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10月 第2金曜日

 



「おねぇってば! おいこら、起きろっ」

 花岡朱兎は、妹の夏鶴の怒鳴り声で目を覚ます。重たい瞼をこじ開けると、細フレームの銀縁メガネ越しに冷ややかに見下ろす夏鶴と目が合った。

「んー……なにぃ……?」

「なにー? じゃないっ。今日はおねぇの当番だぞ、洗濯ー。仕事なんだろ? 早く起きて干してくれよ。こないだみたいに仕事着が乾いてないと困るんだよ」

「えー、じゃあ夏鶴がやってよぉ」

 べしっと手刀が振り下ろされた。料理も洗濯も当番制にしているのだが、マメな夏鶴はきちんと守る。それに比べ、仕事を掛け持ちしているのを言い訳に、朱兎はすっぽかすことが多い。

 しぶしぶ身を起こした。時刻はまだ六時。いつもより眠たい。昨夜は何か突飛な出来事があり、普段より寝るのが遅かったような……?

 洗濯当番でない日はもう少し眠れるのに……と目尻をこする。夏鶴は姉がまたベッドに戻らないか疑いの眼差しをよこしている。

「なによぉ、起きるよぉ。ふわあー、めんどくさーぁ……」

「んなこと言うなら、俺が洗濯全部やるから、おねぇは食事当番全部やってくれよな」

「えー、やだぁ。夏鶴のほうがおいしいもん。んじゃさ、緋馬に言って乾燥機付きの洗濯機買ってもらおうよ」

 兄の緋馬は、家族のための出費を惜しまない。はなおかや実家のリフォームも進んで投資してくれたし、父の新車も購入してくれた。

 そこに漬け込むわけではないが、両親も朱兎もたまにおねだりをする。緋馬が自分に費やすのは洋服だけだ。言うまでもないが、もちろんレディースである。

 いくら兄が数千万稼ぐ高給取りとはいえ、夏鶴だけは物欲がないらしく「別にいらない」を貫き通す。買ってきてくれたものは拒まないが、おねだりは一切しないのが末っ子である。

「おにぃの財布をなんだと思ってんだ? このマンションだっておにぃが買ってくれたのに、まだたかる気かよ」

「自分だってブランドものの服もらってるじゃーん。いーのいーの、稼いでるんだし、ここのマンションはあいつから言い出した話しだし。それに、あいつのコレクションを管理してあげてるんだから、私に頭上がらないもーん」

「うえぇ、最低ー。姉妹じゃなきゃ絶対仲良くなれないタイプだな」

 夏鶴は肩をすくめ、さっさと部屋を出て行った。言われたい放題だが、夏鶴に怒られるのは日常茶飯事なので朱兎は慣れっこである。

 洗濯機を回し、その間にトーストを二枚ぺろりとたいらげた。それでも足りず、ドーナツとスイートポテトでようやく落ち着いた。やっとエンジンがかかってきた。

 そうこうしている間に、ピーピーと洗濯機に呼ばれた。ちょうどプロ野球情報を流していたテレビを止め、ベランダに続く南側の部屋までうんこらしょとカゴを運んでいく。

「んぎゃっ!」

「えっ、えっ、なにっ?」

 何か柔らかいものを踏んだ。カーテンが閉まっていたので暗かったのもあるし、カゴで足元が見えなかったのだ。

「あたたたた……。俊足の足踏むなよぉ……」

 暗がりの中で人影がむくりと起き上がる。少年のままの幼い声は、兄の緋馬だった。

 南側は兄妹たちが『衣装部屋』と呼んでいる、緋馬のコレクション部屋である。ギャル系から甘ロリまで、数々の洋服が所狭しとラックに下げられている。自称『遊撃手だけに守備範囲は幅広いんだ』。

