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# 『視界の向こう側』


## 第一章


意識の統合がまだ「夢」であった時代の話をしよう。集合的な思考などというものが、SF小説の中だけに存在していた時代の。人間の脳とコンピューターの境界線がまだ明確で、考えるということが孤独な行為だった頃の物語だ。


■ 神崎ミレイは自分の手が震えているのに気づいた。手術室の無影灯が照らす術野の向こう側で、若い看護師が不安そうな顔をしている。当然だ。これは公式には認可されていない実験的手術なのだから。


【未来視点_2217.05.12】この手術が後に《Spectral Void Eye》の基盤技術となることを、この時点で予見できた者はいなかった。Noética社の公式記録ではプロジェクト開始を2184年としているが、実際には神崎の私的実験はそれよりも2年早く始まっていた。【/視点】


「バイタル、安定しています」看護師の声が静かに響く。


術台の上には神崎の一人娘、結花が横たわっていた。わずか九歳。四ヶ月前の事故で視神経を損傷して以来、光すら感じられない暗闇の中で生きている。


ミレイは深呼吸をした。これまでの実験、シミュレーション、動物実験のすべてが、この瞬間のためだった。


「プロトタイプ、接続準備完了」彼女は医療用ゴーグルを通して娘の脳に投影されたホログラフィック・インターフェースを確認しながら言った。


《過去再帰_2182.07.14》医療技術審査委員会の結論:「申請者神崎ミレイによる『視神経バイパスインターフェース』の臨床試験申請を却下する。理由:実験データ不十分、安全性懸念、長期的影響の不明確さ」《/再帰》


ミレイは公式な許可など待てなかった。結花の脳は毎日、視覚野の機能を失いつつある。従来の技術では回復不可能と言われた娘の視力を取り戻すために、彼女はAether Dynamics社の研究施設から極秘に機材を持ち出し、旧友で脳外科医の山田と二人だけで手術に踏み切った。


「神経インターフェース、展開中」彼女は細心の注意を払って操作を続けた。ナノスケールのニューラルリンクが視神経の損傷部分を迂回し、直接視覚野に信号を送る経路を構築していく。


〔メタ_医療歴史学者〕神崎の初期設計は今日の基準では驚くほど原始的だが、その基本原理は現代の《Spectral Void Eye》にも保持されている。彼女が革新的だったのは、生体眼球の機能を完全に代替する発想ではなく、眼球と視覚野を「再定義」する概念的飛躍だった。〔/メタ〕


手術は七時間に及んだ。最後のナノワイヤーが設置され、視覚情報処理ユニットが結花の側頭部に取り付けられた。外見上は、左目を覆う黒い眼帯のようにしか見えないそのデバイスが、カメラから取り込んだ視覚情報を電気信号に変換し、直接脳に送り込む。


「システム起動」


ミレイは祈るような気持ちでスイッチを入れた。


【未来視点_2193.04.26】神崎ミレイの私的記録から:「今でも思い出す。結花が色を見た瞬間の顔を。『ママ、青い』—それが彼女の最初の言葉だった。窓から見えた空の色。その日から私の研究は変わった。もはや単なる医療技術ではなく、人間の『見る』という経験そのものを変革するものへと。」【/視点】


■ 三週間後、Aether Dynamics社の研究施設。ミレイの上司であるナタン・コーエン博士が、彼女のオフィスのドアをノックした。


「入ってください」


コーエン博士は眉をひそめ、タブレットを彼女の机に置いた。画面には結花の最新の神経スキャンが表示されていた。


「説明してもらえるかな?」彼の声は穏やかだったが、目は鋭かった。「君が無断で持ち出した試作機が、君の娘に埋め込まれているようだが」


ミレイは椅子から立ち上がった。「博士、聞いてください。公式チャネルでは—」


「軍事総省が我々の研究に関心を示している」コーエンは彼女の言葉を遮った。「特に視覚拡張技術の分野でね」


《過去再帰_2182.10.03》Aether Dynamics社と国防高等研究計画局(DARPA)間の機密覚書:「...拡張現実視覚システムの軍事応用に関する共同研究。特殊部隊の作戦能力向上を目的とした、非侵襲的視覚増強装置の開発...」《/再帰》


ミレイは凍りついた。「軍事利用?でも、これは医療技術です」


コーエンは疲れたように椅子に座った。「私も最初はそう主張した。だが彼らの資金力は...圧倒的だ。取締役会は決定を下した」


窓の外に広がるサンフランシスコの風景が、突然遠く感じられた。


「そして君のプロジェクト—非公式ながらも成功しているようだ—は彼らが求めているものの完璧な証明になる。侵襲的とはいえ、直接脳に視覚信号を送り込む技術だ」


「結花は実験台ではありません」ミレイの声は震えていた。


「もちろん」コーエンは柔らかく言った。「だが選択肢はある。君の研究を正式プロジェクトとして認可し、必要な資源をすべて提供する。軍事応用を含む広範な研究だ」


〔メタ_技術倫理学者〕初期の《Spectral Void Eye》開発における軍民デュアルユース問題は、後の「神経技術倫理規約」策定の直接的契機となった。しかし皮肉なことに、軍事資金なしには、この技術が医療分野で広く普及することはなかっただろう。〔/メタ〕


