12月 第4金曜日
花岡朱兎が目を開けると、そこには薄暗くがらんとした空間が広がっていた。
ここはどこだろう……? 朱兎は上半身を起こし、きょろきょろしてみる。が、壁に蝋燭がぼうっと一本灯っているだけで、他には何も見えない。
はて? と眠る前のことを思い出そうとしたが、いつものように自室のベッドに入った記憶しかない。特別変わったことのない夜だったはず……。
考えているうち、ようやく暗闇に目が慣れてきた。ここはどこなのか、なぜここにいるのか突きとめなければ……。朱兎は立ち上がろうとしてつんのめった。
「え?」
つんのめった原因は、つまずいたわけではなかった。右足しか動かなかったようだ。朱兎は自分の足元に顔を近付けてみる。左足首に、重い何かが纏わり付いていた。
「足枷……?」
蝋燭の灯りに、黒光りしたくさりが浮かび上がった。左足に枷が付けられており、先は鉄球に繋がっている。
「はっ? えっ? なにこれ!」
動揺してじたばたと引っこ抜こうとしてみたが、鎖がシャランシャランと鳴るばかりで、枷は取れないし、鉄球はびくともしない。両手で外れないものかと試してみても結果は同じだった。
「えー? え、えっ?」
周りに何か固い物はないかと見渡してみた。相変わらずがらんとして何もない。あるのは鎖に繋がれた朱兎と、それを照らす蝋燭のみ。
そんなはずはない……。更に目をこらしてみた。うっすらと縦の線が見えてきた。それが鉄格子だと認識したのに時間はかからなかった。
「牢屋? なの?」
これじゃまるで、よくあるゲームの捕らわれたお姫様じゃんか……と笑いすら込み上げてきた。
「あは、あはは……。まさかねぇ」
まさかまさかと思いながら、恐る恐る見下ろしてみた。緋馬が羨みそうな、淡い桃色のドレスが目に入る。ついでに頭も触ってみた。ごつごつした宝石らしき物のたくさん付いたティアラを被っていた。
「姫っ! 助けに来ました!」
静まり返っていた空間に、突然大きな声が響いた。驚いた朱兎の身体がびくっと跳ねる。
声のほうへ向く。鉄格子の向こうに、松明を持つ人影が立っていた。
「だ、誰っ?」
「私ですっ! 今そちらへ行きます!」
凜と佇むその人物には見覚えがある。見覚えどころか、朱兎のよく知るその人は……。
「え、え、えー? さつきちゃんっ?」
松明に照らされたさつきの姿は、ロールプレイングゲームに出て来る勇者そのものだった。朱兎はほとんどゲームをしないので朧気だが、以前、妹の夏鶴がよく似たコスチュームを作っていたことがあった。
だが、一つ大きく違うのは……。
「バットっ?」
鞘から引き抜いたのは剣ではなく、さつきがいつも背に担いでいる金属バットだった。
「はぁぁぁぁぁぁぁっ!」
金属バットを大きく振りかぶったさつき。ぶぉんっっと風を切る音に続き、金属同士のぶつかるものすごい音が響く。「うわっ」と耳を塞ぐ朱兎の目の前で、鉄格子はぐにゃりと大きく歪んだ。
「う、嘘でしょー……?」
朱兎があっけに取られていると、さつきは凜々しい表情のまま「ちょろいな」とニヒルに笑った。そして人一人通れる程に歪んだ格子をすり抜け、朱兎の目前で跪いた。
「姫、痛むところはありませんか?」
「ひ、姫? え、いや、あの……ないけど……。あっ、そうそう、足が……」
わけは分からないが、とにかくこの枷をどうにかならないものか「これこれ」と指刺してみた。さつきは「なるほど」と一度頷く。
「任せてください姫。少し耳を塞いでいてくださいね」
言われるがまま耳を塞ぐ朱兎。さつきは颯爽と立ち上がると、またも金属バットを大きく振りかぶった。
「え、え、えっ? ま、まさか……」
「うおりゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
反射的にぎゅっと目を閉じる朱兎。ガキンッとバットが振り下ろされた。枷と鉄球を繋いでいた鎖はこなごなに砕け、左足は自由を取り戻した。
「うはぁ、すんごい力……。えっと、ありがとなんだけどね、これ……」
まだ枷だけが付いたままだ。これはどう外してくれるのかと左足に視線を戻した朱兎は息を飲んだ。。
そこには、枷ではなく……。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
左足首をがっしり掴む、人間のちぎれた手首があった……。
※
「あだっ!」