 そんな衣装部屋はシーズンオフ、緋馬が泊まる時に布団を敷く程度。普段はハンガーラックしかないジャングルなので、足元に布団が敷いてあるなどトラップに等しい。

 朱兎は慌てて飛びのく。カーテンをシャッと開け、ぼさぼさの緋馬の姿がようやく目に入った。

「あれ? ……そっか、昨日は泊まったんだっけ?」

「ひどー。ぼくの存在をなんだと思ってんだよぉ。夜遅くまで三人でゲームしたじゃんか」

 言われて思い出した。なんだか寝不足な気がしていたのは、昨夜一時まで兄妹でテレビゲームをしていたからだった。

「ごめんごめん、足大丈夫?」

「うん。でも朱兎、ちょっと太った?」

「ちょっとーぉ! レディになんてこと言うのよー」

 布団越しにもう一度踏みつけた。今度はわざとなので加減はしている。緋馬は布団に潜り「やめろよーぉ」と言いつつも楽しそうである。今夜も試合があるとはいえ、兄妹とのつかの間のコミュニケーションが嬉しいのだろう。

 こんなことしてる場合じゃなかった、と朱兎は窓を開けベランダで洗濯物を干し始める。一応普段は女二人暮らしなので、下着以外はベランダに乾す。と言っても、夏鶴の服は下着以外はほぼ男物なのだが。

「んー? インコ?」

 バタバタと聞こえるので柵から身を乗り出してみると、敷地内の樹木の元で、黄色いインコが羽根をバタつかせていた。

 脱走しようとして失敗したのだろうか? 視力のいい朱兎といえど、三階からでは詳細は見えなかった。たまに鳴き声が聞こえていたので、きっとこのマンションの住人が飼っているインコだろう。

 野良猫にでもいたずらされたらかわいそうなので、ひとまず急いで乾すことにした。気になって途中ちらちら覗き込んでいると、ランニング中らしき人影が立ち止まった。

 顔はよく見えないが女性だ。Tシャツとジャージで朝のランニングといったところだろう。首にタオルをかけ、汗を拭きながらインコのほうへ近寄っていく。

 女性はそっと手のひらにインコを乗せ、きょろきょろ辺りを見渡している。飼い主を探しているのだろう。そしてマンションを見上げた。三階から見下ろしていた朱兎と目が合った。

「この子、お姉さんちの子ですかー?」

 瞬間、お互いハッとなる。

 今日はバットを背負っていないが、朱兎を緋馬と間違えて声をかけてきた少女だ。

 髪を下ろしていても、あちらも朱兎と気付いたようだ。三度目の偶然に、口をぱくぱくさせている。こちらこそびっくりだ。

「ううん、違うのー。多分、ここのマンションのインコちゃんだと思うんだけどー」

 朱兎は首を振り、少女に向かって叫んだ。少女は「えー!」と戸惑い、手のひらで片羽根だけをバタつかせているインコを見つめた。

「とりあえずうちで預かって探そうかーぁ? これ終わったら降りるから、ちょっとそこで待っててー?」

「あっ、はーい!」

 ホッとしたように笑顔を見せる少女。これから学校だろうに、心優しき少女だ。朱兎も笑顔で返し、湿ったボトムスを手に取った。

「インコちゃんってなにー?」

 と、緋馬がひょっこり顔を出した。髪はぼさぼさ、顔はまだ眠たげのままベランダを覗いてきた。

「バカっ! こっち来ちゃダメっ!」

「え、なん……わぷっ!」

 緋馬の顔面を両手で押し戻す朱兎。試合中のあの俊敏さはどこへやらの鈍さで、部屋の中へよろよろと後退していった。

 恐る恐る視線を戻す。いちごネグリジェ姿の緋馬を見られては大ごとになる。少女に見られてしまっただろうか……。

「やっぱり! 花岡さんっ!」

 ホームランでも打ったかのような、いや、それ以上のテンションで、少女は大きく口を開き大興奮しだした。

 見られてしまった……! 「バカ兄貴っ!」と心で叫ぶ朱兎。

 しかし、少女からいちごネグリジェまで見えたかは確かではない。朱兎の肩越しだったし、角度的にも微妙なところだ。

「花岡さんのお姉さーん! 早く早くーぅ!」

 もがくインコを握りしめ、ぴょんぴょん飛び跳ねる少女。預かると言った手前、降りていくしかない……。

 朱兎は背に冷たいものが落ちていくのを感じながら「あ……う、うん」と顔を引きつらせるのだった……。




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