ミレイは窓際に歩み、額をガラスに当てた。研究施設の向こう側、リハビリセンターでは結花が新しい「視覚」に適応するためのトレーニングを受けているはずだ。


「私の条件があります」彼女はようやく口を開いた。「民生利用を最優先すること。そして結花の治療継続の保証」


コーエンは頷いた。「約束しよう。そして...」彼は少し躊躇した。「最新の映像分析技術を組み込んだバージョンを設計してほしい。顔認識、目標識別、赤外線視覚...」


軍事用途だ。


【未来視点_2202.11.19】Aether Dynamics社とSynera Inc.の合併でNoéticaが誕生した当日、初代CEOプリヤ・シンのスピーチより:「我々の技術は常に二つの道を歩んできました—治癒と拡張、回復と変革。神崎博士のビジョンなくしては、今日の集合的知性の基盤は存在しなかったでしょう。」皮肉なことに、この発言の時点で神崎ミレイは既にNoéticaを去り、軍部の開発者となっていた。【/視点】


■ 夜、自宅のアパートメント。ミレイは結花の寝顔を見つめていた。少女の左目を覆う黒いパッチは、暗闇でかすかに青く輝いている。データ処理の証だ。


「ママ?」結花が目を開けた。プロトタイプを通して見る世界は、まだぼんやりとしていて、色彩も限られている。しかし、暗闇よりもはるかに豊かな世界だ。


「ごめんね、起こしちゃった?」


結花は頭を振った。「大丈夫。変な夢を見てた」


「どんな夢?」


「私の目が、空みたいに大きくなって、世界中のものが見えるの」結花は小さく笑った。「でもね、変なの。私の見てるものが、みんなにも見えるの」


ミレイは息をのんだ。


《過去再帰_2183.11.10》神崎ミレイの研究日誌:「結花の視覚野の活動パターンに奇妙な変化が見られる。プロトタイプからの入力信号を処理するだけでなく、何らかの出力信号を生成しているようだ。まるで彼女の見ている映像を『出力』しようとしているかのように...」《/再帰》


「面白い夢ね」彼女は髪を撫でながら言った。「でも、そんなことになったら大変だよ。みんなの秘密が見えちゃうもの」


結花は真剣な表情で頷いた。「うん。だから目が教えてくれたの。『感情をもっと見せて』って」


「目が...話したの?」


「うん。でも言葉じゃなくて」結花は自分の左目のプロトタイプに触れた。「なんか、分かるの」


ミレイは動揺を隠して微笑んだ。「もう遅いから、また寝ようね」


結花が再び眠りについた後、ミレイはリビングルームに戻り、研究データをレビューした。プロトタイプの神経インターフェースは、予想以上に結花の脳と統合されつつあった。視覚情報の処理だけでなく、感情反応との連動も見られる。


そして最も驚くべきは、視覚野から何らかの出力信号が生成されている痕跡だった。まるで...


彼女は震える手でメモを取り始めた。もし視覚情報を入力できるなら、理論的には出力することも可能なはずだ。つまり、内部の映像や感情状態を外部に表現する手段として...


【未来視点_2206.09.15】「感情彫刻家」と呼ばれる新しい芸術ジャンルの創始者アニシャ・パテルのインタビューより:「神崎博士の初期論文を読んだとき、これは単なる医療機器ではないと直感しました。それは新しい表現媒体であり、内面世界を直接共有する手段だったのです。《Spectral Void Eye》の真の革命性は、見ることではなく、見せることにあったのです。」【/視点】


ミレイは窓際に立ち、静かな夜の街を見渡した。彼女の頭の中には新しいビジョンが形成されつつあった。


これは単なる視覚の代替ではない。

これは視覚の再定義だ。

見ることと見せることの境界を越える技術。


彼女は決意した。軍事利用の要求を表面上は受け入れつつも、本当の研究——人間の感情や思考を視覚的に共有する可能性——を密かに進めることを。


しかし彼女はまだ知らなかった。この決断が、何十年後に「集合意識」という概念を現実のものとする最初の一歩になるとは。


〔メタ_文化人類学者〕興味深いことに、神崎の初期実験から集合意識社会の成立まで約40年という期間は、他の革命的技術—例えばインターネットや携帯電話—が社会の基本構造を変革するのに要した時間とほぼ同じである。テクノロジーが人間性の定義を変えるには、おおよそ二世代の時間が必要なのかもしれない。〔/メタ〕


夜明け前、ミレイは最後のメモを書き終えた。「プロジェクト・スペクトラル」—軍部に提出する公式計画とは別の、彼女自身の野心的な研究計画だ。


彼女はまだ気づいていなかった。感情を視覚化し共有するという彼女の「夢」が、やがて人類の意識そのものを統合する技術への道を開くことになるとは。


まだ誰も想像していなかった。個人の境界が溶解し、数十億の心が一つに溶け合う世界を。


意識の統合がまだ「夢」であった時代の話だ。

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