は同意しましたか?」スクリーンの前に立つ女性将校が尋ねた。


「表面上は」ヘイガンは答えた。「しかし、彼女には別の計画があると思われます」


「監視は?」


「すべて整っています」ヘイガンは目の前のホログラフィック・ディスプレイをスワイプした。「実は、彼女の『副次的』研究こそ我々が最も関心を持っているものです」


「感情視覚化?」


「それ以上です」ヘイガンの左目が青く輝いた。「彼女の最終目標は、おそらく思考の直接的共有です。単なる感情ではなく」


「それが可能なのですか?」将校は懐疑的に尋ねた。


「理論上は」ヘイガンは言った。「そして神崎の娘は、その可能性の生きた証拠です」


将校はスクリーンに映った結花の画像を見つめた。「このプロジェクトの本当の目的を、彼女に知らせるつもりはありませんね?」


「もちろん」ヘイガンは冷淡に答えた。「彼女には『医療技術の副次的応用』という建前を維持します。彼女のやり方に任せ、我々はその成果を...借用するだけです」


「そして彼女が協力を拒んだ場合は?」


ヘイガンの表情は硬化した。「その場合は、他の選択肢を検討します。彼女の娘は極めて貴重なケーススタディです。必要とあらば—」


「了解しました」将校は会話を切り上げた。「明日から実施するのですね」


「はい。神崎ミレイが望むと望まざるとにかかわらず、彼女は人類の次の進化の扉を開こうとしています」ヘイガンは言った。「彼女自身はまだ気づいていないでしょうが」


《過去再帰_2184.08.01》神崎ミレイの個人日記:「時々恐ろしくなる。私が開発している技術が、いずれ人間の『個』という概念そのものを変えてしまうかもしれないと思うと。結花の夢—みんなが互いの見ているものを見る世界—それは素晴らしい未来か、それとも悪夢か?」《/再帰》


■ 夜明け前、ミレイは自宅の書斎で計画を練っていた。ヘイガンとの会話は、彼女の不安を確信に変えた。軍の関与によって、彼女の研究は本来の目的から逸脱させられるだろう。


彼女は決断した。コーエンの期待に応える「オラクル・プロジェクト」の公式研究を進めつつも、真のブレイクスルーは公式記録から外すこと。そして何よりも、結花を保護すること。


タブレットに新しいセキュアファイルを作成し、タイトルを入力した:

「プロジェクト・イマジン—視覚を超えて」


彼女はまだ知らなかった。自分が開いた道が、何十年後に人類そのものの定義を書き換えることになるとは。


〔メタ_神経倫理学者〕神崎ミレイの事例は、変革的技術の開発者が直面する根本的倫理的ジレンマを象徴している。個人の治癒という善意から始まった研究が、軍事利用という潜在的危険性と、最終的には人類の意識構造そのものの変革という予測不能な結果へと導かれていく。技術がその創造者の意図を超えて進化するという歴史的パターンの、最も劇的な事例の一つである。〔/メタ〕


窓の外、サンフランシスコの夜景が徐々に明るさを増していった。新しい日の始まり。新しい時代の夜明け。


ミレイには見えていなかった。彼女の研究室から始まる小さな波が、いずれ人類の意識の海全体を変える大きな波になることを。


意識の統合がまだ「可能性」に過ぎなかった時代の、静かな夜明けだった。

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