額の痛みで目を覚ました。視界が明るい。見慣れた天井だ。ぱちぱちと瞬きを二度し、そーっと辺りを見渡してみた。
「うっさ! 大げさだっての」
しかめ面の夏鶴の顔が目に入った。手にはハンガーが握られている。どうやら額の痛みの原因はこれらしい……。
「ハンガーで殴ったぐらいで叫ぶなよ。二度寝してないで、とっとと洗濯物干せよな。もうとっくに終わってんぞ」
いい捨てて、夏鶴は視界から消えた。もぞもぞ身を起こす。リビングのソファでうたた寝していたようだ。ローテーブルには甘めに入れたキャラメルティーの残りと、パンくずだけになった皿が一枚。
それにしても変な夢だった……。自分はお姫様でさつきが勇者様? おまけに足枷は誰かの手首で……。
思い出し、ぶるっと身震いをする。夏鶴がハマっていたゲームやアニメを流し見することがあるので、その影響から継ぎ接ぎでヘンテコな夢を見てしまったのだろう……。
「何時?」
言って付けっぱなしのテレビに目を向ける。朝の情報番組には『6:55』と表示されていた。
ようやく頭が回転し出した。今日は朱兎が洗濯係だ。洗濯機を回している間に朝食を取ったまでは思い出した。いつの間にかソファでうたた寝していたようだ。
情報番組がCMに入り、今夜のスペシャル番組の宣伝が流れ出した。各球団の名物選手がずらり並んでいる。「あー、今日は珍プレー好プレーだっけ?」と言ってキャラメルティーの残りを口に含んだところで『にゃはは、女装かな?』と、にっこり笑う緋馬のどアップが映った。
「ぶーっ!」
思わず吹き出してしまった。辺りに茶色い霧が立ちこめる。背後で「うわっ、汚っ!」と夏鶴が飛び退いた。
「だだだだだだって! 今の見た? あいつ、テレビで女装のこと……」
「ジョソウって芝刈りのことかもよ? 顔しか映ってねぇし、前後の会話カットされてっから、腐ってるファンどもの妄想力煽って視聴率上げようって姑息な編集とか。知らんけど」
さすが冷静な末っ子。テレビ出演は球団側が予め内容を把握する。緋馬の女性ファンから、ファンイベントで『花岡選手に女装させてみてほしい』という熱望が後を絶たないと聞くが、ドルフィンズの人気選手はアイドルなみにラインが厳しいので、そう簡単には女装などさせない。
とはいえ、天然な緋馬がいつボロを出さないかと、家族はいつもヒヤヒヤだ。それは球団側も同じかも知れない。このシーズンオフも数本の番組に出演予定なので、また肝を冷やしながら見守ることになりそうだ。
今夜も年末のバラエティ番組の収録があると言っていた。恋人と別々に過ごすクリスマスの不満が顔に出ていないといいのだが……。
「俺、今日晩飯いらねぇから」
夏鶴が布巾を投げてよこした。「えっ!」と振り返った朱兎の顔面に直撃する。
「えっ、何なに! 夏鶴もデートなわけぇ?」
「も?」
レザージャケットを羽織りながら、夏鶴が横目で問いかけてきた。朱兎はぱたぱたと両手を振り、早口で付け足す。
「あ、いや……イブってみんなデートじゃない。うちの生徒たちもみんなそうだから……」
「ちげーよ。バイトだっつーの。クリスマスイベで今日と明日は忙しい」
「あー、そ、そっかぁ。んじゃあ私もお出かけしてこよっかなー……」
朱兎は内心ホッとしている。今夜のさつきとのお泊まりを、夏鶴には伝えていないからだ。
後ろめたいことなどなにもない。緋馬と違って夏鶴は人のことには興味がないので深掘りもしてこないはず……。
「ふーん。んなら戸締まりだけちゃんとしてってくれよ?」
「子供かっ」
「子供だろ。ぶちまけた紅茶と洗濯も。あと、これ落ちてたからちゃんとしまっとけよ」
またも、ひらっと布地の物を放ってきた。今度は直前でキャッチする朱兎。
「うはっ! お、落ちてた……?」
「おねぇの部屋の前に。その歳でそれが似合うんだから子供以外の何者でもないだろ」
んじゃ、とクールに出て行く夏鶴。朱兎はお泊まりの荷物にしまい損ねたスク水を握りしめたまま、「やっぱ、ダメ?」と苦笑いを浮かべる。
「これっきゃないんだもんなぁ……。しゃーない、あっちでレンタルするか」
どっこいしょ、と重い腰を上げる。体型の変わらない朱兎は、夏の水泳指導の際もこの星花時代のスク水を着用していた。生徒たちからツッコミはあったものの、お揃いを着れる嬉しさが勝り、恥ずかしさなど感じなかったのだが……。
吹き出した紅茶を適当に拭き、手早く洗濯物を干す。お泊まりの荷物は玄関に置き、通勤用バッグと鍵を片手に学校へと急いだ。




